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「じゃぁさぁ、もう他にウソはない?言ってないこととか。全部、今なら考慮するから」 「いや、まだ少し…」 「まだ、あるの?」 「いや、他にないって聞いたじゃないですか」 「ウソがありすぎなんだよ!」 鷲見修二はドンと事務所の机を叩いた。その拍子で湯呑がひっくり返った。 「あぁああぁ、ったくもう、ティッシュ、ティッシュ」 「あ、はい」 「これ、ハンカチ、いいの?」 「どうぞ、使ってください」 阿久津正一は鷲見にハンカチを渡した。鷲見は遠慮なく、机にこぼれたお茶を拭いた。アツ
「おとさん、おはよう」 「おはよう。ユウジ」 「おなかすいた」 「朝ごはんにしよう。納豆と味噌汁と梅干しだよ」 「いただきまーす。おとさん、お肉もほしいな」 「そっか。うん、用意するよ。はい、お肉だよ」 「もぐもぐ。おいしいよ。ごちそうさま」 「おいしかったね。ごちそうさまでした」 俺は東京都内に住居を持っている。 しかし、それは仮の住居で本来のものじゃない。この場合の〝仮〟というのは二つの意味がある。本当の住居が別にあるということと、それが仮想空間にあるということだ。
『窓際のパンケーキ』 それは、ゆうきの大好きな小説。 いつの日か、 その舞台となった場所へ行ってみたい ゆうきは、そんな風に思っていた。 物語の世界だから、地名やお店の名前は まったく分からないし、もしかすると すべてが架空の話かもしれない。 だけど、それでいいと思った。 だって、その方が面白そうだから。 ゆうきは、 これから始まる想像の旅に 心おどらせた。 小説の舞台となっているのは、 山と海があり、緑が多い場所。 地図や旅行誌を読んで それっぽい場所をいく
しゅわしゅわと小さな泡たちが足元から喉元までせり上がってくる。 「うぇっぷ、苦しいよぉ」 俺は苦しげにもがく。 生まれた瞬間から俺はこの泡たちに悩まされてきた。 悩みは尽きない。次から次へと下から喉にやって来る。苦しいことこの上ない。そんなことを思って俺はちらりと隣の姉に視線を送った。 「いいよなぁ、お姉ちゃんは。ちゃんとした帽子があってさ」 俺が言うと、姉がちょっと得意げに笑った。 冷たい帽子と冷たい欠片とが触れ合っているところはシャリシャリと凍りつき、
紗季の最後の抗癌剤投与が終わり、翌週には嘔気も落ち着いてきた。週末、僕は午前中食料の買い出しにスーパーへ向かった。 途中の線路にかかる陸橋からは市街地が見渡せる。木造住宅と商業施設がひしめく街並みに背の高いビルがぽつぽつと点在していた。橋の先にある交差点の信号が赤に変わったため、車の流れはそこで停まった。助手席側の窓から外の景色を眺めると、県営住宅の屋上に人影が見えた。どうしてあんなところに人が立っているんだろう。不審に思いよく目を凝らしてみると、それは自分だった。遠く
「申し訳ありません。はい、先方には納期変更の連絡、はい、今から、はい。私も、はい、伺いますので」 「どうしたんすか?」 「いやぁ、中田製作所の納期変更の連絡ミスだよ」 「それは、大変っすね」 「あのね、それは…」 「早く行った方がいいんじゃないすか?」 「吉岡も行くんだよ」 「さん、か、くん、付けしてくださいっよ」 吉岡の他人事・スルー力、それはイマドキ感とでもいうものだろうか。元をたどれば吉岡のせいだ。今から中田製作所の専務に土下座せにゃならんのに、と津田沼は苦々しい
最初の話 前の話 第6話 冷ややかトースト 店を畳もうと思う。確かにそう聞こえた。私がここに来た春からちょうど季節がひと巡りしそうな、冬の終わり際のことだった。まよなかあひるの食パンを使ったトーストとコーヒー、それからサラダで構成された仕事終わりの朝ごはんを間に挟み、私たちはいつものようにテーブルで向かい合っていた。ひんやりとした日差しが手元に落ちていた。 「どうして? うち、十分繁盛してるじゃないですか。常連さんも何人もいるのに」 「そういう問題じゃないんだよ」 「
ゆるやかな坂道に沿うようにして、濃淡いろいろの紫陽花が咲いている。丁度今が、見ごろなのだろう。昨夜の雨で程よく湿っていて、心なしか花も葉も、生き生きとしているように見える。 坂の上の家に着くと、いつものように、玄関の引き戸が少しだけ開いていた。鍵を閉める習慣のない田舎のこととはいえ、やはり少し不用心だ。自転車を停めた途端、額や首筋に汗が流れ出す。 「こんにちはー、及川ですー」 家の中へ向かって声を掛けると、 「開いてますけぇ、どうぞぉ、お上がりんさい」 と奥から
七番目のランナー 太陽は、この日練習を休んだ。中三の時インフルエンザに掛かり休んで以来、久しぶりの事だった。誰もいない教室で一人、便箋に文字を綴っていた。 『この度一親上の都合でサッカー部を退部いたしたくお願い申し上げます』 自分に嘘を吐いて必死で綴った退部届、「良い! これで良いんだ」自分に言い聞かせて、便箋を封筒に詰め様とした時だった。 「相変わらず下手くそな文字だなー」 その声に驚いて太陽が振り返るとそこには雅人が立っていた。 「何言っていやがる、お前の文字
三歳の甥っ子を上野動物園に連れて行った。毎年、妹夫婦は結婚記念日に二人きりで過ごすため、わたしに子守りを頼んでくる。まあ、甥っ子は可愛いし、別にいいんだけど、こっちは彼氏もいないというのに、平日の昼間からなにやってんだろうって思わなくはなかった。 パンダを見た。ぐったりと横たわり、気怠そうに笹を食べていた。甥っ子はガラスに鼻をこすりつけながら、 「お休みなのかな?」 と、つぶやいた。 いやいや、パンダはちゃんと働いているよ。バイトしていた居酒屋がつぶれてからと
「おい、4時から『例の巡回』が始まるぞ。もう、準備したか?」 同僚から声をかけられ、私はハッとする。 「しまった! 忘れてた! ・・・今からでも間に合うかな?」 「もう遅いだろ。こうなりゃ、気付かれないことを祈るしかないな」 (そうかもな) 私は頭を切り替え、同僚と実験室へ急いだ。 実験室に到着すると、既に多くの社員がどこか緊張した面持ちで整列をしていた。同僚と二人、急いで列に加わるとほどなくして声が鳴り響く。 「それでは、只今より副事業部長の巡回を始めます」
僕が入る墓(前編) 目の前に広がる田園風景を真っ二つに分けるように一本のアスファルトでできた道がどこまでも続いていた。僕は先を行く明美の黒くしなやかな後ろ髪から溢れた残り香をたどりながら、これ以上距離を離すまいと歩数を増やして後を追った。明美の腰のあたりにはまるで大気にひびが入ったかのように陽炎が揺らめき、明美の体にまとわりついていた。 「早くー」 「待ってくれよ」 「もうバテちゃったの?」 「いいや。まだまだいけるよ」 「早くしないと置いてっちゃうわよ」 明
たった1週間で〈本格ミステリ大賞〉〈日本推理作家協会賞〉〈山本周五郎賞〉をトリプル受賞、さらには第171回〈直木賞〉にノミネートされるなど、話題爆発中のエンタメ小説『地雷グリコ』。 ミステリ作家の青崎有吾さんらしい、理詰めと騙しが冴え渡る頭脳バトルに 「とにかく面白い」という声が集まっています。 本記事では、表題作「地雷グリコ」をまるごと特別公開! なぜか勝負事に強い女子高生・射守矢真兎のデビュー戦をお楽しみください。 あらすじ試し読み地雷グリコ 1 待ち合わせ場
◇ 飛んできたのは五百円玉だった。 よりによって一番攻撃力の高そうな硬貨の側面が、俺の眉間に命中したのだ。 鋭い痛みが目頭から眼球の裏へと伝わり、泣きたくもないのにじわりと涙が滲んだ。 「いってぇ……」 俺は両手で目を覆い隠した。痛みのせいで勝手に湧いてきた涙をそれとなく拭って、顔を上げる。 「何すんだよ!」 渾身の力を込めて睨みつけると、ほんの一瞬だけ、兄はうろたえた表情を見せた。だが、すぐに目を吊り上げ、 「呑気に家の中をうろうろすんじゃねーよ! とっととパ