東京都天川区
「おとさん、おはよう」
「おはよう。ユウジ」
「おなかすいた」
「朝ごはんにしよう。納豆と味噌汁と梅干しだよ」
「いただきまーす。おとさん、お肉もほしいな」
「そっか。うん、用意するよ。はい、お肉だよ」
「もぐもぐ。おいしいよ。ごちそうさま」
「おいしかったね。ごちそうさまでした」
俺は東京都内に住居を持っている。
しかし、それは仮の住居で本来のものじゃない。この場合の〝仮〟というのは二つの意味がある。本当の住居が別にあるということと、それが仮想空間にあるということだ。
二十四番目の区として天川区が仮想空間に作られた。俺は格安キャンペーン中に住居を購入し、晴れて東京都民になった(住民票は別にあるため正式には都民ではない)。先見の明とばかりに新しいものに飛びついたはいいが、この計画は大スベリとなった。
月の土地を買うという洒落のような話が流行ったことがあるが、今思えばそっちの方が「地に足がついた」先行投資といえるのかもしれない。月は確実に存在するし、空を見上げれば自分の土地が見えるところにあるのだから。
天川区はそれなりの話題性はあったが、当初の想定を大幅に下回る支持率にとどまり、スポンサーは次々と離れていった。住民も少なくなり過疎化した天川区は、誕生から五年で削除されることが決定した。
俺はこの天川区で結婚をしていた。それは仮想婚というもので、天川区内でのみ意味を持つ。住民は専用のアバターを持つが、それは本来の姿ではない。俺は結婚した相手の実際の姿を知らなかった。
天川区内の夫婦は子どもを授かることができる。俺たちの子どもの名前はユウジという。天川区で生まれた子どもは天川区内でのみ存在し実体がない。成長もするし会話もできるが、それはAIによって制御されている。ユウジが生まれてからこれまでの会話がプロンプトとして蓄積され、彼は俺の子どもとして振る舞っているのだ。
天川区での時間は現実世界の四倍の早さで流れる。生まれて二年経つユウジの年齢は八歳ということになる。
俺は天川区で結婚をして、離婚も経験した。原因は俺の不貞ということになるのかもしれない。俺は現実の世界で別の女性と出会い実際に結婚をしていた。天川区でのことはあくまでも仮想という認識だったが向こうは本気だったらしい。
それ以来、ユウジは俺が引き取り育てている。育てているといっても、食事や世話は単なるコマンドで手間はない。ユウジが俺の子どもとしてのロールプレイをするように、俺は彼の父親としての役割りを演じているのだ。
それも今日で終わり。
天川区が誕生して今日で五年目。今日が天川区で過ごす最後の日ということになる。
実体のある俺たちは、それまでの生活に戻るだけだ。では、ユウジはどうなる。
「まことに心苦しいのですが」画面の向こうのサービスオペレーターのアバターはバツの悪そうなエモーションを見せた。「お子さんのデータも当然削除ということになります」
「殺すということか」
「そんな。彼らはAIです。肉体も魂も存在しません。気に病むことはないのです」
たしかにそうだ。役割りを演じるうちに仮想と現実の境界が曖昧になってしまっている。シンギュラリティは、ハッキリと超えたときに分かるのではなく、きっとグラデーションのようになっていて少しずつ超えていくものなのだ。今がその途中。
「どうか、最後の瞬間まで天川区での時間をお楽しみください」
「おとさん。公園に行こうよ」
「そうだね。公園に行こう。さあ着いたよ」
「ボール遊びしよう」
「そうだね、ボール遊びをしよう」
「今日もいい天気だね」
「ああ。いい天気だ。……なあ、ユウジ」
「なあに、おとさん」
「あのな、……いや。ユウジは将来なにになりたい?」
「うーん」
「思いつかないか」
「ううん。いっぱいありすぎて」
「いっぱい? 教えてほしいな。うん。全部聞かせて」
「ええとね、野球せんしゅにマンガ家、えいがはいゆう、しょうぼうしにユーチューバー、それにけいさつかん、せいゆうもきょうみあるんだ。サッカーせんしゅも。プロゲーマー、デザイナー、レーサー、動物のお医者さん、歌手、電車の運転し、おかしを作る人、プログラマー、パイロット、刀を作る人、えいがかんとく、スケボーせんしゅ、絵かき、タレント、はく物館の館長、スポーツインストラクター、登山家、考古学者、アナウンサー、ライフセーバー、ロボットを作る人、モデル、水族館のしいく員、カメラマン、プラネタリウムのあんない人、図書館のし書、スタントマン、たんてい、レストランのシェフ、キャビンアテンダント、ピアニスト、おもちゃの開発者……」
『サービス終了のお知らせ。永らくのご愛顧、まことに感謝いたします。――天川区』
大きく表示されたサービス終了の告知。以下、小さく払い戻しについての詳細がつらつらと綴られていた。
俺はウェアラブルデバイスを外した。
ユウジに別れを告げようとしたけれど、やめた。やめてよかった。きっと消える瞬間は一瞬で、彼は未来を思いながら永遠になった。
「おとうさん、おはよう」
「おはよう。ユウイチ」
ユウイチが起きてきた。
ユウイチは四歳。天川区で後に生まれたはずのユウジは仮想空間の四倍速の世界で、いつの間にかユウイチの年齢を追い越していた。
「おなかすいた」
「朝ごはんにしようか。母さんは?」
「まだ」
「そっか。先に食べようか。何が食べたい? 肉を焼こうか」
「ブロッコリーたべたい」
「ブロッコリー、ブロッコリー……」
冷蔵庫と冷凍庫を漁る。切らしていたらコンビニで買ってこようか。コマンドでどうにもならない煩わしさが現実にはある。しかし、それが愛おしかったりもする。
了
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