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82.信仰者はどう変わっていけばいい?

布教活動していると、非信者の方と話をする機会の中でこんなことを訊ねられたこと、ないでしょうか?

「信じたら何が変わるの?」


私はよくそんな風に問いかけられていたような気がします。
もし皆さんならそんな時、どう答えるでしょうか?

教えに基づき、教科書に照らし合わせた思案や答えを求めた方がいいのかもしれませんが、本当のところ、ピーナッツはそういうことをnoteでしたいわけではありません。どちらかというと個人的な悟りや閃きを中心に何かを考え、言葉にしたい人間です。

そういう上でも天理教を語るのではなく、あくまでも「天理教なものを考え、語る」という姿勢を大切にしていきたいなと思っています。

そんなわけで雑文・雑感・雑言をピーナッツはズラズラと語っていきます。


信仰から何を得るのか

「真剣に信仰したら何がそれまでと変わるのか」を考え深めることによって、自身の求道の上でも、また対他者へ向けた伝道の上でも意義あることだと思っています。

信仰したら…今までずっと治らなかった病気が治る。

信仰したら…長年の悩み事が急に解決する。

信仰したら…人生がスムーズに事が進むようになり俄然生きやすくなる。


…こういったそれまでの困り事や悩みが解消に向かい、好転していく。天理教に入信し、信仰を続けていくと確かにそういう「良いことが起こって来た」という人達も少なくはないでしょう(いやむしろ多い筈)。そうなったら本当に嬉しいですよね。長年の苦しみから解放されるのであれば「信仰した甲斐があったー‼」と誰だって感じるかもしれません。

でも、そういうご利益をいただくことは信仰する上での“主目的”ではありません。もしかしたらそれは、神様の思いに沿うと誓った人々に対し、神がその人の頭を優しく撫でるように証拠として与えてくれたものの方が多いのかもしれません。いわば“初回特典”とか“副産物”みたいなものです。

“都合の良い結果に恵まれる”は目に見える形の部分での出来事です。
しかし信仰の本質は、目に見えない部分での変化の方がより重要になります。目に見えないとはつまり胸の内側、“心”の部分です。

心で思ったこと、感じたことが大事

私達は心で思った通りでしかこの世界を感知し、生きることができません。
そして視覚的・聴覚的・触覚的・肌感覚的といったあらゆる触れることのできることに対し、主体的に感じたことだけがその人にとっての現実となります。

もしも、晴れた日の空の爽やか青みが天いっぱいに広がっていたとしても、
昨夜の雨の影響でぬかるんだ足元の泥の方に意識が向いてしまうのであれば、この瞬間は「足元がぐちゃぐちゃで靴が汚れてしまった」というのがその人にとってその瞬間の現実として確定してしまいます。
少々余談ですがどうも人間の脳って、一度に異なる複数の現実を同時に見ることはできないらしいのです。
「空がきれいで爽やかだな」と感じたならそれ、「足元がちょっとぐちゃぐちゃしているけれどいい天気だ」と感じたならそれ、「げっ、靴が汚れた、最悪‼」と感じたならそれ、同じ空間、同じ瞬間にいたとしても、感じ方ひとつで人は全く別々の世界を生きていることになります。

そして、ここが重要なのですが、思ったこと、感じたことに従って、タイムラグを経てその感情に沿った現実が後から自分の目の前にやってきます。

つまり、嬉しい‼ とか、楽しい‼ といった気分、ワクワク感、ふわふわ感に感情や思考を占める割合が多ければ多い程、その心通りに後々の現実が書き換わって行きます。

ならば当然、逆もまた然り。
イライラ、ギスギス、ガミガミ、と負の感情が内面を占め、見えた物事、聞こえた情報を悪意的に解釈し続けていると、それに則った心通りの現実へと書き換わり、更に後追いでイライラギスギスガミガミしたくなるような出来事がどんどんやってくるようになるわけです。

これをお道では“心通りの御守護”と表現しています。

心とは思考であり、感情です。あるいは解釈もそこに含まれるかもしれません。


それまで信仰していなかった人が天理教の入り口に立つと、神様は「よく来たよく来た」と頭なでなでの良い事を見せてくれますが、それはいつまでもそう続きません。いつまでもそのままだと、人間はうっかり神様に願い事が叶うことばかりを期待するようになってしまいます。
だけどこの信仰の「願い通りには受け取らない、心通りに受け取る」と教えられていますので、信心生活の本番はその心の在り方、思い方、感じ方を神様の思いに近づけていくことで始まっていくわけです。


人をたすける心とは

心の内側を改めて行くと同時に、日々の行いをも変化させていくことが大切でしょう。陽気ぐらししていく必要があるんですから。

ではその陽気ぐらしって、具体的にどうことなのか?

ピーナッツはシンプルにこう表現しています。

①先ずは自分が楽しい。

②自分のまわりにいる人達が楽しい。

③それを眺めて下さっている神様も楽しい。

この3つの“楽しい”にねじれがない状態=陽気ぐらし


そしてこの①②③の順番も逆になってはいけないと思っています。
自分が楽しいを後回しにして周囲を満足させようとしたら、それはいつかどこかで必ず“自己犠牲”になってしまう怖れがあるからです。
反対に自分が楽しいにばかりフォーカスし、周囲に不快や不満を与えるのであれば、それは単なる“自己中心的”なだけの状態です。
更には、自分と周囲のみんなが等しく楽しいという状況でなければ、神様はきっとそういうものを楽しいなどとは思ってはくれないでしょう。(人知れず心を尽くしている人は可愛いとは思ってくれているでしょうけれど)

先ずは自分が満たされること。その満たされあふれたもので周囲の人が満ちていくということ。神様はそんな姿を前提に“互い立て合いたすけ合い”を望まれていると思うんですよね。(あくまでも個人的な悟りですが)

この「楽しい」の応酬、連鎖を心の内側で繰り返し、それを行動に映していくことが「人をたすける」へと発展させていくことに繋がるのですが、では、「人をたすける」って具体的に何をすることなのか?

行為の面では、それぞれの状況・環境・時と場合によって様々だと思います。その中で、対人関係において、共通する心の持ち様があるのではとピーナッツは思っています。
それをここでは敢えて言語化してみました。

「人をたすける」とはつまり、

“人を、ちゃんと一人の人間としてその人格を認め、その生き方や考え方が
たとえ自分とは異なったものであったとしても尊重し、かつ丁寧に接し扱うこと”この表現を裏付けとし、関り合いや行動に結びつけていくこと。

これなんじゃないかと思っています。


“にをい”とは

天理教では漠然と布教伝道をしていくことを“にをいがけ”と言いますが、ピーナッツは素朴な疑問として、

匂いとか臭いって、勝手に身体から出て来るものじゃね(・ω・)?


という思いがめぐっています。いや、確かに香水とかつけたら良い匂いは多少は作れるんでしょうけれど、それこそ外側に貼り付けたいっときの贋物の香りでしょうから信仰を語るここでは論外ですよね?

にをいって、“出す”ものじゃなく“出る”もの。

じゃあどうやったら良いにをいが出るようになるのかと考えると、やはり先述した心の在り方感じ方と、「人をたすける」態度の在り方が調和した状態を生きていると、良いにをいと呼ばれる香りが自然醸成され、発散され、その近くにいる人に向かっていく。これが所謂「にをいがかかる」なのではないでしょうか?


「信仰によって人はどう変わっていくことが望ましいのか?」を具体化したいという思いで見切り発車したのが今回の文章でした。粗が目立つし、それは違うんじゃない? と感じられる方もきっといるでしょう。
なるべく教典とか、教科書には依拠せず、教語の意味を自分なりにひも解いて解釈してみました。ツッコミどころが多いかもしれませんが、皆さんはどうお考えでしょうか?


ピーナッツは今夜も娘とアマプラで「ハンターハンター」を観ます。
頑張っていない男の駄文におつき合いいただきありがとうございました。

それではまた(^^)


【2024・11・11】


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