彼について

 彼は左手に黄色の花束を持っている。彼がそのことについて考えるとき、彼は彼でなくなる。しかし次の瞬間、彼であったものは過去、彼であったことを思い出し、そのひとときに限り、彼であったものは彼を取り戻すことができる。彼が彼を取り戻したとき、彼の感覚は即座に左手の感触へと注がれる。その先には黄色の花束がある。思考が明滅する。中断はありえない。
 彼がその思考を彼自身へ差し向けるまで、そう長くはかからないだろう。しかし彼は自分について何も知らない。世界のだれもが「自分」が誰かを知っているが、「自分」が何かを知らず、そして世界中のどの「自分」も一致することがない。彼は思考を空転させつづける。
 ふいに野良猫が目の前を横切り、彼はいま夜道を歩いていることを思い出す。街灯の青白いつらなり。この道のはるか先には彼の故郷がある。彼は思う。もしや自分の存在は、故郷によって保証されているのではなかったか。この道の先にある、故郷、あるはずの、故郷、あるだろう故郷、いや故郷はあるのか、真に存在しているのか、それは誰が確かめたのか、彼が確かめたはずだ、彼は、彼は何によって確かめられたか。再び野良猫が前を横切る。彼は左手の花束をどこかに忘れたことに気づく。
 思考は無限に続く数列のように、連続的に、ときに不連続に、けれども連綿と、たしかな歩みをつづける。砂時計を反転させるとき、はじめて時間の存在が示唆される。そうだ、時間の経過に従って思考が引き起こされるのではない、思考の連続によって時間の経過が保証されるのだ。
 過去、現在、未来のいずれにおいても彼が彼であると保証せられねばならない。私によって彼が彼であったことが、我々によって彼が彼でありつづけることが保証され、彼自身によっていまこの一瞬において彼が彼であることが保証されるだろう。彼と私と我々の共謀によってはじめて彼が成立し、そして、彼が生み出され続ける。
 故郷への途上、彼は左手の花束を枯らしつくしてしまう。花束を失った彼を彼と保証しているのは、私、もしくは我々である。私、もしくは我々は、別の私、もしくは別の我々によって、保証されているのだろう。それはもしかすると彼かもしれない。私はすでに両の花束を枯らしてしまったが、果たして我々はどうか。

2018/02/15