【小説】蛙の唄
ゆるやかな坂道に沿うようにして、濃淡いろいろの紫陽花が咲いている。丁度今が、見ごろなのだろう。昨夜の雨で程よく湿っていて、心なしか花も葉も、生き生きとしているように見える。
坂の上の家に着くと、いつものように、玄関の引き戸が少しだけ開いていた。鍵を閉める習慣のない田舎のこととはいえ、やはり少し不用心だ。自転車を停めた途端、額や首筋に汗が流れ出す。
「こんにちはー、及川ですー」
家の中へ向かって声を掛けると、
「開いてますけぇ、どうぞぉ、お上がりんさい」
と奥から声がした。
この町が「消滅可能性自治体」の一つに数えられてから、もうすぐ十年になる。これまで、UターンやIターンの移住者を募ったり、出産や子育ての助成金を拡充したりしてきたが、はかばかしい効果は得られなかった。
年々過疎化は進み、高齢者の一人暮らしが増え、おかげで僕ら職員の訪問件数は増える一方だ。
ただ、この地域は長年、農作業で体を動かしてきた人たちばかりなので、独居高齢者とはいえ、比較的お元気で自立して生活している人が多い。
「お邪魔しますー」
と声を張って言ってから、靴を脱いで上がり、僕は廊下の奥へ進んだ。
右手の台所に人の気配を感じるが、明るい陽射しに引き寄せられるように、左手の座敷へ入る。開け放った窓から、ふわりと心地良い風が入ってくる。裏庭の雑草は、前回来た時よりも、また少し伸びたようだ。
喜寿、傘寿、米寿、卒寿を迎える方々へインタビューする「町と共に~」は、季刊発行の「町民だより」の巻頭記事で、わりと読まれていて人気が高い。
はじまった当初は還暦や古希の人も対象だったが、さすがに今は高齢者のうちに入らないということで、喜寿からになったそうだ。
——これまでで一番、嬉しかったことは何ですか?
「子どもを授かったこと、ですろうかねぇ」
——これまでで一番、悲しかったことは何ですか?
「そん子どもに、先立たれたこと、ですろうねぇ」
——楽しい思い出は?
「私らぁが、こんまい頃は、戦争中でしたけぇ、よぉ近在の姉さんの手伝いぃしよりました。そいでお駄賃じゃぁ言うて、干し芋やぁ、干し柿やぁ、くれましてなぁ。そんくらいですかぃねぇ……楽しい思い出やぁ言うても」
——ご長寿の秘訣は?
「どうですろうかねぇ……。田んぼして、畑して、何でも食べる。そんくらいしか思いつかぁしません」
——これから、やってみたいことは?
「こないだ、テレビ見よりましたらなぁ、大けな大けな、何ゆうもんやったか……何とかツリーゆうのが、映りよりましてなぁ。そん天辺上りよったら、富士山から何から、よぉ見えるそうでなぁ。冥途の土産に行けんじゃろかぁ思うとります」
ボイスレコーダーを止めると、
「さぁさぁ、お疲れさん。健ちゃん、お茶でも飲みんさい。ご苦労さんなことじゃぁなぁ」
と、途端に砕けた口調になる。
孫娘の美沙ちゃんは、僕の一学年下だったと思う。とはいえ、ほとんど話したことがないし、顔もあまり覚えていない。確か、高校の途中で来なくなってしまって、そのうちに町を出て行った。
噂では、酷いイジメがあったとか、仲間外れにされていたとか聞いたが、本当のところはわからない。
「玄関の鍵、閉めた方がいいですよ。この頃は物騒になって、物取りやぁ、詐欺やぁ、おかしな人が入り込みますからね……」
話しているうちに、そうそう饅頭が、とか言いながら、立ち上がって行ってしまう。
あれもこれもと、食べ物を出されるのは、高齢者宅あるあるだ。本当は断らなければならないが、僕は黙って頂くことにしている。ほんのひと時、その家の孫になったつもりで。
生まれてきたもんは、みんなぁ、大けぇならんといきません。
生きもんはみんなぁ、命ぃいただいて、命ぃ繋げよりますけぇなぁ。
大けぇなる前に死んでしもうたら、そぃほど不孝なことはないですろう。
よぉけぇ食べて、大けぇなったら、そん人はもう、大丈夫ですけぇ。
そん家のご先祖様が、守ってくれますけぇねぇ。
高崎朝代さん 昭和11年(1936年)生まれ 88歳
文責・及川健吾
日が傾くと、蛙が一斉に鳴き出した。
来月の訪問日には、草取りを手伝わないといけないだろう。
これじゃあ、何でも屋だな。
日差しと作業を思って、正直うんざりする。
何となく役場に就職して、都会へ出損なってしまった。
本当は僕だって人並みに、都会への憧れがあったのに。
この町は、何もかもが温い。
高崎さんのおばあちゃんは、何度言っても玄関の鍵を閉めない。
あ、もしかして、美沙ちゃんがいつ帰って来てもいいように、とか?
今はまだ「町を出る前の人」のつもりだけど、あと数年したら僕も、待つ側の人になるんだろうか。
蛙の鳴き声が、わんわん響く。
僕は、自転車のブレーキなしで段々に加速して、ゆるい坂を一気に下った。
了
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