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84.多数決なんかじゃあ決まらない-天理教的な代表者の選び方、組織運営の要点-
このところ、世の中は何かと選挙にまつわる話題に事欠かない。
ある選挙立候補者が、有権者から多数の指示を集めて選挙で選ばれた筈なのに、「なにも考えてもいない、わかっていない若い連中がエライことしてくれた」と誰かが選挙結果に轟々の批判を走らせている。かと思えば、「テレビばかりしか見ない年寄りが事の真相も知らずに勝手なことをのたまっている」とまた違う誰かが反論もし、正直、傍から見ていても果たして一体何が真相なのかわからない、そんな錯綜した状況の中で意見の分断が静かにネット内外で発生し混乱を極めているように感じている遠くの部外者・ピーナッツ。
よくわからんなぁ…(´ー`)
そもそも、多数決で物事を決めることが当然の世の中の流れだけど、そのやり方ってデメリットが多過ぎる気がしている。
仮に100人の村で意見が真っ二つに分かれたとし、Aに51人が、Bに残りの49人が支持したとして、実質ほぼ同数であるにも関わらず、「Aが過半数を占めているので、Aこそが最も民意を反映している」と考えるのが多数決の論理。
おかしくないそれ?
でもそれがまかり通るのが現状のルールの根底にあるものだ。
そんな中、天理教内ではそういった多数決的な在り方とは異なった思案の基準で、物事を決めたり、代表者を選出したりしているということを、ご存知だろうか?
談じ合いに談じ合いを重ね
昭和16年に始まり現在へと続く天理教団における公議制の場・「集会」。
その歴史を紐解けば紆余曲折はあったようだけれど、その編纂された集会史に触れてみると、昭和34年、中山正善・二代真柱が時の集会員に対し、次のようなことを述べている。
(集会は)忌避なく事柄を談じ合うのであるが、私の望みとするところは、あくまでも満場一致で事をはかってゆきたい。
ややもすると、満場一致ではなく、多数決で事を運ぶ風潮が世の中にはとられている。しかし私は、かようなことを最善の方法とは思っていない。世間では多数決がとられるから、道の内らでも多数決をとらければ、表へ出たような明るい方法ではないというような気持ちは、だめの教えから申して本当ではないと私は考えている。
一人でも半人でも、得心のいかない場合があるならば、あくまでも集会は談じ合いに談じ合いの上、皆の心が一つにまとまった時に、そこに決定する方法が集会の特色と考えてほしい。否、さような前例を残してもらいたい。
このように、集会という協議の場を台に、二代真柱はお道の人の集場における物事の決議には「談じ合いの理」と「満場一致の満足を治める」ことの大切さを明言されていた。現代の風潮から顧みても、60年以上も前に既にこういった言及が為されていることは決して見逃せないし、二代真柱の一過性の時代感覚に翻弄されることのない慧眼ぶりに舌を巻く思いを感じずにはいられない。
(余談ですが、これに関連したテーマを以前にも記事でまとめています。未読の方はぜひそちらも読んでみて下さい)↓
信仰に基づいた組織運営
それでも世間は西洋欧米式の多数決の論理をベースに物事が動いていることはどうしても否めない。これはそういった構造によって政治や社会が為されて久しい今日において、根本部分をガラリと改めてしまうということは如何ともし難い事実だろう。
しかしながら、「ならばお道も世の中の常識に則って規則や理屈を立てるべきでは」という考えが起こるようであれば、「いや、それは違うんだよ」と明確に根拠を示すことできる例を挙げたい。
それは昭和23年、戦後の思想的混乱の渦中における天理教青年会内で起こった出来事。当時、大東亜戦争敗戦によりGHQ占領下での急速な民主主義化の流れが国内に広まっており、教団も例に漏れずその余波を受けていた。
天理教青年会史を読んでいると、物事の事実整理にどこか奥歯にものが挟まったような表現が散見している印象をおぼえる私は、これは個人的推察ながら、おそらくきっと文章に表し難い様々な「言うに言われん」相当な種々摩擦があったんじゃないかなぁという感想を抱いている。
シンプルに言ってしまうと所謂“会長問題のふし”という、二代真柱が青年会長退任を迫られることとなった事件のことだが、ここの歴史に青年会史編纂者はこんな言葉でもって記述に及んでいる。
本来、規則といい組織といい、何のために存在するのか。本教にとっては親神天理王命への信仰に基づいてこその規則であり組織であることが大前提であり、この点を外しては、いかなる規則も組織も不毛である…。
と、お道における組織運営の過程で、一時の風潮を見て順序を違え、世上の道理や応法の道に陥らぬようにと強い戒めの言が添えられている。
時期を見ると、政権や地方県政のそれだけに限らず、これから各教区でも教区体制の一新、役職の改選といったことが多かれ少なかれ起こってくると思うけれど、そういった物事を決定する時、あるいは代表者を選任するといったことが起きた時、多数決(あの人が望ましいという意見多数、あるいはその反対も)といった世の中の理屈を思案の基準とするのではなく、私達には私達に必要な思案、見つめる軸があるとピーナッツは密かにそう思っている。
最後に、先述の二代真柱・青年会長退任問題の渦中で、散々頭を悩ませていた時の青年会本部委員に向けて真柱が託したという走り書きの手紙の一部を紹介する。全部で8つの項目が書き記されていたが、特にその中の1つ目が私の目を引いた。ほか、残りの7つ等詳細が気になるのであれば、ぜひ天理教青年会史第4巻末尾にあたってみて欲しい。
この先、決め事において容易にもし、解決を見ない悩ましい問題が巡ってきたならば、その時は二代真柱は何を要点とすべきと挙げたのか…?
“一、信仰的な円満解決がのぞましい
此のふしから芽を出すこと”
【2016.2 コラムを大幅加筆修正】
おまけ
昨日、さる組織(通称・ジェダイ)の会合で、人生初のふぐ刺しを食したわたくしピーナッツ(^^) …こんな味だったんですね、ふぐって。
今秋、ジェダイの役員改選が行われ、ピーナッツも組織役員の末席に加えていただきました。今年は様々な星間戦争がありましたが、来年は更なる活動の展開が予想される我々ジェダイ(なんの組織だよ)。
天理教人・ピーナッツは、こうして益々天理教的人へと変貌していくのでした…。
ここまで読んでいただきありがとうございました‼
それではまた(^^)