78.修養科物語(4)-徳積みに寄り添う-
修養科生時代のエピソードを書き綴っています。
前回未読の方は先にこちらを↓
Aさんとの一件があって以来、おさづけの取り次ぎ回数を積み重ねて歩く日々に、何か、急に違和感を覚えるようになっていた。取り次ぎ回数はちょうど100回を超えた辺りでの意識の変化だ。
本当にこれでいいのだろうか?
このままひとりでがむしゃらにおさづけを取り次いでまわるその先に、果たして自分が納得するものが得られるのだろうか?
そんな時、就寝前に詰所の部屋で読んでいた深谷忠政先生の著書のある一文に触れ、私を新しい試みへと導くキッカケを与えてくれる。
この口伝と出会い、目から鱗が落ちるような思いだった。
「自分が徳を積むように努力する生き方」よりも「人に徳を積んでもらうように努力する生き方」をおやさまは望まれているというのだ。
これだ。
自分にいま足りていないのは正にこれだと思った。
確かに、自分ひとりの努力次第で様々なことに挑戦して到達していくよりも、ひとりではなかなか先に進めない人の背中を押して導いていくことの方がより難易度が高いように感じる。
でも、そういう「互い立て合い助け合い」の実践もやりがいがあるではないか。
そう思い立った私が真っ先に顔を思い浮かべたのは、クラスメイトのTさんだった。うつを患って修養科を志願してきた20代後半の寡黙な男性だ。
他のクラスメイトともあまり馴染めず、ひとりでいる時の方が多い彼をつかまえて、ある日の昼休みに提案する。
「これから残りの修養科生活中に、私と一緒に100人の方におさづけを取り次いでみませんか?」
彼は既におさづけを拝戴しており、ようぼくではあったが今までほとんどおさづけを取り次いだ経験がなかった。
急な申し出に、とんでもない、と慌てた様子で首を横にふり、
「じ、自分にはとても無理な話です…」
と言って、あっさり断られた。
それでもめげずに彼を説得し、修養科棟吹き抜けにいた今まで一度も話しかけたこともなかったある身上者のもとへ二人で近づき、私が仲介役となって事の理由をお相手に説明する。その方は快くこちらのお願いを承諾して下さった。
「さっ、さっ、Tさん、お願いします(^^)」
彼を身上のその方の眼前まで誘導すると、見ず知らずの方と会話を交わすことも、おさづけを取り次ぐことにも不慣れなTさんはすこぶる戸惑いながら、うろ覚えのおさづけ取り次ぎの手順を踏み、小さく頼りなさ気な声で「あしき~はらひ…」と取り次ぎ始めた。私はそのすぐ後ろで添い願いを心がけた。
広がる“祈り”の輪
それから毎日Tさんと行動を共にするようになり、消極的で引っ込み思案の彼を笑顔で鼓舞し、一緒におさづけを取り次いでまわるようになった。
私は、かつてのおさづけを積み重ねる日々から一変し、ひたすら仲介とサポートに徹し、そばで添い願い祈る日々を送った。
なに、祈り方が変わっただけだ。
直接手をあてるか、そばで手を合わせて共に祈るかの違いだけ。
だけどそのほんのちょっとの違いが、尊さの上では、とてもとても大きな違いのように感じていた。
自分達のクラスや同期だけに留まらず、一期下の赤い名札をつけた身上者にも声をかけ、Tさんはおさづけを取り次がせていただく。
Tさんとの昼休みおさづけまわりと並行して、クラス内の身上の重い方や、体調が悪化し、途中で「憩いの家」に入院することになっていた命が危ぶまれている重病のクラスメイトの平癒を祈願し、年代が近く仲が良かった同じ組係の三人で、毎朝、神殿廻廊拭きを心定めする。
ただ個人的に頑張るのではなく、より多くの人と協力し合い、勇んだり、人のことを思い合う輪が広く波及していくことを心に置くようになっていった。
つづく
おまけ
Xでいつもおみかけするpapa_okadaさん(@papa_okada)に許可をいただき、X上でポストされているおぢばや神殿の画像を使用させてもらいました。
毎回いい風景なんですよね(^^)
papa_okadaさん、ありがとうございます!
今後も時々お世話になります‼
修養科1000期、かなり大勢の方が集まったらしいですね。
私の大教会でも今期はいつもよりも多めに志願者が出ているそうです。
旬なんですかね…。
いまこうして当時を振り返ると、やはり20代のピーナッツはまだ純粋というか、青臭いというか、思い返すとけっこう無茶なことやっているんだなと感じながらnoteを書いています。
さくっと3話ぐらいで終わるかなと思ったら、もう1、2話ぐらい続きそうな内容量でした。どうか辛抱強くおつき合い下さい(^_^;)
ここまで読んでいただきありがとうございました!
続きもどうぞまたお楽しみに(^^)