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病と戦のあいだには−−カミュ『ペスト』論考−−〈21〉

 「あなたは抽象の世界に生きているのだ」というランベールの非難は、実際リウーの現状を言い当てており、リウーはその図星の一撃に、思いがけず心を射抜かれてしまった。
 一方その鋭利な一言を言い放ったランベールの方では、この医師がただ病気のことだけを見ているように思われ、そしてまた、まるでこの医師は世界が病気だけで成り立っているかのように考え、さらには他の者に対しても同じように考えることを強いてさえいるのだ、というようにでも感じられていたのかもしれない。
 もちろんリウーは医師なのだから、何よりもまず病気に目が向かうというのは当然のことではあるのだが、しかしたしかに医師というものは一般的に考えても、病気のことばかりに目がいくあまり、この世界で起きている「病気以外」のさまざまなことが、時として全く目に入らなくなっているようなこともあるのではないか。
 リウーの方はリウーの方で、ランベールの非難を受けて、「抽象と戦うには抽象に似なければならない」というように、自身の立場を内心で弁明する。実際に世界が病気の闇に覆い尽くされ、その深く暗い一色に全てが染め抜かれてしまっているようなときには、敢えて意図して、あたかも世界がまさしく病気そのもので作り上げられているかのように捉えることで、それをもって眼前の困難に立ち向かっていかなければならないのだ、ということでもあるだろう。
 しかし、やはりランベールの言ったこの「抽象」という言葉が、リウーにはよほどこたえたのだと見えて、後に彼はタルーに、自らが医師を志した動機を告白する中においても、この「抽象」の語をあえて用い、それからもたびたび、その言葉を手記の中でも取り上げている。
 また、後にリウーはランベールに、「ペストと戦う唯一の方法は誠実であることだ」と言い、その意味を相手に尋ねられると、「自分にとってそれは、自らの職務を果たすことだ」というように返答している。まさにそれは「公益のための職務」というわけで、以前に(つまり今ここで取り上げている場面において)ランベールから言われた言葉を、ここぞとばかりにリウーは意趣返ししてきた、ということである。
 こうした具合に、「抽象」という言葉にしても「職務」という言葉にしても、リウーはなぜだかランベールの発言を後付けするかのように、その印象に刺さった言葉を繰り返し繰り返し持ち出してくるのである。もしかしたら彼は、ちょっと根に持つタイプなのかもしれない。

 あらためて、リウーはランベールの「あなたは抽象の世界に生きている」という非難に対し、心の中で反駁していた。彼が思うに、たしかにランベールの言い分はもっともなところはある。だがそれは、ランベール自身の「個人」という範疇に関する限りで、ということだ。それをリウーという「他人」にぶつけてくるのは、はたして正当なことなのか、そんなことを言われる筋合いが、「ベルナール・リウーという一個人」のどこにあるというのか。
 彼はこう思ったことだろう。私はたしかに己れの心の門を閉ざし、その心を抽象化することで何とかペスト最初期の荒波を乗り切ってきたのだ。私は私として、このやり方で戦うしかなかった。一体、他にどういうやり方があったというのか。
 たしかにリウーがそのように、どこか釈然としない思いを抱くのももっともなことである。そしてそれは、医師としてであるばかりでなく、「一個人ベルナール・リウー」としての思いであろう。ならばそれを、彼一個人としての思いのままに、もう一方の個人であるレイモン・ランベールにぶつけてもよかったのだ。
 しかしリウーは、そうしなかった。あくまでも医師の立場で、医師の言葉で対応した。それをランベールは「抽象」と言うのである。であればそれは、やはり正当な評価と言わねばならない。このときランベールが相対していたのはやはり「医師である」リウーだったのだから。
 医師という立場は、それに対する人にとっては「権力」として機能するものなのである。まさしく人の命を左右する意味でもそれは権力そのものなのであり、そして権力というものは、やはりどこかしら抽象性を帯びている。
 しかし、そもそもペストに限らず、いかなる疫病や自然災害も「抽象的」ではありえない。それはむしろ生々しいまでに重層的で総合的な事象であり、そして「現実」というのはまさしくそのようにしてあるものなのである。そこから何らかの「意味」を抽象し解釈するのは、あくまで人間の「意識」に他ならないのだ。

 そもそもリウーにしてもランベールと同様に、いやむしろそれ以上に、真理だとか抽象だとかいった「観念の言葉」にはつねづね懐疑的なのであり、それ以上に「毛嫌いしている」と言っていいくらいの拒否感を持っている。
 一方で彼は、ランベールが持ち合わせているような私的な願望やら理想やら欲望などといったものを、自分の意識からできる限り遠ざけるようにしているように見受けられる。
 すでに言ったように、リウーという人は別に禁欲的であるとか求道的であるとかいうわけではないし、逆に捨鉢だとかシニカルだとかいうわけでもない。彼には豊かな感情も知性もあるというのは言うまでもない。しかしどこかしら、外の世界に対する諦念のようなものがあるように感じられてならない。
 そういう意味で、このリウーという人物もまた、ある種の虚無を抱えているのだと、ここであらためて言いうるのである。それはたとえば「平熱常温のペシミズム」というように言い換えてもよい。彼はやはりその意味で、ムルソーの化身でもあると言えるのだ。

〈つづく〉

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