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スポーツによって高原の見晴らしを切り開くこととは?


さて前回、サッカー的なところはいくところまでいってしまい、高原の見晴らし(ピークに達しての安定平衡状態 見田宗介さんの言葉より)についてしまったのではないかということについて、近年の主要大会を見て私が感じていることを中心にまとめた。今回の前半部分では、これからどんなことがサッカー界に起きていくのか、現在の起きている新たな動きの具体例を出しながら考えていく。そして後半部分で、レベルからの解放を社会に置き換えるとどんなことになるのかを考えていこうと思う。


1 なおレベルを上げる

レベルからの解放と言っておきながら、最初になおレベルを上げるなんていうと、身も蓋もないことのように聞こえるかもしれないがそうではない。レベルからの解放が意味することはレベルの価値が全くなくなることではなく、相対的に下がるということであり、過剰に評価されていたことが適切な評価になるということである。レベルが高くなくても、サッカーをプレーすることを十分楽しめるし、観る側もCLを観るくらいの興奮することができるようになっていく可能性を広げてくれたということ。

ただそれでもスポーツが勝ち負けのあるゲームである以上、強いとか勝つとかそういった価値が極端に下がることはないし、これからも大きな価値であり続けるだろう。そしてレベルが高いからこそ見える世界の豊かさがあり、世界一という魅力は多くの人を惹きつけ続けるはずだ。

そのため、なおレベルを高める(=細部を極める)ことは、今後のサッカーの一つの形である。そもそもサッカーがこれだけ開発の余地が残されていたこと自体がわりとスポーツ界の中では特殊だったと思う。陸上や水泳は大きな技術革新はとうの昔におおよそ終わっている。その中で細部の細部にこだわり、0.01秒を縮める努力をしていて、観客は同じようなレースを飽きることなく見続ける。球技でもテニスも野球も大きな変化はとうの昔に終わっていて、近年に大きな技術革新があったとは思えない。それでも多くのファンがいて、主要大会の視聴率も一定数あるのはいくらレベルがいくところまでいってしまっても、トップレベルの魅力はあり続けることは表している。


サッカーにおけるレベルの高め方


私にはサッカーのレベルの高め方に二通りあると感じる。一つは足し算的な高め方、もう一つは引き算的な高め方。

①足し算的な高め方

足し算的な高め方とは、個人の技術でレベルを高めようとする方法。個人の技術それ自体は、おそらく引き算的な高め方で動きの無駄を省き、武道的な技術の高め方。しかしサッカーの全体のレベルにおいての個人の技術を捉える時、それは足し算的な高め方になる。その意味で今回は足し算的な高め方とさせていただく。

では実際どういうことをするのかというと、スター選手の獲得である。サウジアラビアや中国の金満クラブは大金を叩いて名だたるビッグネームを獲得してきた。それによってそれなりのレベルアップはあったかもしれないが、それなりどまりである。


②引き算的な高め方

「よりシンプルにより速く」。チェスのように、選手を駒のように考えると、サッカーにおけるパターンがある程度出揃った以上、最適解を選び続けることは勝利に繋がりやすく、その質を極限まで高めていくやり方がある。無駄を省き、ただのパスの質(スピードと正確さ)や判断にかける時間を短くしていく。そういったサッカーのレベルの高め方はこれからも必要とされるだろう。


実際は引き算と足し算のミックス

といっても一つのクラブ、チームにおいてどちらか一方の高め方を選択するのではなく、両方をやっていくものだと思う。チームとしてエースの選手にどういい状況でパスを繋げるか。そして最後はその選手の個人の力に任せる。これは今に始まった事ではないが、この質がより一層高まり、勝利の女神は細部に宿るという言葉の価値が高まるだろう。


2 レベル以外のところも力を入れて魅力的に

さてここからレベル以外のことでサッカーをより魅力的している取り組みについて書いていく。まずはじめに前回も触れた「スポーツが憂鬱な夜に」の話し手であるお二人が関係している二つのクラブ、鎌倉インターナショナルFC とクリアソン新宿の取り組みについて取り上げ、その後他のいくつかの取り組みについても書いていく。


鎌倉インターナショナル

鎌倉インターナショナルFC(以下鎌倉インテル)は、神奈川1部つまり実質J7くらいのカテゴリーだが、国連が提唱するイニシアティブ「Football for the Goals」に日本国内では初めての公式メンバーとして登録された。これは1つのサッカークラブとして大きな魅力になるだろう。話の手の1人である河内さんは、クラブを作っていく上で、「機能(レベル)、「哲学」、「視覚」を大事にしていて、この件についてはそのうちの「哲学」のところにおいて、よい実績になったはずだ。ロゴを見て分かる通り、視覚的にもカッコいい。個人的には今後機能の部分でも違いを出してくれることを楽しみにしている、きっと結果を出してくれるだろう。


クリアソン新宿

JFLのクリアソン新宿は今シーズンの国立開催の試合で、入場者数が16480人というJFA記録を更新した。2023年のJ1の平均観客数が18993人、J2が6904人なので、それから考えるとかなりの数である。それを可能にしている要因として、もちろん新宿という立地はあるが、それ以外の部分、哲学の部分に共感しファンの裾野を広げているのは確かだ。



エスパルス

2023シーズンからナイトゲーム全試合で実施した光でスタジアムをオレンジ色に染める「ラランジャ ギャラクシア」


現在エスパルスはJ2だが、元みずほ銀行の「リアル半沢直樹」と呼ばれる社長のもと、2023年シーズンはJ1で一時首位に立った2010年シーズンとほぼ同等の観客動員数を集めた。下記の写真のように、ナイトゲームでの演出や国立競技場で試合を行うなど、ピッチ外での取り組みがお客様さんを集める要因になっている。

ただこのような取り組みはある意味スタンダードであり、他のスポーツ、例えば卓球やバスケ、水泳なんかでも似たような演出をテレビで見た人も多いのではないだろうか。もっと言えばエンターテイメント業界全体で当たり前のものになっているので、今はまだかろうじて目新しいからお客さんが入ってくれるかもしれないが、時間の問題でもある。(サッカー日本代表のユニフォームのy-3とのコラボがやや古く感じられてしまうように)

次はより斬新な何かをやるか、それともサッカーならではの演出、もっと言えばそのクラブ、そのスタジアムならではの演出が求められてくるのかもしれない。



中国「村サッカー」

こちらの記事にある通り、中国では「村サッカー」が流行っているらしい。村のアマチュアの人たちが楽しんでやっているお祭りのようなもので、スポンサーもつけずにやっているようだ。それなのに注目されていて、決勝は全国放送、経済効果は 億円となっている。中国国内のサッカーリーグへの不信感からの反動とも捉えられるが、レベルからの解放といった点で注目に値する。



エジプト ストリートサッカー


村サッカーに似ているかもしれないが、こちらはエジプトのストリートにコートをつくり、試合をしている。このアマチュアの試合にこれだけの観客が集まっていることは注目に値する。この雰囲気というものは決してプロスポーツが行われるスタジアムの雰囲気に劣っているとは言い切れないものがあるように感じる。





社会において、レベルからの解放が意味することは?

サッカーやスポーツにおけるレベルからの解放は、一般社会でいえば能力偏重社会からの解放であり、子どもの世界でいえば学力偏重からの解放になる。

努力と社会的・経済的価値

もちろん努力の成果はあるし、それは一定数評価に値する。しかし万人に対して平等なルール
というものはない。例えば学力について全員が平等な条件でスタート地点に立てているかと言われればそうではないだろう。しかしではどうすれば平等に競争できるかがわからないから、便宜上テストの点数という分かりやすいものにしてるだけである。

例えば『責任の生成』という本で、今の時代キーコンピテンシーが教育に求められているが、このキーコンピテンシーの真逆が自閉症の症状になる。これは自閉症の人たちにとって、社会的な評価をあまりにも得にくい評価基準ではないかという。


あとはそもそも努力できることも一つの才能かもしれないと『どうしても頑張れない人たち』を読んで思った。


そう考えると、それを平等な手続きをしたということにされ、その競争の結果だから、その社会的な評価、それによって得られる経済的な評価を受け入れなさいというのは倫理的におかしいのではないか。

役に立つという価値


人の役に立ちたい・人に喜ばれることが自分の喜びということは多くの人に共有される価値だと思う。『耳をすませば』の割と最後に、聖司が雫を自転車の後ろに乗せて、秘密の場所に雫を連れていくシーンがある。急な坂を上るために、必死に自転車をこぐが途中で雫は自転車から降りて聖司の後ろを押してやる。その時のセリフが「お荷物だけなんて、ヤダ!私だって役に立ちたいんだから!」という言葉。それくらい人は助けられてばかりではなく、役に立ちたいんだと思う。


社会的・経済的価値と人の役に立つという価値の共通点

私たちにとってこの二つの価値

①社会的・経済的価値
②人の役に立っているという精神的な価値

はとても大切だ。なぜならこの二つの価値は幸福度の大きな要因になっているからである。だからこそ大きな問題になっている。それはこの2つの価値が能力(レベル)に依存しているという共通点があるからだ。つまりこれでは能力が低い人は幸せになりにくいことになってしまう。


解決策はあるのか?

『うしろめたさの人類学』という本の中で、ある民族の興味深い話があった。そのコミュニティの優秀な狩人(レベルの高い)はなにか大物を取った時に一定の期間、獲物を取るチャンスがあってもわざとそのチャンスを逃すようだ。「獲物を取ってきてそれを仲間に与える」。そのことを1つのこととして考えると悪いことには全く思えず、むしろwin-winな関係であるように見える。しかしだ、「毎回毎回獲物を取ってきて仲間に与えていると、周りの者に負い目を感じさせる。だからわざとチャンスを逃して、他の仲間に役に立つ機会を与え、自分が感謝する側にまわる。」という言い分は私たちの感覚でも十分理解できる話であろう。



障害者アートという分野がある。障害者のつくるモノはなにか不純物の混じっていない、まっすぐな眼差しのような魅力がある。しかしおそらく前からそのようなモノは作られていたが、そこに価値はなかった。そこにアートという価値をつけていこうとした流れがあったはずだ。

そのことは障害者という一般的に人の役に立ちにくく、助けてもらうことの方が多い人にとって役に立つ機会が増えたことを意味している。昨年盛岡で行われていた「ルンビニーアート展」に行ってスタッフに少しだけ話を聞かせてもらった。その話によると、制作している人たちはお客さんからの声を喜んでいるようだ。自分の作品が誰かを喜ばせる力がある。それが嬉しいし励みになる。


ここで一旦整理したい。

・民族の話は、役に立つ機会の平等を実現しようとした。

・障害者アートの話は、役に立つ機会の範囲を広げた。

つまり、このふたつを同時に実現できればいいということではないか。

民族は役に立つ機会の平等を実現しようとしたが、そもそも役に立つ能力が現代に比べて数がだいぶ限られていたため(おそらく昔は語り手、歌い手、踊り手、狩人くらいしかなかったのではないか)、今なら活躍できた人もその当時は活躍して人の役に立てなかった人も多かったはず。

障害者のつくるアートにもおそらく優劣、いや優劣なんてないのかもしれないけど、売れっ子とそうじゃない人がいて、売れっ子はそうじゃない人が役に立つ機会を持てるように一旦休むようなことはしない。

だったら、役に立つ機会の範囲を広げることかつ機会の平等化のため機会を譲ること。この二つを同時に達成していくような方向性で考えていけばいいだろう。

そう考えると、今のビジネスやエンターテイメントは人の役に立つ機会や人に喜ばれる機会の強奪ともいえる。ごく一部の人や大企業(いわゆる能力の高い人)がその機会を独り占めしていると考えることもできなくない。それは果たして本当にいいことと言えるのか。(ここについてはまた別の機会に書きたい。)


翻って、能力の価値が高まってしまう①

役に立つ機会の範囲を広げることかつ機会を他人に譲ること。この二つを同時に達成していくことをしてもまだ問題点が残されている。能力の価値が翻って高まってしまうということだ。

役に立つことのできる人は増えていくかもしれない。でも逆に他人から「誰でも役に立てる世の中なのにあなたは何も役に立たないね。」と思われたり言われたりするかもしれない。また自分自身で「私だけ誰の役にも立てない。」と思ってしまうかもしれない。これはフィンランド人が幸福度ランキングで世界一に輝いているため、私も幸せでなければいけないというようなプレッシャーだったり、みんな幸せなはずなのに私だけ幸せに感じないというような悲しみ、不幸があるのと似ている。

本当に大切なのは、先ほど言っていたような方向性への努力をしつつも、そうでも役に立つ機会を持ちづらい人が排除されないようにすること。本当に難しいことだけど、ここを目指していかないと。

 多様性、という言葉が生んだものの一つに、おめでたさがあると感じています。
 自分とは違う存在を認めよう。他人と違う自分でも胸を張ろう。自分らしさに対して堂々としていよう。生まれ持ったものでジャッジされるなんておかしい。
 清々しいほどのおめでたさで、キラキラしている言葉です。これらは結局、マイノリティの中のマジョリティにしか当てはまらない言葉あり、話者が想像しうる"自分とは違う"にしか向けられていない言葉です。
 想像絶するほど理解しがたい、直視できないほどの嫌悪感を抱き距離を置きたいと感じるものには、しっかり蓋をする。そんな人たちがよく使う言葉たちです。

『正欲』 朝井リョウ

多様性を大切にする発想とは、多様なものの中には自身の嫌いなものも含まれているという事実を認めてそれを引き受けることだと迂生は思うのですね。嫌いなものたちとも付き合う姿勢がなければ生物多様性は守れません。

『生物多様性 「私」から考える進化・遺伝・生態系』 本川達雄


身体での理解

こういったことって身体的に理解していることが大事だと思う。頭で理解しても、身体レベルで分かっていないと、野口さんの言うとおり、どこかでやっぱり役に立たないものはダメだという考えが、言動に表れる。

その身体での体験をスポーツは提供できる。

私がサッカーのコーチをしていた時のこと。サッカーにあまり興味がなく、ボールの動きと関係なく、走ったり止まったりを繰り返している子がいた。サッカーの選手としては完全にNGでまったく役に立っていないばかりかチームに迷惑をかけていて、大抵チームメイトに怒られていた。しかし時たまいいプレーをすると、周りの子たちは人一倍喜んだ。「コーチ!〇〇がね、ドリブルで相手を抜いたんだよ!!」とか、「〇〇、ナーイス!!」とか。あの体験が本人にも周りの子にもずっと残っていてほしいと個人的には思う。

あの子はそのあとどうなっただろう。あの時の自分はあの子が受け入れられるように他の子たちに促せていただろうか。


翻って能力の価値が高まる② 〜やっぱり美人がお好きでしょ?〜

能力が高いことは、一般的に考えて価値があり、上手い選手やチームは魅力的なことが多い。つまり能力を相対化することが翻って、「やっぱり能力が高いことに限る。」となる可能性がある。それは今のご時世、多様性を尊重し、外見で人を判断するのは良くないという風潮にも関わらず、「そうは言ったって、みんな美人が好きでしょ?」と言わんばかりに、ジムがブームになり、整形や外科手術をする人が増えていることとどこか似ているからだ。

能力の相対化は、今はカウンターとして機能しているだけかもしれない。その反動として能力の価値がまた高まることはある程度致し方ない。しかしこの反動が元の状態よりも高まってしまうことは良くないし、「やっぱり上手くなきゃ、美人じゃなきゃ・・・。」というようになってしまうことは避けられなければいけない。メインストリームといったものからの比較としての価値でもなく、そもそも能力という土俵からも降りていて、それでもなお価値がある。そんな価値を作っていく必要がある。そのために逆に能力があること、美人であることの価値から目を背けず、しっかりと認めていくことが大事なような気がする。上手いもの同士だからの楽しさやシビアな世界だからこその楽しさは必ずある。その一方でいろんなレベルの人たちが集まり、それがまとまるときの美しさ・楽しさもある。どちらかだけを持ち上げるのではなく、そのバランスをとっていくことを考えていきたい。


<参考文献>
『現代社会はどこに向かうのか 高原の見晴らしを切り開くこと』 見田宗介
『責任の生成 中動態と当事者研究』 國分功一郎 熊谷普一郎
『どうしても頑張れない人たち~ケーキの切れない非行少年たち2 』 宮口幸治
『うしろめたさの人類学』 松村圭一郎
『ありのままがあるところ』 福森伸
『生物多様性 「私」から考える進化・遺伝・生態系』 本川達雄
『正欲』 朝井リョウ
『センスの哲学』 千葉雅也
『成瀬は天下を取りにいく』 宮島未奈

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