【日記】再度、「小説作法」について
再び、小島信夫の拾遺のような文庫本、「小説作法」について。
保坂和志は意図してこのような、小説を書きたい人全般に目が付くような、少しさもしいような所もある題名を選んだのだろう。ここまで、勝手に保坂和志が編集しているか、かなり影響力をもってこの本の構成に関わっているのだろうと前提していたが、おそらく、いろいろな面から見て、間違いないように思う。題名もそうで、何も手元にない状態の編集者が、小島信夫の非フィクションの文章を集めて、こういった題名、こういう着目のされ方をする本の置き方はしないだろうと思える。そもそも誰も、本当に小説を書こうとしている人に対して、アプローチしようとしている人はいないと思える。
書ける人は書けばいい。インターネットに、プラットフォームを用意する。評価は、数字で出る。一定数以上の評価を確保できれば、マネタイズするきっかけも作ろう。自分でその評判を感じながら書いていれば、おのずと方向性が定められるだろう。あるいは、検索すれば、基本的な書き方などは載っているのだから、それを読んで、あとは自分のオリジナリティを付加して書けば、もし書くに値する人間なのだとすれば、何がしかが書けるはずである。現代では、このように何かを書こうと思う人は進むのではないか。
この本は、どうもその流れには乗っていない。
二作目のエッセイは、自分が学生時代か、講師に教わったという体験の話で、一見するとまるで書くことに関係しないようなものが来ていて、この並びにも、保坂和志の息を感じる。
しばらく、実作を読むことをしていなかったので、やや抽象化、イメージ化した形で彼の文体を考えていたのだが、改めて読み直すと、思った以上におかしなところがたくさんある。
彼は、文章は、肉体から発せられると考えている。最終的にはそうかもしれないが、と普通の人はまあ当然のようにとらえるかもしれないが、その範囲には収まっていない。自分の文章が、唐突さがあるのは、自分の身体の血流が少し悪いからだと言っている。全く、精神的作用というものが間にかんでいない。その文体への感じ方、即肉体的な感じ方は、こういう言い方はしたくないが、読んでみなければわからない。講師の話も含めて、最初の十ページにも満たないところで、すごく良さが出ている。人によっては、そう感じないかもしれない。読んでみてほしい。