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グラングリーン大阪と集落

既に日が沈んだ休みの日。噴水のある深さ20cmの水たまり?池(正式には水盤と呼ばれているらしい)に少年が寝転がっている姿を見かけた。そのような光景なら、全国に世界に、あるかもしれない。しかしだ、この光景の周りにはたくさんのビルがあり、世界的に見ても大規模ターミナルに数えられる大阪駅がすぐそこに見えるのだ。この光景は私の都市観を更新するように迫ってきた。


◼️集落との類似性

大阪に少し用があったので、ついでにまだまだオープンしたてのグラングリーン大阪に行ってきた。そしたら「うわー、すげぇー」と自然と声が出てしまうくらい、真新しくて、クールでカッコよかった。それでいてとても心地よく、ゆったりとした時間が流れているのだ。そんなこともあって、そもそも寄る予定もなかったのに立ち寄り、その後九州にも行ったのだが、その帰りにまた寄るくらい、私は惹きつけられてしまった。

たぶん二日間でトータル7時間くらいグラングリーン大阪で過ごしたと思う。しかし特にやることもなかったので、いろいろ移動しながら本を読んだり、他の人はどう過ごしているのかな〜と観察したり、ただぼっーとしたり。それで思ったのが、「ここから見える景色って何かに似てないか?」ということ。なんか前に見た景色に似ている気がしたのだ。最初は分からなかったが、ふと思い出した。”集落”に似ているのだ。

この感覚がどのくらいの人に共有されるのかは分からない。しかし「まぁそう言われたらなんとなくは分かるかも。」という人は多い気がする。もちろん全員ではないだろうが、多くの日本人が、もしかしたら世界中の人がこの集落の風景を懐かしく感じ、心地よいものだと感じるように、このグラングリーン大阪(うめきた公園)から見えるこの景色が美しく、心地よいものに感じるのではないか。


◼️風景とリズム

では、もう一歩踏み込んで、ビル群+公園というような都会的なものがなぜ集落のような田舎的なものと共鳴しているのかということについて考えていこう。

ここで参考にしたいのが、千葉雅也さんの『センスの哲学』である。

センスの良さとは、「いろんなことに関わる抽象的なリズム感の良さ」になる

千葉雅也『センスの哲学』

私たち日本人の多くは長年、集落に住んでいた。そこには集落の風景に親しみが湧き心地よくなっていったと同時に、人の方から自然に対して意図的に働きかけ、心地よいものにしてきたという長い歴史がある。このことは多くの現代人にとってはあまり馴染みがなく実感が湧きにくいが、私たちの身体は知っているのだろう。だからこの“リズム感“をよく感じるのではないか。

ビルの建てられる向きが揃っていないのだが、その不揃いな感じにある種の心地よいリズムを感じる。またビルの配置だって、多様な選択肢があり、スペースを効率よく有効活用するだけならもっといい位置があったはず。それなのにそれを選ばずにあの場所を選んだのには、合理性を超えた何かがあるのだろう(日当たりの問題も関係はしているだろうけど)。建物の長さや高さにも絶妙なバランスがあった。それによって切り取られる空の形にも何か心地よいリズムがあった。これらのリズムがどことなく集落のリズムに似ているような気がするのだ。

そしてこのような風景のリズムは日本人だけのものではない。海外の作家の絵が日本人を含め世界中の人に受け入れられるように、おそらくグラングリーン大阪のこの設計(風景)も日本人だけではなく、世界中の多くの人に受け入れられるだろう。


◼️暗さ

他にもいいところがある。まず「暗さ」だ。先ほども言ったが、大規模ターミナルのすぐ近くであるということは、夜でも明るい場所として一番にあげられるような場所である。だからこそ、このグラングリーン大阪にある、うめきた公園の暗さは際立っていた。おそらくもっと照明をつくり夜でも明るくすることは可能であったと思う。しかしそれをあえて選ばなかった。そこにはビル街とうめきた公園の、このコントラストをうまく魅力の一つとして作り上げようとする意図が見える。これは後で述べるが多様な空間設計の一つにも役立っていた。

「暗さ」それ自体に目を向けてみる。私たちは基本的に「明るいもの」を良しとし、「暗いもの」を悪く捉えがちである。しかし、そうは言っても、なんとなく暗い空間の良さも知っている。祭りがなんとなく夜の方がいいのもそうだし、デートで行くようなカフェやレストランは薄暗いくらいの方が合っているような気がする。音楽ライブなんかでは暗転をうまく利用しているし、最近はスポーツの演出でも照明を消すようなことはオーソドックスに行われている。

暗い空間のメリットは思ったよりもある。暗さは視覚を奪うので、他の感覚が研ぎ澄まされるらしい。そういったことが前に挙げた例の根拠の一つになると思う。

視覚情報がないラジオ(ポッドキャスト)が最近情報の伝達(広告を含めて)において再注目されているのに似ている。もちろん要因の一つに、ながら作業できるということもあるが、視覚情報を奪われることで逆に情報が入ってきやすいらしいということも大きいようだ。あと人の声自体が共感をうむみたいなので、ラジオはその点長けている。

アメリカ心理学会発行の学術誌『アメリカン・サイコロジスト』に発表されています。
イェール大学経営大学院のマイケル・クラウス博士が行ったもので、内容を簡単に説明すると、1,800人以上を対象に動画の「映像・音声あり」「音声のみ」「映像のみ」の3パターンを見せ(聴かせ)、映っている人の感情を当てるというもの。その結果、「音声のみ」を聴いた参加者が最も正確に感情を当てられたそうです。
 また、この動画をコンピュータ音声で再現した音源で同じ調査を行ったところ、最も正確性が低かったとのこと。つまり、感情を確実に伝える、言い換えれば共感を生むのは「人間の声」だったわけです。

音声広告は、視覚広告より共感を生む?? 文化放送ラジオナビ より


◼️多種多様な空間・経験 〜遊環構造デザインより〜

濃淡のある空間では、場所と機能が一対一では対応していません。しかし、場所と気分が一対一で対応しています。

11の子どもの家 「濃淡のある空間で人は育つ」より

「多様性」という言葉は今の時代のキーワードになっている。デザイン、とりわけ建築・都市空間デザインの分野では多様な空間、多様な用途(例えば道を一つ取っても、ただの移動する空間としてではなく、座って休んだり、誰かと世間話をしたり、時には歌ったりできる)を持ったデザインをすることが求められている気がする。

そしてグラングリーン大阪の再開発ではその多様性というコンセプトを最大限取り入れようとした意図が随所に見受けられる。詳しくはこちらのYoutubeを見るか、Podcastを聴くかして欲しい。


さて、そういった空間を作る上で大切な理論を作った日本人がいる。仙田満さんだ。仙田さんが設計したものには、広島カープの本拠地であるマツダスタジアム、サンフレッチェ広島の本拠地でまだ新しくできたばかりのエディオンピーススタジアムがある。だから広島市民に取っては馴染みが深いと思う。今思えば、グラングリーン大阪と広島スタジアムパークには少し近いものがある。私の専門である教育の関係者にとっては軽井沢風越学園の設計者として知っている方も多いかもしれない。

少し前置きが長くなったが、仙田さんが作り上げたコンセプトというか、理論とは「遊環構造」である。漢字を見ただけではあまりピンとこないと思うので、まずは仙田さんの著者から引用させてもらう。

1.循環機能があること
2.その循環(道)が安全で変化に富んでいること
3.そのなかにシンボル性の高い空間、場があること
4.その循環に〈めまい〉を体験できる部分があること
5.近道(ショートカット)があること
6.循環に広場がとりついていること
7.全体がポーラス(多孔質)な空間で構成されていること

※「めまい」とは、
仙田満が「めまい」という言葉を使って具体的に指しているのは、自然と建築が交差する瞬間における感覚の揺らぎや圧倒される体験です。(ChatGPTより)

仙田満『遊環構造デザイン』より


それを踏まえて写真を載せるので、なんとなくイメージを掴んでいただきたい。

3シンボル・6広場
2 変化にとんだ道
7.全体がポーラスな空間
7 全体がポーラスな空間
7 全体がポーラスな空間
1 循環機能 5 ショートカット(大阪府より)
4 めまい
4 めまい (女子旅プレスより)
4 めまい


このようにグラングリーン大阪には、遊環構造が意図的か無意識か分からないが、こういった多種多様で濃淡のある空間が作られている。それによって、お客さんたちは今日の自分(たち)に合った場所をそれぞれが自由に選ぶことができ、それぞれが思い思いに過ごすことができる。

水盤の近くのちょっとした丘には、オリックスの試合を見に行く予定なのか、ユニフォームを着て昼から缶ビール飲んでるおじさんが姿が。

その近くでは、水盤の水たまりを見つけた側から一目散に(ただまだよちよち歩きでママからストロー付きの水筒を目の前に出されても目線の先には水盤しか見えていない)向かっていく小さな子どもの姿が。

ちょっと包まれたようなスペースでは、4人組の女子グループが長々と楽しそうにお喋りしている姿が。

お買い物帰りだろうか、紙袋を机の上に置いて、話し合っているママ友たちの姿が。

夜になると芝生の上では、たくさんのカップルが寝転がっていっしょに空を眺めている姿と、その横でサラリーマンらしき人たちがクーラーボックス持ってきて飲み会をしている姿が同じ空間にある。

ほんと多様な使い方をされていて、そこには多様な経験があって、それなのに、完全に切れているわけではなく、ゆるくグラデーションでつながっている。同じ時間、同じ空間、同じ感覚を共有している感覚がある。それは都市に生きる人たちにとって、とても大事な”安心感”をもたらしてくれるものになってくれるのではないか。



第2章を読み終わったところで、ビル街に目線を飛ばした。それなのに、視線の先には大きなシャボン玉が漂っていて、焦点は自然とシャボン玉の方に。しかしそれもほんの束の間。0.8秒後にはパッと弾けて消えてしまった。



◼️なかったことにできない違和感

ここまで、グラングリーン大阪の魅力、つまり良さについて書いてきた。しかし何事もいい面もあれば、悪い面もある。私は穿った見方をしがちで、斜めに構えるところもあるから、いいところばかりに目が向くわけでもない。そんなわけでどうしようもない違和感、わだかまりを感じずにはいられなかった。

その根源となるような文章をまずは引用しようと思う。

かつての標準的な小学校は、空間だけを取り出してみれば、ほとんど原っぱと同じ質を持っていた。後の小学校によくあるような、僕にはなぜそんなことが必要なのかがまるで理解できない。教室の境を曖昧にし、子どもたちのいろいろな精神的な欲求に対応して、あらかじめいろいろな場所を用意してあげようとしてつくられた、押しつけがましく、人の心まで土足で上がり込むような小学校のつくり方とは対極の空間である。校舎の小学校の質は遊園地に近い。一見自由に思えても、その自由は見えない檻の中の自由だ。

青木 淳『原っぱと遊園地』

そう。つまり、私はグラングリーン大阪にこれに似たものを感じる。多種多様な空間があらかじめ用意されており、それによって自分に合ったところを選べているようで、それは見えない枠の中での自由であり、誰かの手のひらの上で転がされているようなやりきれない思いがある。

いやいや、それは考えすぎだろ?という人は多いかもしれない。でも私は逆の立場を教育現場で経験したことがある。教育現場に立つということは、授業や練習メニューなどを用意し、ある一定のことを行わせ、何かを身につけさせることである。しかし今の時代強制的に何かをやらせることは難しいし、倫理的にも厳しい。

では、どうするか?子どもたち自身に進んでやって欲しいことやってもらい、学んで欲しいこと学んでくれるように緻密に計算してデザインすることである。そして教える立場としてはそれがうまくいった時の快感は確かにあったし、虜になりそうだった。逆にうまくいかなかったときは、苛立った。つまりそもそも自由なんて与えてなかったということだ。ほんと自分勝手だったなと思う。

そう思ったのは、子どもの立場で考えてみたからだ。「もし自分で考えてやってみたのにそれは先生の思い通りだった」。そんなことが分かったらなんか嫌ではないだろうか。少なくとも私はかなり嫌である。

おそらくこういったことって教育業界に限らず、ビジネスの世界やプライベートの世界にだってありうることだと思うし、もはや日常茶飯事だろう。


※この為末さんの一連の投稿は私の考えの後ろ盾になっております。

為末さんのいうように、管理の仕方として強権的なやり方をしていた時代もあった。そして現在のようにマイルドな形の管理に至った。そこにはどういう経緯があって、どういう影響があったのか。その辺りの歴史を振り返ることで、私たちが今この状況をどう捉え、どう対処していけばいいのかが見えてくるかもしれない。


▪️追放から監禁へ

古代・中世では、癩病者を共同体から追放すれば、共同体の清浄な空間が実現されると考えられたのに対して、近代以降、ペスト患者は監禁され、消毒されることが必要とされた。

櫻井進『江戸のノイズ』

かつては、今よりよっぽど1人では生きられない時代だった。だからこそ島流しなどが重い刑になった。しかし商業の発達で相対的に一人でも生きやすくなったこと。あとそもそも追放できる外部が統治エリアの拡大によってなくなってきたこと。それらのことにより追放→監禁に刑の執行の仕方が変わってきた。


▪️身体→意志→内面の拘束

古い時代には隔離していた者たちを、だんだんと、「治療」して社会のなかに戻す動きが出てきます。しかし、それは優しい世の中に変わったということなのかといったら、そんなことありません。フーコ的な観点からすると、統治がより巧妙になったととらえるべきなんです。

千葉雅也『現代思想入門』

そう。だんだん巧妙になってきている。まず、監禁し始めた最初の段階はとにかく牢屋に閉じ込めておけばよかった。それは物理的・身体的な拘束である。

その後ベンサムがパノプティコン(一望監視装置)を発明したことで、物理的・身体的なものを超えた拘束になる。

パノプティコン(一望監視装置)

パノプティコンでは、看守は囚人に見られることなく囚人を監視することができる。そして、囚人たちからは直接看守の姿が見えないため、囚人たちは、いつ監視されているのかを判別することができない。そこで、囚人はあらゆるプライヴァシーを喪失する。

次は牢屋だけではなく、都市全体を牢屋のように管理する。社会をかき乱すような者を強制的に牢屋に押し込んだり、あるとこに寄せ集めて管理しやすいようにするのではなく、むしろ向こうから好き好んでやってくるようにすることである。資本主義社会の都市にはたくさんの餌があり、それを竿の先にぶら下げておけば、勝手にかかってくれる。もちろん、そのあとは食いつかせ、針をしっかり引っ掛けて逃げられないようにはしていたと思うが、それでも容易だったことに変わりはない。もう一度言うが、勝手にかかってくれる、つまり自分たちから勝手に都市に集まってきてくれる。(そこには表面的には本人たちの選択に対する自由がある)

これは先ほどの為末大さんの投稿にも似ている。自分の意見は尊重されている。でもある方向や枠の中に向かわされている。自由という名のもとで。そして、この一連の投稿の他の部分では、「このような強制はより相手の自由を奪う可能性がある。」と言っている。


そして最後に内面だ。

パノプティコンによってあらゆる自由を失った囚人たちが、唯一「自由」な領域として確保しようとしたのが、看守が決してのぞき込むことができない「内面」であった

櫻井進『江戸のノイズ』

そして内面の世界が解き放たれる。

監視をまぬかれた唯一の「自由」な場が「内面」であったように、人々は、現実の世界で自己を解放することができなくなったとき、虚構の世界を形作って、その中で、現実への不満を解消しようとする。ちょうど、近代文学が自由民権運動の挫折とその抑圧から生まれ出たように、現実の抑圧こそが自閉した内面世界としての「文学」を生み出すのである。

櫻井進『江戸のノイズ』

そのようにして逆境を逆手にとって生み出した近代文学だったが、、

一八世紀後半という時代には、出版資本主義が浸透し、社会の規律=訓練化が深化した結果、幕末から明治にいたる社会経済史的な状況が作られたといわれる。ある面では、そういった「資本主義化」の進行において、「囲い込まれた内面」が形成されたのは偶然ではない。

櫻井進『江戸のノイズ』

それを政治に資本主義にうまく利用されてしまい、さらに巧妙な統治システム・監視社会が形成されてしまったのである。

※これは個人の仮説だが、もしかしたらこれだけ日本がアニメに強いのは、抑圧が強いからこそであり、それによって虚構の世界が豊かになっているのかもしれない。そしてそういった豊かな虚構が豊かであるからこそ、現実世界が抑圧的であっても耐えられる。虚構の世界によってほどよいカタルシスがあり、不満がありつつも爆発してしまうまではいかない。そんな範囲にうまく管理され、それによって安全な世界が保たれている。そして経済的にもメリットがあるのかもしれない。これをユートピアと捉えるかディストピアと捉えるか。


▪️見えなくする・存在しなかったものにする

それでもうまくいかないもの、ノイズにはどう対処したのだろうか。それは見えなくする・存在しなかったものにする。そのようにして解決をはかった。

斎藤幸平さんの『人新世の「資本論」』では、グローバルサウスの問題、外部化社会(レーセニッヒ)の問題、オランダの誤謬など、いかに先進国がクリーン化していく中で、その代償を開発途上国に押し付けてきたかが分かる。そして何より悪いのが、それが見えにくいことである。そんなことは考えたくはないが、それを知りながらこういうことを続けてしまっている会社がたくさんあるのだろう。

他にも開沼博さんの『社会が漂白され尽くす前に』で取り上げられているようなことは、私たちの日常から「不可視化」されているのだろう。

日本のメディアは、日本を捨てたものに対して、また日本的な共同体の価値観に従わないものに対してまるで犯罪者のような扱いをする。

村上龍『希望の国のエクソダス』

メディアは少年を悪人に仕立てようとしたのだった。
メディアは次に少年を無視しようとした。

村上龍『希望の国のエクソダス』

私たちはなにからなにまで管理・支配された代わりに、昔に比べて安心・安全で快適で退屈しない世界を築いてきたのだと思う。それはある意味悪くないことである。しかしだ、ほんとうにそうだろうか。3つの文を引用させてもらう。

さまざまな管理を強化していくことで、誰も傷つかず、安心・安全に暮らせるというのが本当のユートピアなのかという疑いを持ってもらいたいと思います。というのも、それは戦時中のファシズムに似ているからです。
(中略)
秩序をつくる思想はそれはそれで必要です。しかし他方で、秩序から逃れる思想も必要だというダブルシステムで考えてもらいたいのです。

千葉雅也『現代思想入門』

事故リスクを孕んだシステムを積極的に作るというアイデアは、現代社会にはまだ受け入れづらいものだ。社会インフラは他律的に、可能な限り制御できる対象として設計される傾向にあるが、このような世界では生命が関係を結ぶ機会が同時に減少するのだともいえる。自由な進化は社会のための最適化という概念にとって代わられていく。自動化と自律化という思想の違いは、全く異なる結論を招くのだ。

ドミニク・チェン『未来をつくる言葉』

ホームレスも、障がい者も、精神を病む人も姿を消した街は、どんなにきれいに開発されても、ずっと生きづらい、バランスの崩れた場所になっているはずだ。格差を突きつけられる機会が失われているのだから。表向きの「美しさ」は、その裏で不均衡を歯止めなく増殖させてしまう。

松村圭一郎『うしろめたさの人類学』

私はこの3人の意見に似たような感覚をもつ。つまり今のような社会が行き着く先はディストピアだと思う。「じゃあもうすでに八方塞がりなのか?」と聞かれれば、「いや、そんなことはない。」といえる。

ではどのように考えていけばいいのか、私の中にある3つのコンセプトについての話をして終わろうと思う。


▪️3つのコンセプト

  1. 都市の限界と田舎の可能性、その逆も

  2. 影響力をほどほどに

  3. 徹底しない

では、まず上から順に説明していこう。

▪️1.都市の限界と田舎の可能性、その逆も

まず最初に改めて最後につけさせてもらった「、その逆も」を強調しておきたい。私が言いたいのは、都市を貶めて、田舎を奨励したいわけではないということ。もちろん、断然田舎派であり、客観的に田舎の価値が適正値より低く見積もられていることに多少やるせなさは感じる。それに田舎の方が合っているという人はもっといると思う。惰性でなんとなく便利だし都市を選んでいる人は多いんじゃないかな。でもやっぱり都市は必要だし、いい面もたくさんある。

その上でもう一つ言っておきたいのは、

たとえば「よい社会学者の条件とは何か」と問われたとき、それぞれが自分のキャラを押し付けることです。自分が勝てるように持っていきたがる。生活史の聞き取りなどして地味な「現場系」の本を書く私は、社会学者のなかでも、そうした分野の仕事をする人を評価する傾向があります。一方でとことん専門を追究するような人は、海外の大学に行って英語で博士論文を書く人を推したりします。

岸政彦『100分de名著 ブルデュー ディスタンクシオン』

こういうことはあるかもしれませんというか、少なくとも私にはあると思います。


そういう前提のもと、私は都市の限界に
①大枠のところを少人数の人に決められてしまう
②なにかを決定する機会へ参加できにくい
③参加できても影響力が限りなく小さい

という課題があると思う。

その一方で田舎にはその大枠を自分たちでつくり、また変え、調整できる余地が多分に残されている。

ここで原広司さんの『集落の教え100』からいくつか引用して簡単に説明したい。

1.あらゆる部分を計画せよ。あらゆる部分をデザインせよ。
偶然にできていそうなスタイル、なにげない風情、自然発生的な見かけも、計算しつくされたデザインの結果である。

集落は一見自然発生的に見えても、計算しつくされているという。ただここでポイントなのが、それが誰によって計算しつくされているのかということ。次を見てみよう。

7.共同幻想だけが、あらゆる集落や都市を実現してきた。
(中略)
最も気薄な共同幻想は、住み手ではない支配者が単に量の増大をはかって、慣習化された集落のモデルを繰り返し実現する場合に見られる。制度的な踏襲。それと対極となる濃密な共同幻想が、弱い自然の生産力をもった土地に、かろうじて生きてゆくために建設した集落に見いだされる。

それは支配者や一部の人でなく、”住み手”による濃密な共同幻想に支えられてできたものである。そしてだからこそ、美しく自然と調和した集落の風景が現れるということ。

10.矛盾
生活に対応して人びとが発見してゆく小さな考案の集積が、変化に富んだ集落の全体像を形成する。局所的に発生してくる矛盾を局所的に解決してゆくセルフエイド的な仕組みがあってはじめて、集落がもつ自在なようそうが現れてくる。

11.大きな仕掛けは、大きな構造を支える。
大きな仕掛けは、小さな部分によって支えられる。
大きな構想が、そのまま現実されれば、退屈な集落となる。

こういう小さなことの積み重ねが集落の風景を作っていく。そこには一人一人が参加し、影響を及ぼしている。

このようなことは都市には難しい。それでもこういう矛盾を抱えながら悪い面にも目を背けず取り組んでいる姿やそれからできたコト・モノ・ヒトには、小さくて矛盾を含んでいないものには届かないなにかがあるような気もするのだ。そういうところに都市の魅力がある。(他にも都市の魅力なんてたくさんあるだろう。)

そうやって都市と田舎のそれぞれの限界を直視した上でどうするかだと思う。


▪️2.影響力をほどほどに

国というか幕府、政府、支配者、言い方はなんでもいいのだが、そういったものに管理・支配されてしまうのは、それらの影響力が大きすぎるからだと思う。今の時代だったら自分の勤めている会社、GAFAとかの世界的に有名な大企業の影響力も大きい。他には親だったり、教育でいうと、先生やコーチだったりの影響力も大きいだろう。

たまにいるみたいだけど、能力の高い先生が学校が、「教育のことは私(学校)に全て任せてください。逆に余計なことしないでください。」的なことを言うみたい。それはもしかしたら正しい選択なのかもしれない。でもそれをやっちゃったらおしまいだと思う。そうではなく、”薄める”。一人一人の影響力を薄める。それぞれの団体の影響力を薄める。支配欲みたいなのはあるし、影響力を高めたいのもわかるけど、グッと我慢する。それが公正で平和な社会を築く上で大切なことのように感じている。


▪️3.徹底しない

名古屋の中心に川がないということは、都市空間の秩序やシステムを動揺させ無化するマージナルな領域が、都市の外部に排除されたことを物語っている。しかも徳川の江戸が成立してから20年後に建設された名古屋の城下町では、水の領域の抑圧と排除が徹底的に行われたことを示しているのであり、そのことが現在の名古屋の都市としての魅力や陰影の欠如にも関わっているのではないだろうか。

櫻井進『江戸のノイズ』

名古屋市民の人には申し訳ないし、決してそうではないだろうが、なにかを”徹底的に”排除してしまうことで起きてしまうデメリットを伝えたかった時に、ちょうどいい文だと思い引用させてもらった。

エチオピア人の振る舞いからは、彼らが共感に心を開いているのがわかる。かならずしも「分け与えなければならない」という宗教的義務が強固だからではない。物乞いの姿を前にしたときにわきあがる感情に従っているまでだ。だから相手に共感を覚えなければ、彼らだって与えない。実際、物乞いを怠け者だと非難する人は多い。でも、そんな彼らだって道ばたで老婆に手を差し出されたら、渡さずにはいられなくなる。

松村圭一郎『うしろめたさの人類学』

松村さんは、そのあと日本人は共感を抑圧し、その感情をなかったことにしようとしている。そういうことを徹底している、と言っていた。

もちろん徹底するということは一つの美徳であり、日本で言えば職人さんのようにいい面もある。

その上でここで私が言いたいのは、徹底することで排除してしまう何かがあること。それを理解した上でどっちを取るか。いや、どっちを取るかというか、その程度、塩梅なんだけど。

あと私の言う「徹底しない」は「徹底しないことを徹底する」ということでらない。徹底する局面があってもいい。でもそれが全体を覆わないように気をつける、局所だけになるように注意する。私は特に教育において、この徹底しないは大事なコンセプトだと思う。

もっと具体的に言えば、これから益々テクノロジーが発展したときにも、

ロボットにもできるけど、あなたにお願いしようかな。

とか、

AIに聞けば分かるけど、君から聞きたいな。

みたいなことって大切なんじゃないかな。

それぞれのコミュニティで自分たちの便利さと欲望をコントロールするしかないし、コントロールする権限と能力を手放してはいけない。

佐倉統『便利は人を不幸にする』

私たちが直面している真の疑問は、「私たちは何になりたいのか?」ではなく、「私たちは何を望みたいのか?」かもしれない。

ノア・ハラリ『サピエンス全史 下』


最後にまだ読み切ってないけど、「あ、いいな。こういうこと。」って思った文を引用して終わりにしたいと思う。

本書のタイトルに入っている「武器」という言葉についても述べておく必要があります。もちろんこの武器は、「現代社会を生きていくための手段」という意味です。生きていくことは簡単ではありませんし、そういう意味で僕にとって生きることは「闘い」だといえますか。しかしこの闘いは、決して相手が二度と立ち上がってこないように、完膚なきまで痛めつけることを目的にしていません。

青木真兵『武器としての土着思想』




参考文献
千葉雅也『センスの哲学』
11の子どもの家 「濃淡のある空間で人は育つ」
仙田満『遊環構造デザイン』
青木 淳『原っぱと遊園地』
櫻井進『江戸のノイズ』
千葉雅也『現代思想入門』
村上龍『希望の国のエクソダス』
ドミニク・チェン『未来をつくる言葉』
松村圭一郎『うしろめたさの人類学』
岸政彦『100分de名著 ブルデュー ディスタンクシオン』
原広司『集落の教え100』
青木真兵『武器としての土着思想』
佐倉統『便利は人を不幸にする』
ノア・ハラリ『サピエンス全史 下』


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