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柳流水
2024年3月23日 20:00
読書 ほとんど柄谷行人の『日本近代文学の起源』、それに引き寄せられて国木田独歩『武蔵野』を読んでいる。 柄谷は、『武蔵野』の内容にほとんど触れずに、道具としての文章に注目している。あまり、そのような読み方はしてこなかった。しかも、その文章が内面をそのまま表現している、透明な道具としてあることが、小説としてのエポックな場面であるといったような主旨。今まで、透明なものに着目するということをしてこ
2024年2月15日 21:26
暖かいというよりは暑いとすら感じる気候が続いている。 アルトーの、「カイエ」を読み続けている。 前には共振しながら読んだ経験もあったと記憶しているけれども、それが信じられないくらい、頭に入ってこない。 総評として、全体として、どうしてこんな文章が生まれたのか、ということを、他人ごとのように考えることはできる。が、この人が目の前にいて、こう語っているとしたら、その一言一言が全く理解できないの
2023年5月31日 20:24
また、何だか悩ましい時期に差し掛かっている。 自分が何をしているのか全く分からなくなる感覚。 それらを断ち切るのは、確実な技術の取得と実感である。 紫陽花が、道を見るとあちこちに咲いている。 花の集合の中心に、蕾のような粒が集中しているのを見掛けるが、あれは待っていれば全て咲くのだろうか。 そういう紫陽花は、外縁のいくつかの花は、まるで折り紙のように咲いていることが多い。 ある詩
2023年5月29日 22:43
昨日、寝ぼけてnoteを書いたら、題名もつけずに公開してしまっていた。 何かが終わっている。 妻に買って、さまざまなセッティングをしたパソコンを使いこなして、日々書き物をしている。 順調に稼働しているようで、良い買い物をしたなという気分でいる。 文章を、少しではなくたくさん書くという点においては、タブレットやスマートフォンはまったく代替できていないと思う。フリック入力で何か入力すると、
2023年5月8日 00:00
再び、小島信夫の拾遺のような文庫本、「小説作法」について。 保坂和志は意図してこのような、小説を書きたい人全般に目が付くような、少しさもしいような所もある題名を選んだのだろう。ここまで、勝手に保坂和志が編集しているか、かなり影響力をもってこの本の構成に関わっているのだろうと前提していたが、おそらく、いろいろな面から見て、間違いないように思う。題名もそうで、何も手元にない状態の編集者が、小島信
2023年5月7日 00:00
小島信夫の文章の書き方、倫理というのを保坂和志から教わって、直接教わったわけではなく本で読んで知って、それから憧れというか一種の理想の点の一つとなって未だにその文章の書き方は、自分も文章を書くときの指針として未だに頭の片隅にある。小島信夫は、わかりやすくその文章の書き方について、一つの本にしたりして体系的に語ったことは、おそらくない。ものすごく長い本を、しかもたくさん書いていて、そのほとんどを読
2023年2月12日 19:45
自分しかその視点では見ていないと思うが、また二ヶ月ぶりくらいで、このnoteの毎日更新を逃してしまった。 だが、今強く思う。この数字上の毎日更新するということを芯にしてものを書いてはいけないと。 逆に、書くことが潤沢にあって、それをアウトプットしていると自然と毎日更新になる、というのであれば構わない。 というのは、今までに書いたか忘れたが、最近はまっているユーチューブで、ゆる言語学ラジオと
2023年1月27日 19:05
もしかしたら、前にも書いたことかもしれない。そしたら申し訳ないけれども、昨日何も書いていないし、とりあえず思いついたことなので書きつけておく。 ジョン・ケージの、没後十年の特集をNHKFMでやったことがあったらしい、今から十何年前のこと、その同録がユーチューブに上がっていたので、聞いていた。 最初、静かに、クレッシェンドとデクレッシェンドを繰り返す足踏みオルガン、のように聞こえた楽器で、そ
2023年1月26日 00:00
このままではいかんと思い、最新の小説の状況について知るため、五大文芸誌「文藝」「群像」「文學界」「新潮」「すばる」の、借りられる最新刊を図書館で借り、読める小説を片っ端から読んでいる。 僕は受け付けない小説があまりに多いので、読み始めた最初の五、六作は諦めてしまった。 藤野可織と、小山田浩子の文章は、読むことが出来た。いや、今こういう文章を読むことが出来るのかと、息を吹き返したような思いであ
2023年1月7日 00:00
柄谷行人の案内で、デカルトを読むようになった、彼の哲学としての中心的な問題系はすべてデカルトとスピノザとの関係性に還元できるかのようだ、 変な文章を書き始めた、前に、塊といって公開していた文章と似ているのかもしれない、散文をひたすら書き散らし、一部分は半ば意識的に意味と論理が通らないようになっている、もともとこういう作文法をしていたので、手癖で書いていると言っていいかもしれない、今はそれを読点