72.信者ではなくシンパを増やす
“世の中をより良くしていこう”という目的に向かって積極的な宗教ほど、自分達の所属する教団の教勢が膨らみ、伸び広がっていくことこそが、何よりもそこに到達していく一番の近道なのだと、確信している傾向が見られる。普通に考えたら当然のことかもしれない。
暗がりから抜け出せず、困っている人、迷い苦しむ誰かに手を差し伸べたり、明るみに向かって導いているうちはまだいい。
その気持ちが他宗教と向き合った時、皮肉にも、その信仰心の強固さに比例して、相手の価値観を尊重できず受け入れられなかったり、極めつけは排他性を帯びる危険すらもあり、ここの加減が難しい。
そうやって世の中は、幾百もの宗教・宗派が異口同音を唱えながら相争っている状況がそこかしこで見受けられる。
「宗教は違うようで、どこも同じことを言っているでしょ」
というレッテルを貼る無信心の人が見ているのは、教義の面ではなく、こういうところに対する印象がおそらく強いからなのだろう。
100人いれば100通りの価値観があっていい
私は布教して歩きながら、心のどこかでは「別に布教しなくてもいい」という意識が流れている。ただ、「今日会う人がちょっとでも癒されたり、心が楽になってくれたらいい」という思いだけは抱いている。
天理教を拡大しようとは、実のところ大して思っていない。
信者を増やそうだなんて、そもそも考えもしない。
そんな者が戸別訪問して歩いて一体何にある?
と訝しく思われるかもしれない。
私はただ、在ろう、という意識のもとで一軒一軒まわっているだけなのかもしれない。
天理教者として、在ろう。
教えのもとに、在ろう。
戸別訪問も、おさづけのお取り次ぎも、その在ろうを具体的に体現しているだけに過ぎないのかもしれない。
“…かもしれない”という曖昧な言い回しばかり。
こちらに引き込んだりするつもりはそれほどなくても、天理教の看板を背負って突然家にやって来られたら、ほとんどの人は先ず「宗教勧誘が来た」と警戒を強める。そもそも聞く耳をもたないから、話がかみ合わない。関わり合いを持ちたがらない。玄関先での相対する時間が3秒とか5秒とか、そんなのはざらだ。
こういうことを何年も積み重ね、繰り返しながら、いつしか私はこんな風な思いを抱くようになっていった。
「10人いれば10人、100人いれば100人の考え方や感じ方があるわけで、たとえそれが天理教以外の道筋であったとしても、その人にとって大切なことであったり、救いだったりするのなら、それはそれでいい」
聖書に書かれていることによって救かる人がいてもいいではないか。
お経によって、コーランによって、心の指針、あるいは安寧をもたらされている人がいたっていいではないか。
その人達が大切にしていることを否定したり、見下したりするようなら言語道断。
仮にもし“だめの教え”という大義が、選民意識を芽生えさせているのだとしたら、本末転倒だ。
“おやさまの教えが真の人間の生き方を示された道”であるかどうかは、それを信じている私達の胸の中で光り輝いていればいいわけで、それを他者のもつ異なる価値観を貶めたりするように作用するようでは、“経読みの経知らず”だと言われても反論できまい。
胸の内側の光が、黙っていても外に漏れ、否応なく放たれるぐらいの高い精神性でいられればこの上ない。
お道の人間には、より相応しい態度やふるまい、立ち位置というものがあるに違いない。
共鳴者を増やす
道に繋がるよふぼく・信徒が増え教勢が発展していくことはそれはそれで素晴らしいことだけれど、それと並行して道のシンパ(共鳴者)・共感者を増やしていく働きかけも意義あることだと私は思っている。
入信か否か。
別席運んでもらうか否か。
…そうやって何でも白黒はっきりさせ過ぎず、どちらともつかないグレーゾーンを楽しむだけの余裕が、このお道の伝道にはあっていい筈だ。
【2015.11】
おまけ
先日、私が持っているある資格のリモートでのフォローアップ研修に参加していました。
ルームに分かれて数名で意見の遣り取りをします。
ファシリテーターは仏教僧侶で大学教員の先生。
参加者は医師・看護師・社会福祉士・宗教者(ピーナッツ)など。
医療職者や、お坊さん達との意見の遣り取りをすることが本当に増えてきたここ数年。
この記事が書かれたのは9年前。
…当時の思いが、ちゃんと現在の自分に繋がっている気がしましたね。
ここまでおつき合いいただき、ありがとうございました!
それではまた(^O^)