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【書評】三島由紀夫『豊饒の海』を読み、やっぱり天才なんだとさらに実感した。

ロッシーです。

三島由紀夫『豊饒の海』全4巻(新潮文庫)を完読しました。

「いや~読んだ~!」という感じです。精神が満腹状態です。

この記事を書く前から、「これは書評にならないな~」と自分で予想がついています。この大作をまだ消化しきれていませんし、そもそも私の拙い文学解釈力で消化できるとも思えません。

でも何か書きたい!書かずにはいられない!だからとにかく書きたいように書きます。


まず、これだけは言いたい。
「面白かった!」「読んで良かった!」と。

「いやいや、子供の感想文かい!」

というツッコミがあるのは承知のうえですが、本当に面白かったです。

『金閣寺』も面白かったですが、個人的にはその上を行く面白さでした。

『春の雪』『奔馬』『暁の寺』『天人五衰』・・・それぞれ全く性格の異なる作品で独自の面白さがあります。でも、それら4巻が個性を放ちつつも、共通して通奏低音のように流れている輪廻転生というテーマがあり、全体として統一感がとれている・・・凄いですね。

個人的には、レッドツェッペリンのアルバムⅠ~Ⅳのような感じです(例えとして賛否両論あると思いますが)。アルバムⅣに収められている名曲といえば『天国への階段』ですね。

1970年11月25日に第4巻の『天人五衰』を書き終えて出版社に渡した後、三島由紀夫は、その日に自衛隊市ヶ谷駐屯地で割腹自決をしました。まさに天国へ行ってしまったというわけです。

どんな心境だったのでしょうね。自分が死ぬかもしれないことを覚悟しながら小説を書くなんて。私のような凡人には想像もつきません。

いずれにしても、この小説は三島由紀夫の衝撃的な死があろうとなかろうと、素晴らしい内容だと思います。


※以下、多少ネタバレするところがあるので、ご注意ください。



『豊饒の海』には様々な登場人物が出てきますが、個人的に本多繁邦が一番キャラクターとしては興味深いです。

本多は全巻に登場し、その巻のメインキャラクターを観察する役割です。『グレート・ギャッツビー』のニック・キャラウェイと同じ立ち位置です。本質的に「見る人」なんですよね。

この本多が、巻が進むにつれてだんだん堕ちていく様が面白かったです。

第3巻の『暁の寺』を読んだ時には、

「ええ!『春の雪』のあの本多が覗き魔に!」

と衝撃を受けました。そこまで見ちゃダメだろうって(笑)。

本多は、単に観察する役割だけではなく、時の経過とともに堕ちていく存在としての役割もあるのでしょうね。

三島由紀夫の思想として、

愛や使命のため若くして死んだ人間 > 老いさらばえ長生きする人間

という捉え方があるように思いました。
一言でいうなら、

「無駄に生きるな熱く死ね!」

でしょうか。

三島由紀夫は、19歳の時に受けた徴兵検査で肺浸潤と誤診されて徴兵を免れています。

「自分は戦争に行っていない人間だ。」

という思いはあったはずです。そして若くして戦争で命を落とした人達に対する「負い目」のような気持ちもあったのではと勝手に想像します。そういう意味では、この小説は三島由紀夫自身の戦争だったのかもしれません。おめおめと生き続けるつもりはなかったのでしょう。

そのあたり、本当のところは分かりませんが、『豊饒の海』を読んでいると、「時が経つほどに全ては劣化していく」という世界観があるように思いました。

それはギリシャ神話的な世界観にも通じると思います。つまり、「最初が一番良くて、次第に時代が悪くなっていく」というものです。黄金、銀、銅、鉄の4つの時代ですね。

確かに『春の雪』の貴族的世界、『奔馬』の武士的世界から比べると、『暁の寺』『天人五衰』の世界は対照的です。

『春の雪』=春
『奔馬』=夏
『暁の寺』=秋
『天人五衰』=冬

という捉え方をすれば、それも当たり前なのかもしれません。だとすれば、『天人五衰』の後にはやがてまた春が来るのだ、という希望も見いだせるように思いました。

そんなことを考えていると、中島みゆきの『時代』の歌詞がふと浮かんできました。


まわるまわるよ時代は回る
喜び悲しみくり返し
今日は分かれた恋人たちも
生まれ変わってめぐり逢うよ

中島みゆき『時代』

『春の雪』の松枝清顕と綾倉聡子も、また生まれ変わってめぐり逢うのかもしれませんね(『天人五衰』を読む限りその可能性はなさそうですけど)。


とにかく、この『豊饒の海』という小説は三島由紀夫が命をかけて書いた小説だけあって、色々な読み方ができると思います。

特に、ラストの部分は唯識の知識なども関係してきますし、様々な解釈が可能でしょう。私には正直チンプンカンプンですけど(笑)。

私は、小説というものは(映画、音楽、絵画でも同じだと思いますが)、建物で例えると1階部分と地下の部分から成り立っていると常々思っています。

1階部分は、誰でも読めば分かる部分です。ストーリーが良くできているとか、登場人物がよく描けているとか、そういう「分かりやすい」部分です。

優れた小説は、1階自体が当然のこと素晴らしいのですが、その地下により深い世界観を湛えているように思います。

そして、優れた小説になればなるほど、地下1階だけではなく、地下2階、地下3階と何層にも分かれているものだと思うのです。映画『インセプション』のように。

そのようにミルフィーユ状になっている小説のほうが、より複雑かつ重厚な世界観を読者にもたらすのでしょう。

一枚のクッキーよりも、ミルフィーユ。そういう複層的な小説を書けるのはやはり限られた人間なのだと思います。

同様に、そういう複層的な小説を読み解けるのも、同じように地下部分に下りていける人間なのだと思います。

私自身はあいにくそういう能力がないので、この『豊饒の海』も1階部分を読んで「凄い!」と思っているだけなのだと思います。

この小説の地下部分まで下りていき、より深く味わうことができればなぁ・・・と、そんなもどかしい思いを抱きます。


そういえば、「地下に下りる」=「井戸に下りる」という連想で、村上春樹を思い出しました。井戸といえば村上春樹ですからね。

そして、ネットで検索したら、なんと村上春樹がとあるインタビューで同じようなことを言っていました!ちょっと嬉しかったです。

人間は「二階建て」であり、1階、2階の下に地下室があって
そこに記憶の残骸がある。しかし、本当の物語はそこにはない。もっと深いところに”地下2階”があって、そこに本当の人間のドラマやストーリーがある。僕は以前から地下一階の下には、”わけのわからない空間”が
広がっていると感じていました。多くの小説家や音楽家が、記憶や魂の残骸が残っている地下一階を訪れることで書いているが、それでは人の心をつかまえるものは生まれない。人と違うことを書きたければ人と違う言葉で書け。もっとも地下2階までいく通路を見つけた人はそれほど多くない。実際に地下一階を訪れて書いた方が、ロジカルな批評はしやすい。モーツァルトやサリエリもそう。生きているうちに評価されたのはサリエリだったかもしれない。でも何かを作りたいと思うならば、地下のもっと奥まで行かなければならない。それをわかっている人は文学の世界では少ない。僕は正気を保ちながら、地下の奥深くへ下っていきたいと思います。

村上春樹のインタビューより


私も地下の奥へ下っていきたいです。

でも、どうすれば下りていけるのか分かりませんし、下りたら戻ってこれるのか分かりません。

それが私のような一般人の定めなのでしょう。
地下に下りていける特別な人達が創った作品を、本多のように外から「見る」ことしかできないのかもしれません。

でも、それでもいいのかもしれません。1階部分だけでもこんなに面白い小説があるのですからね。地下に下りていけないのなら、1階をくまなく探索して楽しめばいいのではないか、と勝手に開き直ることにいたします。

ぜひ、『豊饒の海』をまだ読んでいない方は、読んでみてください!私もまたいつか読み返そうと思います。


「また読むぜ、きっと読む。」

※この台詞の意味が分かる方は、読んだことがある人ですね(笑)

最後に、三島由紀夫の言葉で締めくくります。

時の流れは、崇高なものを、なしくずしに、滑稽なものに変えてゆく。

最後までお読みいただきありがとうございます。

Thank you for reading!

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