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71.教話雑感(5)-理想の配偶者とは-

◆教話「『…これは末代しかと治まる』の神意」

おふでさき一号74 「せんしよのいんんねんよせてしうごふする これハまつだいしかとをさまる」について思案してみたいと思います。
お道の信仰者なら、誰でも知っている神言ですが、このおふでさきの最後の"治まる"というところが、私の青年時代には、なかなか理解することができなかったのです。
「なぜ、あの人たちは結婚したんだろう、夫らしいことも妻らしいこともせず、相手を苦しめているだけで治まっている夫婦ではない、早く離婚した方がいいのでは、末代どころか今も治まっていないじゃないか」と思いました。
しかし、私の父が、「いや、それは違う、 好ましくない夫婦関係でも、いんねん的には治まっているんや、果たしをしているんや。お互いに魂のいんねんの自覚が少しでもできれば、相手を非難否定することなく夫婦関係が治まるのだが、端から見て仲良くないと思う夫婦でも、魂のいんねんという深層の部分では治まっているんや。」と言った言葉が今も思い出されます。
私は、神さまが思召下さる「治まる」という意味が理解できず、この神言が心に治まっていなかったのです。教内のあらゆる研究会や講習会で、必ず問題になるのが、このおふでさきの神言です。
結婚の仲人をさせていただいた時も「どうぞ、夫婦仲良くお願いします」と願うのですが、「末代しかと治まる」ためには、この神意を深く認識し、夫婦はつくしあい、たすけあい、果たしあう関係であることを、もう一度、自己啓発したいと思っています。
もちろん、仲が良くて治まることが理想なのですが、仲が悪くて治まっていないかに見えても、「実は治まっている部分もある」 のが神意なのかも知れません。

船冨廣國著「形は消えても理は残る」より抜粋

雑感

果たして「理想の結婚相手」というものは存在するのだろうか。
より好条件を求めて生涯の伴侶を選んでいるつもりでも、縁のある人としか結ばれないのだから、自ずとめぐり合う相手は 100%縁の深い魂の人しかやって来ない筈である。

一生懸命吟味して選んだ配偶者なのに、いざ一緒になってみると相容れない、看過できない不満を感じる点が多々あることに次第に気がついてくる。しかしそれらは、あくまでも自分の魂のレベルを映し出す鏡であるから、解決すべきは己の反省と、心の改善のみである。

と、以上がお道の教えに則った考え方であるが、理屈ではそれがわかっていても、実際はいんねんの果し合いを続けている夫婦の方がほとんどなのではなかろうかと予想する。

そんな「せっかく素晴らしい信仰をしているのに、夫婦で争ってばかりいるのは、教えが心に治まっていないからじゃないのか」というツッコミに対し、考え方が大きく転換するのがこの教話である。

人生に幸福をもたらんと欲するのなら、前生より積んできた徳の借金である「果し」からは逃れられない。
もしも夫婦同士での果たしの状態から脱出できる方法があるのだとしたら、それは、心の矢印を外側に向けて、おたすけへと突き進んでいくことぐらいじゃないだろうか。


余談

私の妻は癇癪がひどくて、感情的になると、とてもとても言葉激しく、汚く罵ってくる。
これも、治まっている姿なのかしら(^_^;)?

円満ってなんだろう?

円満と“治まる”はどうやら違うようなのだ。

…いや~、お道は深い。

人生とは奇妙奇天烈である。

ほんとに。


【2015.10】


ここまで読んでいただきありがとうございました。
それでは、また(^_^;)


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