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69.本日の雑念(7)-布教は強調してすることなのか-

9月。
例年の「教会長路傍講演の日」に始まる月末の布教活動強調の集まりと同時に、「全教会布教推進月間」なる動きも発表されており、あちこちから「今月は布教に力を入れよう」という雰囲気が漂っている感じがしている。


私は、20代から30半ばにかけては戸別訪問以外ほとんど何もしないという狂気的な日々を送っていたし、教祖130年祭当時は、「こういうことは本当にこれで最後にしよう」と割り切るつもりで、徹底して数の積み上げにこだわって実働していた。

にをいがけ件数も、おさづけのお取り次ぎも、数、数、数の3年間。

そして教祖130年祭を迎え、そこを見送りながら、

「もう、数にこだわる在り方はやめよう」

と、いいだけ食べたらもうすっかり食べ飽きたかのように、戸別訪問も件数に目標を置かなくなり、おさづけの取り次ぎも数の積み重ねよりも、ひとりひとり、目の前の人のことをちゃんと見つめよう、という気持ちに変わっていった。

これは進歩だと自身感じている。


そして現在。

天理教はいまどうなっているのか。

“全教”・“一斉”・“推進”・“強調”

…コロナ禍という大きな変転期に見舞われながら、にも関わらず、やっていることは依然、相変わらずのままだ。

なにをするにも全員を巻き込みたい。

全体を結集させたい。

ひとつの動きを全体のものとしたい。

…こういった働きかけは大昔の以前から本質的なところは変らず、ずっとぐるぐる同じことを繰り返しているだけのような印象を受けている。


ある人が「布教に歩きましょう」というタイトルで教報の巻頭文を書いていた。

“布教に歩きましょう”は、ほとんど何も言っていないことと同じだ。

家電量販店が従業員に「家電をたくさん売りましょう」とははたらきかけたりなどしないし、運動部の生徒に「汗が出るくらいたくさん練習しましょう」なんて馬鹿げたことも言わない。いずれも大前提のことだからだ。

それでも商売なら力を入れて売りに走る月間はあるだろうし、運動部なら、基礎を固める上で地道な練習に没頭する季節もあるだろう。

しかし“宗教団体が信者に向けて布教を推進する月間”とは、そりゃ一体なんなのだろう、という私の疑問はおかしいことなのだろうか?


布教とは“行為”なのか

Xで呟いたことをそのままここでも語るけれど、

布教とは“行為”なのだろうか?

もしかしたら、行為もさることながらより本質に迫るとしたら、

布教とはむしろ“態度”なんじゃないだろうか?

布教活動といったら先ず連想されるのが戸別訪問・神名流し・路傍講演。
この3つはいずれも行動の形に名がつけられている。
つまり、いずれもこれは“行為”だ。

“布教推進”“布教強調”“にをいがけしましょう”

これらの呼びかけ・働きかけは“行為”に対して促されていることだ。

だから皆、それらを実行しようとけしかけ、人を集め、そういう時間をつくろうとする。
仮に、もしもその時にただ形の実行にのみとらわれ、それを推し進めることを布教と呼んでそれで済ませてしまえるものなら、そこには “態度”は伴わなくてもいい。ただ“行為”をみんなで行えばいいわけだから。

でもそれ、だとしたら、なんか変じゃない?

思いっきり変だと思う。
このおかしさに気づいている人はけっこういるんじゃないだろうか?
全く気づいていない人もけっこういる気がするけれど。

いま頻りに推進されているのは形や“行為”ばかりで 、肝心中身の布教“態度”を言及するところはあまりお目にかからない。

実のところ、“態度”としての布教の在り方、真剣にそれを模索すべきじゃないだろうか?

“にをいをかける”

そういうことを誰かが言う。だけど、

“にをいがかかる”在り方を各々はむしろもっと見つめるべきで、それには“行為”の実行の奥にある“態度”の掘り下げとは無縁ではいられないだろう。

で、“態度”とは。

布教力ではない、宗教性なのだ。

“行為”ではない。“在り方”なのだ。

ひとりひとりが、神との対峙と共に自己を深く研ぎ澄まし、見つめる作業の中に、宗教性は静かに養われていく。
ひとりひとりが、他人とは違った霊性を持ち、スタイルを持っていると私は思っている。そこに視点を傾けることだ。

これの真逆の営みが、一斉に、全員で、同じことをやる。

個々の在り方・独自性・オリジナリティは一斉の名のもとつくられるうねりの中ではむしろ邪魔にすらなっていく。
だから、それをつくらせまい、育てさせまいとするはたらきかけを受けながら、信じる者達は方向性の自由度を奪われ、画一的な方法のみに落とし込まれ、金太郎飴のようなどこをどう切り取っても同じような布教展開しかやれない状態に持って行かれている。

…というのがピーナッツ個人の憂慮していることなのだ。


私はもう、布教強調も布教推進も、そこまでみんな真剣にやらなくていいと思っている。

9月をそういう時期にしてもいいけど、自分達のやり方があるなら、そっちを優先しても構わない、ぐらいの各自に幅を持たせてやらせた方が、天理教もいいんじゃないかなと思うんだけど、きっと見向きもされないだろうな。

もっと主体性を大事にしてやろうぜ。
神様がせっかくひとりひとりにくれた“心の自由”が泣いているよ。


【2024.9.4】

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