可能なるコモンウェルス〈60〉

 新世界アメリカにおける「特異な政治経験の、その現実的果実」とは、大陸移植草創期からすでにはじまっていた、人々の自発的・主体的な意志にもとづいて構築された自治政治体、すなわち「タウンシップ」において何よりもまず見出される。独立革命を経ることで、そのような「自発性・主体性」はむしろ、住民自治の現実的局面からは失われていきつつあったのだが、ジェファーソンはそれを、「区制(ウォード・システム)」という形で取り戻すことによって、人々の間から遠ざかるばかりとなっていた、具体的で現実的な政治経験をも同時に取り戻そうと構想したわけである。
「…ジェファーソンは、市民が、革命の日々におこないえたことをそのままつづけ、自分の意志にしたがって活動し、こうして、日常的におこなわれるものとして公的事柄に参加できるよう、区に期待した…。」(※1)
 しかしこのような「期待」は、理念として目指されるべき何らかの状態の実現として考えられたものではなく、「すでにある現実の継続」として考えられていたのであった。なぜならそれはすでに、「タウンシップとして現実に経験されたところから出発しているもの」なのだから。

「…郡区(タウンシップ)は、明らかに彼(…ジェファーソン…)のいう『基本的共和国(Elementary Republic)』のオリジナルなモデルであって、この共和国では『人民全体の声が』全市民の『共通の理性によって公正かつ完全に、そして平和的に表明され、論議され、決定される』のであった。…」(※2)
 ここで言われるタウンシップ=エレメンタリー・リパブリックなるものは一体なぜ、「人民全体の声を反映しうる」ものと考えられるのか?それは、この政治体が「現にある状態の維持」によって、あるいは「何らかの結果の保持」において見出されるのではなく、統治の「運動そのもの」として見出されるものだという考えにもとづいている。つまりこの政治体が「統治の作業によって維持される」ということではなく、「統治の運動そのものが、この政治体《タウンシップ=エレメンタリー・リパブリック》として見出されている」のだ、ということになる。言い換えると、「人民全体の声が反映された結果」としてこの政治体があるのではなく、人民全体の「声そのもの」が、すなわち「政治の運動そのものとして聞かれる=見られるものとなる」わけなのである。
「…共和政は、すべての市民に『統治参加者』になる権利、すなわち活動しているところを見られる権利を与えるもののことであった。…」(※3)
 統治の「運動そのもの=全て」が、「全ての人民に見られること」により、それに参加している市民=人民の活動そのもの=全てが、彼ら自身の政治体「共和国」として見出されるところとなる。このように見出されるところの「共和国」とはすなわち、「政治的運動=活動の結果」ではなく、「運動=活動そのもの=全て」であることから、その結果を「ある特定の世代のみに独占される」ということなく、その運動=活動に参加する者である限りにおいて「全ての世代に共有されるもの」となりうるわけである。

〈つづく〉

◎引用・参照
※1 アレント「革命について」志水速雄訳
※2 アレント「革命について」志水速雄訳
※3 アレント「革命について」志水速雄訳

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