夜明け、化膿しかけた肩のうずきが、狭すぎるゴムのトンネルのようになってぼくをしめあげた。不快なしびれが、口のまわりに楕円形の輪をつくる。昨夜、何にあれほど驚かされたのか、もうよくは思い出せない。夢のなかの駈け足。時間が過熱し、燃えつきる。息もたえだえに、こよりの先にぶらさがってふるえている、赤い線香花火の燃えかすのようだと思う。すべての光景から、棘が抜け落ち、すべすべと丸っこく見える。ほら、猫が一匹、歩道を直角に横切った。

波は定規で引いたような平行線で、沖に向かってしだいに幅を狭めながら無限に続いている。犬の息にそっくりな海辺の雨の臭い。黒いうねりが、何処からともなくひろがり、水面の小皺を消しはじめた。たしかにこの町はぼくに悪意を持っている。人通りもない。ここではっきりさせておくべきことは、要するに、まだ死ぬ気はないということなのである。たしかにぼくがまだ生きのびているという証拠は、どこにもないのである。しかし、海の魚に、いったいどんな墜落がありえよう。

いま、君との間に、熱風が吹いている。一見、動機にはなりそうにもない、ささやかな動機。囚われた野鳥は、餌を拒んで餓死してしまうという。しかし、何度やりなおしてみたところで、いずれまたこの同じ場所、同じ時間が繰返されるだけのことだろう。じりじりしながら、限界をはかる。それから、君の透明な影を、現像液のなかに泳がせる。斜めにかしいでいる、白い球体。これで溺死に見せ掛ける準備はとりあえずととのった。いずれ君には信じられないだろう。

これ以上の追い討ちをかけたりする必要はまったくない。醤油工場から流れてくる、焦げた砂糖のような臭いが、夕陽のつくる鋭い影の切口に、せっせとやすりをかけて角を落としている。いま君がみつめているのは、机の上の、厚い板ガラスの切口だ。そのガラスは、熟練した技術者が細心の注意をはらって剥ぎ取った、厳冬の太陽の薄皮で染められている。手掛りが多ければ、真相もその手掛りの数だけ存在していていいわけだ。ともかくこれで、所期の目的は達せられたのだ。不審に思うかもしれないが、その動機たるや、呆れるくらい些細な場合が多いのだ。




※すべての文は安部公房『箱男』からの引用である。以下のページ番号は安部公房(1982)『箱男』(新潮文庫、新潮社)に従う。

p. 45 夜明け、化膿しかけた肩のうずきが、狭すぎるゴムのトンネルのようになってぼくをしめあげた。
p.18 不快なしびれが、口のまわりに楕円形の輪をつくる。
p. 21 昨夜、何にあれほど驚かされたのか、もうよくは思い出せない。
p. 18 夢のなかの駈け足。
p. 17 時間が過熱し、燃えつきる。
p. 203 息もたえだえに、こよりの先にぶらさがってふるえている、赤い線香花火の燃えかすのようだと思う。
p. 21 すべての光景から、棘が抜け落ち、すべすべと丸っこく見える。
p. 27 ほら、猫が一匹、歩道を直角に横切った。

p. 98 波は定規で引いたような平行線で、沖に向かってしだいに幅を狭めながら無限に続いている。
p. 25 犬の息にそっくりな海辺の雨の臭い。
p. 32 黒いうねりが、何処からともなくひろがり、水面の小皺を消しはじめた。
p. 27 たしかにこの町はぼくに悪意を持っている。
p. 24 人通りもない。
p. 30 ここではっきりさせておくべきことは、要するに、まだ死ぬ気はないということなのである。
p. 148 たしかにぼくがまだ生きのびているという証拠は、どこにもないのである。
p. 55 しかし、海の魚に、いったいどんな墜落がありえよう。

p. 222 いま、君との間に、熱風が吹いている。
p. 16 一見、動機にはなりそうにもない、ささやかな動機。
p. 45 囚われた野鳥は、餌を拒んで餓死してしまうという。
p. 231 しかし、何度やりなおしてみたところで、いずれまたこの同じ場所、同じ時間が繰返されるだけのことだろう。
p. 17 じりじりしながら、限界をはかる。
p. 48 それから、君の透明な影を、現像液のなかに泳がせる。
p. 75 斜めにかしいでいる、白い球体。
p. 180 これで溺死に見せ掛ける準備はとりあえずととのった。
p. 25 いずれ君には信じられないだろう。

p. 42 これ以上の追い討ちをかけたりする必要はまったくない。
p. 42 醤油工場から流れてくる、焦げた砂糖のような臭いが、夕陽のつくる鋭い影の切口に、せっせと鑢をかけて角を落としている。
p. 157 いま君がみつめているのは、机の上の、厚い板ガラスの切口だ。
p. 157 そのガラスは、熟練した技術者が細心の注意をはらって剥ぎ取った、厳冬の太陽の薄皮で染められている。
p. 238 手掛りが多ければ、真相もその手掛りの数だけ存在していいていわけだ。
p. 19 ともかくこれで、所期の目的は達せられたのだ。
p. 15 不審に思うかもしれないが、その動機たるや、呆れるくらい些細な場合が多いのだ。