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80.修養科物語(6・終)-救いとは-

修養科生時代のエピソードを書き綴っています。
前回未読の方は先にこちらを↓

※サムネ画像提供:@papa_okada(何度も使わせていただき、ありがとうございました‼)


事件が起こったのは、いよいよ修了迫る三か月目の終盤だった。

志願当初、脳卒中の後遺症で車椅子生活だったIさんは、日に日に身体は元気を取り戻し、最後は毎朝歩いて修養科棟までやって来ていた。車椅子は詰所に置いて、もうそれに乗ることもないだろうというくらい回復していた。

その彼が、深夜ひとりでトイレに立った時に、暗がりで転倒する。
痛みで立ち上がれなくなったIさんは、その夜のうちに「憩いの家」の救急に運ばれるという事態となった。

検査の結果、右側の腰椎骨折。ボルトを埋めて固定する手術をしなければならなくなった。

あくる日の朝、再び車椅子に乗せられ、三か月前よりも酷い状態になっていたIさんの姿を目にし、私達クラスメイトは彼にかけてやる言葉が見つからなかった。修養科に来て、怪我して手術と入院が待っている終わり方になってしまった彼は、失意のどん底で、

「お先真っ暗だ。いっそ死んでしまいたい」

と少々ろれつのまわらない口調でわんわん泣きながら嘆いていた。

手術予定日が修了式とかち合い、その日をともに迎えることすら難しい状況だった。

私達に出来ることは、おさづけを取り次がせていただくことのみだった。
仲間たちは代わる代わるIさんにおさづけを取り次いだ。それを囲んでみんな一心になって添い願いを続けた。本当に、もうそれしかなかった。


奇蹟

やがて、私におさづけの順番がまわってきた。
今回の一件、なぜこのタイミングでこれなのか。
どう悟ればいいのか、簡単に答えは出ない。

せめて、精一杯、感謝しようと思った。
起こったことは、最善だと信じて。

「あしきはらひ、たすけたまへ、てんりわうのみこと…」

ゆっくり、骨折箇所が痛まないよう細心の注意を払いながら、両の掌で優しく撫でるように、おさづけを取り次いだ。

その途端、

「あぁ……気持ちいい……っ‼」


Iさんは心の底から本当に気持ち良さそうな声を漏らした。
私の手が触れている間、とても温かくて、心地良い感触が駆け巡ったのだと、後から彼は教えてくれた。

痛みが少しでも和らいでくれたのなら、幸いだと思った。



奇蹟が、起こった。

翌朝、Iさんと同じ詰所のクラスメイトから事の経緯を聞いて、仰天する。
前日、おさづけの後、Iさんはそれまで感じていた筈の腰椎の痛みが消えていることに気づく。それで病院で再びレントゲンを撮ることになり、そこで不思議な結果があらわれた。

それまでハッキリ見えていた骨折箇所のヒビが、新たなレントゲン写真からはキレイに消えてなくなっていたのだ。

手術を必要と診断されていたIさんの骨折は、一日で全快してしまった。

その証拠に、彼はまるで何事もなかったかのように、再び歩いて修養科棟までやって来たので、クラスメイトは文字通り目を丸くして、その様子に驚愕していた。


これが、私のおさづけがキッカケだったのかどうかなんて、わからない。
何せ、みんなで代わる代わる取り次いでいたのだから。
そこにどうこう言うことはないけれど、紛れもない神の鮮やかな奇蹟を目の当たりにさせてもらったエピソード。

こうやって私の拙い修養科生活は幕を閉じていく。

おぢばは本当に尊い。
たくさんの人達の真実が、そのままにして顕れて来る。
私は両手に持ちきれないほどの大きなお土産を、この三か月の中でいただいた。
褪せることも、朽ちることもない、信仰者としての人生の糧を、数々の教訓を学ばせていただいたのだ。

そう感じずにはいられなかった。

語り尽くせぬ不思議な物語が詰まった時間だった。



【エピローグ】救かるってなんだろう

修養科生活から、半年が過ぎた頃のことだった。

おぢばに帰参し、朝づとめの帰り道、本通りで修養科時代のクラスメイト・Tさんとばったり遇った。久しぶりの再会を懐かしく思い、手を振って駆け寄り声をかけた。

Tさんは、前・後期の教人資格講習を終えたばかりだという。
だけど、ちょっと話をしてみて愕然とした。

修養科の最後はすっかり元気になっていた彼。

…でも、この時のTさんは私と視線を合わせることが出来ず、また修養科以前の元の鬱状態に戻っていたのだ。

いや、それどころか、私のことさえもあまりよく覚えていない様子だった。
彼の記憶から私の名前は思い浮かんで来なかった。
一緒におさづけを取り次いでまわった日々のことも。

まるで、全てがリセットしてしまったかのようだった。

Tさんとあまり会話も弾まぬまま別れ、それから暫くの間私は、虚ろな気分が抜けなかった。

(あの日々は一体何だったのだろう? 俺がしてきたことは、まるっきり無意味なことだったんじゃないだろうか…?)

そんな思案がよぎる。

Tさんはもうすっかり救かったのだとばかり思っていただけに、その後の彼の姿にはあまりにもショックが大きかった。
修養科で掴んだ筈の手応えや自信は、Tさんとの束の間の再会で脆くも崩れ去っていった…。



……それから随分時間が経過する。
修養科当時、せっせとつけていた日記を押し入れの奥から見つけ出し、読み返し懐かしがりながらこの物語を書いてみた。

Tさんの顛末を思い起こすにつけ、“救かるって、どういうことなんだろう”という問いがいつまでも私の胸の中で揺らいでいる。

ただ、事実として厳然と私の前にあり続けるのは、かつて、彼と同様の病を患ったことのある私の妻。彼女は幸い、健常者として今日を無事に送ることができている。おかげ様で以来一度も薬を服用する状態にはなっていない。(感情の起伏は激しいけれどね…(;´・ω・))

救かるってなんだろう?

そうそう簡単には語れない。

だけど私は、私達家族はおそらく、きっと、今まさに救かりの中で暮らしている。救かりを与えられ続けている。

……そう思わずにはいられないのだ。


(了)



おまけ

ピーナッツ修養科物語、いかがだったでしょうか?

懐かしい時間でした。
ちょうど現在の季節ぐらいの中での日々でした。
あの頃より最近はうんと暑いおぢばですが(^_^;)

当時、クラス担任だった先生は、その頃はあんまりそんな雰囲気出してなかったのに、いつの間にかバリバリの布教師になっていたのをSNSで知って驚きました。(@tonkaccan)

余談ですが、修養科修了直後にそのまま本部の後継者講習会を受講してから地元に帰ったのですが、班内に愛〇分教会の会長さんがいたのが衝撃でした(後継者講習会の対象者なんかーい‼ って思いました)。
そのО先生に、未熟な私は失礼にも色々質問していたんです。

ピーナッツ「先生、お道の信仰で本当に大切なのは、おつとめなんですか? おたすけなんですか? おつくしやひのきしんは?(質問内容が未熟過ぎる)」

О先生「やっぱり…おやの理を、いただくことなんじゃないかな…?」

当時のそんな遣り取りが印象深く残っています。


長々お付き合いいただきありがとうございました!
次回もどうぞまたお楽しみに(^^)

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