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自由詩

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#現代詩

水平線

涙で浮上した水平線のうえへ、ちいさな笹舟を浮かべ、そうすることによってのみ、世界を征服することができるという確信を、いま一度深めてみよう。にじんだ水平線が徐々にほつれてゆき、行き場を失った体積が再びあたらしい海面をつくろうと、波頭のなかで終わりのない握手を求めている。岸壁の下に手を伸ばして、恐怖までの水深を推し量ろうとするならば、袖を浸す前に暫定的な覚悟を決める必要がある。例えば、私が膝を抱えて浅

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夜明け、化膿しかけた肩のうずきが、狭すぎるゴムのトンネルのようになってぼくをしめあげた。不快なしびれが、口のまわりに楕円形の輪をつくる。昨夜、何にあれほど驚かされたのか、もうよくは思い出せない。夢のなかの駈け足。時間が過熱し、燃えつきる。息もたえだえに、こよりの先にぶらさがってふるえている、赤い線香花火の燃えかすのようだと思う。すべての光景から、棘が抜け落ち、すべすべと丸っこく見える。ほら、猫が一

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東の干潟

東の干潟に存在する無数の三角錐や、それを見守るようにして配置された二十三の鳥居、それらを見下ろし南中をつづける瓜のような太陽は、いったい誰のために用意された墓標であったか。その答えを見つけることができぬまま、私は十七度目の春の夜を迎え、いつしか真昼の月の幻覚を見るに至った。真昼の月と真昼の太陽を見分けることができなくなったのは、果たしていつのことだったろうか。あの日、東の干潟に甲殻類の骨片を集めた

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参道

幾日も前から、私は骨のように白い石段を上りつづけていた。朱に染められた鳥居の一群が正確無比な間隔で立ち並び、蔦に覆われた伽藍の存在をその先に予感させた。傾く日の光を背に受け、額から一筋の汗がしたたり落ちる。忘れ去られた信仰は、夏の木立のなかで猫のかたちをして眠っていた。

誰かが夜闇に放った錦鯉の群れが、廃止された参道に沿って夜ごと徘徊している。彼らのその模式的な参拝が、あるいはその瞳が放つ鈍重な

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群衆

世界を滅ぼす衝動にとりつかれた人間が最初にすべきことは、カーテンを開いて、眼下に広がる海のような群衆の目を、一人一人の目をよく確認することである。彼らの目に映るのは、私でも、あなたでもない。銅貨を詰めるためのほこりっぽい皮袋や、荷を運ぶために揺れる馬の肩。ひづめの音がひびく曲がりくねった街路には、チョークで描かれた黄色の汽車が走っている。問題を先送りしつづけていたのは一体誰だったのか。いま一度考え

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逸脱

空気の澄んだこの山小屋では
とおくの白色都市から送られてくる衛星信号が
ノイズなくよく聞こえる。
私たちは毎朝
無彩色の森にひびく野鳥の機械音声のなかから
衛星信号を聞き分け
それを記録する。
記録した信号に重要な暗号が含まれていると
私たちは信じていた。
しかし、私たちの誰一人として
その解読に成功しなかった。

ふねを持たない私たちは
この島から出ることはできず
そしてこの山から下りることもな

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2020/06/04

はるか西の高原には、くちびる草だけが咲く丘があり、そこでは名前をうしなった小鳥たちが鳴いている。そこで何を見たか、君はおぼえているか。あるいはそこで私が何を見るはずだったか知っているか。たましいのない暗闇だけが明かされた敵ではないことに注意せよ。

夜半すぎの青色の散歩道は、どこまで進んでも青色のままであり、夜が明けるために必要なのは、森の奥にある遺跡に吹く風である。古びた風である。君はいまからそ

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岬の観測所

 岬の突端に建つちいさな観測所に私はいて、私の分身はいて、ときどきそのことについて私は(あるいは私の分身は)思いを馳せる。あの夏、灰色霧の集団が空から太陽を引きずり下ろし、夕方がえいえんに続いた夏、岬の観測所にはあなたもいて、そして私たちは、世界に対する反抗のもっとも小さな形について飽くことなく話していた。
 私が(あるいは私の分身が)、月の白い横顔を丁寧にスケッチしている傍らで、あなたは(あるい

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地図

針葉樹をかたどった
つめたい白亜の像が
いちれつに立ち並び
とおく
北の氷床へ向かってつづいている。
私を
目覚めてすぐの私を
混沌とした意識のまま
北へ北へと誘い出そうとする。

かつて
私は地図を描くしごとをしていた。
日にひとつ廃道が生まれる
それを私のまなざしのもとにかき加えるのだ
廃道をより合せるとき
地図にはじめて姿があたえられた。

きっと
この針葉樹の列も
いつかの廃道だろう
木々

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彼について

 彼は左手に黄色の花束を持っている。彼がそのことについて考えるとき、彼は彼でなくなる。しかし次の瞬間、彼であったものは過去、彼であったことを思い出し、そのひとときに限り、彼であったものは彼を取り戻すことができる。彼が彼を取り戻したとき、彼の感覚は即座に左手の感触へと注がれる。その先には黄色の花束がある。思考が明滅する。中断はありえない。
 彼がその思考を彼自身へ差し向けるまで、そう長くはかからない

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北の岬に浮かぶ八面体の中に
ゆうべの空が映し出されている。
夕焼けを行く八つの影が
鳥のかたちをして飛んでいる。

船着き場に係留されている
昨日まで見た夢の数々。
夜になると
ひとつ、またひとつとひとりでに
沖へ向かって漕ぎ出すだろう。

雲が地表に落とす影が
岬から見える
つむじ風の丘を越えてゆく。
ここでできるのは
何かを見送ることだけだ。

もうじき
冬の回廊をとおって
灰色霧がやってくる

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鉄塔

町を見下ろす二十三の鉄塔、を濡らす灰色の雨が四日つづいたさいごの晩、私たちはちらつく街灯の、橙色の光のなかで、なにとも分からない石塔の半分に祈りをささげていた。町中に散らばる枯れた道標を回収すること、そしてその苔生した文字を解読すること。それが私たちに与えられた唯一の仕事だった。その日の私たちも、カッパの中に紫色の疲れを隠しながら無心でそれらを回収しては、意味ありげに並べ替えたり不思議そうに眺めた

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