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73.神様は、忘れた頃に、突然に…。

ある日のこと、突然背中の左側に激しい痛みが走った。
最初はただなんとなく痛みを感じる程度だったのに、時間とともにその度合いが増し、夜になる頃にはほんのちょっと笑ったり、咳をしただけでも声をあげて悶え苦しむような耐えられない痛みへと変わっていた。

背中の痛みは内臓からの悲鳴だとか、そんなことも聞いたことがあったので、内心は穏やかではない。否応なく不安が募る。

しばらく様子を見ていつまでも症状が治まらないようなら、早めに病院に行って診てもらおうかと考えをよぎらせていた。

ところが、そんな心配もどうやら取り越し苦労だったようで、2日程経った頃にはいつの間にか痛みは消え、また元通りの状態に戻っていた。

「単なる神経痛とかだったんじゃないの?」

妻はそう言う。

最悪の場合入院することにもなり得るんじゃないかとも想像していただけに、痛みがすっかり消えてしまったことに自然と感謝の念が芽生えて来る。

おかげで今月も予定通りのルーティンで物事が推し進めることができる。
いつも通りに会報編集作業をし、月次祭をし、そうやっていつもと変わらない当たり前の毎日が送れることに、ありがたい気持ちでいっぱいだった。


不意打ちという、神様からメッセージ

そういえば今年の5月もそうだった。
ある時から、毎朝目が覚める度に、両目のまぶたから大量の目ヤニが出て、それがひっついて起きた瞬間、目が開かないという困った症状に見舞われた。目ヤニは2~3か月ぐらいの間治まらず、夜になるとまた大量に出てきて随分不自由な思いをしていた。

そんな不快な目ヤニも、いつの間にか症状が和らいできて、いつしか自然と治まっていく。治ってすぐの頃は、毎朝普通に目が開くことにありがたい、と心の底から感謝していたものの、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」ということわざよろしく、すぐにそういう喜びは薄れ、当たり前の日常の継続の中に、淡く霞んで消えていってしまった。

いつも漠然と計画を立て、段取りを組みながら前に進んでいこうと思っているけれど、そういうことも何もかも、肝心の身体の不具合ひとつでたちまちどうにもならなくなってしまう。

神様から貸し与えられてようやく何気ない日々が成立しているのが、当たり前のようないつも通りの毎日なのだ。それがままならなければ、自分の思いや意志が例えどれだけ強かったとしても、本当にもう、どうにもならない。

神様からのメッセージ。

身体の不意の不調は、ついつい忘れてしまいがちな大切なことへの“気づき”を私に再び与えてくれる。

生かされているが故に、私そのものが活きている。
生かされているが故に、かろうじて存在し得るのだという実感。

神様はある日突然に、忘れた頃にそれを思い出させてくれる。

この再確認が、何より大切な、信仰のスタート地点。


【2015.12】


おまけ

身上のありがたさ、再確認回。

こちらも併せて読んでほしい↓

身体が当たり前に使えることが何よりの恩恵なのに、それが一番忘れがちになるのが、人間の性ですよね(^_^;)

ピーナッツはそういう愚か者ゆえ、ちょいちょい身上に知らせてもらいます。その度に、感謝したり、いつの間にかまた忘れてしまったり…。

3歩進んで2歩下がるを地で行ってますが、これからも頑張ります(笑)


ここまで読んでいただきありがとうございました!
それではまた(^^)

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