【書評】三木清『人生論ノート』は、理解したいという欲望を喚起する現代の古典
ロッシーです。
以前、哲学書を読むことの効用について書きました。
哲学書を読むと、脳に非常に負荷がかかります。まさに脳トレだといえます。
しかし、脳トレを継続していれば、いつかは哲学書の内容を理解できるようになるのか?そこが疑問です。
さて、私がいつかは理解できるようになりたい本のひとつに、三木清の『人生論ノート』があります。
三木清(1897- 1945)は、治安維持法で検挙され、獄死した思想家です。岩波文庫の刊行は三木清の発案で、巻末に掲載されている「読書子に寄す」は本人の草案によるものです。
そして、この『人生論ノート』は、1938年から雑誌『文學界』に連載されて以降200万部を越えるベストセラー&ロングセラーとなっています。新潮文庫版は、なんと今年で116刷です。もはや古典ですね。
文庫では170ページほどの薄い本ですが、侮るなかれ。内容は難解です。私自身、読んでもほとんど理解できません。
具体例として、本書の一部を引用してみましょう。
本書は、このような文章で占められています。
このような文章を読んで、意味をしっかりと理解できる人がどのくらいいるのでしょうか。昔の人が、現代の私達よりも特段頭が良かったわけでもないでしょう。もしそうであれば、それよりも劣る私達が現代まで読み継ぐことはできなかったでしょうから。
難解な内容にもかかわらず、80年以上ずっと読み継がれてきているということは、本書に何らかの力があったのでしょう。
私自身、
「どうも理解できない。でも、なんだかよくわからないが、この本には重要なことが書かれている。」
という気がしてなりません。だから何度も読み返すのです。
という印象深い書き出しから読みはじめ、そして「ああ、やっぱり理解できないわ。」となるのがオチなのですけど(笑)。
ただ、まったく理解できないほどに難解であれば、読もうとは思いません。ところどころに理解できる内容があり、ハッとさせられるのです。例えば以下のような文章がそうです。
約80年前の文章なのに、現代の私達にそのまま当てはまるのではないでしょうか。
このように、たまに理解できる部分があるからこそ、本書はより理解したくなる欲望を喚起するのかもしれません。
そういう気持ちにさせる本は極めて稀だと思います。特にこういったある種の「お堅い」本では。そういう不思議な魅力をもつ本です。
こういう本を書ける人、そしてこういう本を読んで理解できる人というのは、いったいどういう頭をしているのだろう。
そう思わずにはいられません。同じ日本語を使っていても、こちらは理解ができないのですから。
いつか、本書を理解できるようになりたいですね・・・。
まだ読んだことがない方は、ぜひ一度読んでみてください。
※青空文庫でも読めます。ただ、旧字体が多いため読みにくいですけど。
最後までお読みいただきありがとうございます。
Thank you for reading!