【小説】パン屋 まよなかあひる(6/8)冷ややかトースト
第6話 冷ややかトースト
店を畳もうと思う。確かにそう聞こえた。私がここに来た春からちょうど季節がひと巡りしそうな、冬の終わり際のことだった。まよなかあひるの食パンを使ったトーストとコーヒー、それからサラダで構成された仕事終わりの朝ごはんを間に挟み、私たちはいつものようにテーブルで向かい合っていた。ひんやりとした日差しが手元に落ちていた。
「どうして? うち、十分繁盛してるじゃないですか。常連さんも何人もいるのに」
「そういう問題じゃないんだよ」
「最近はパンのロスも少ないし、深夜営業でも頑張ってる方だと思いますよ。それでも経営、厳しいんですか」
「そうじゃなくって」
リッカさんの語気が強くなり、これ以上追及するのはやめた。手持ち無沙汰になり、無意味に、コーヒーにミルクを垂らす。猫の顔がプリントされたマドラー──愛貴くんと出かけた日にお土産として買って帰ったものだ──でくるくると掻き混ぜると、黒っぽく澄んだコーヒーは白く濁っていく。リッカさんは黙っていたけれど、決して機嫌が悪いのではなく、言葉に迷っているらしいということが私にはわかった。
はああ、と深いため息が聞こえた。
「手紙が来たんだよ」
娘から。リッカさんは躊躇うように口にした。
「娘さん……ですか」
「あんたと同い年だよ。ガキの頃にあたしとは別れたんだけどね」
もちろんリッカさんに娘がいることも、娘が私と同い年だということも私は知らなかった。というより、年齢不詳のリッカさんに子供がいるかどうかなんて、想像すらつかなかった。
「この頃金に困ってんだかなんだか知らないけど、金の無心が来るんだよ。あたしがいくら住むところを変えても、どっから情報を仕入れてくるのかいつまでも追っかけてくる。執念深さといい金のだらしなさといい、すっかり父親に似ちまって」
そしてもう一度ため息をついた。
「まったく、捨てたのはどっちだよ」
リッカさんがこんな風に吐き捨てるところなんか、見たことがなかった。思い出したようにトーストをかじるともう焼きたての軽やかな食感は消えていて、蒸気を吸って萎びたように硬くなっている。
「……それと、まよなかあひるの閉店と、何が関係あるんですか」
「何って、居場所がばれたから逃げるんだよ。もうこの店はやっていけない」
「なんで逃げるんですか。お金くらい渡せばいいじゃないですか。娘なんでしょ」
「悪いけどね、そううまくいくもんでもないんだよ。血の繋がりってもんに縋りついて死ぬまで仲良しこよしするのが親子の正解ってわけじゃ」
「私も」
リッカさんの言葉を最後まで待たず、自分でも驚くほどはっきりとした声が出た。
「私も、母親に捨てられたんです」
何も言い返されはしなかった。よくある話です、と前置きをした。言ってみたら、本当になんてことないような気がしてくる。
「父親は小さい頃に死んで、私が小学生になった頃、母が再婚しました。新しい父親が来てから、私は家の邪魔者扱いされてて。そうしたら中学に上がる前、ある日突然二人ともいなくなりました。私を置いて、二人で。それからは近所に住んでいた母の妹の家にいましたが、特に不自由はありませんでした。むしろ叔母の家で暮らせてせいせいしてるくらいです。大学からは独り立ちしようと思って、自分で学費を稼ぎながら大学に通いました。……結局辞めちゃったし、だからここにいるんですけど」
私が苦笑すると、リッカさんもそうだね、と私と同じ表情になった。自分の顔は自分では見えないけれど、きっと同じ顔をしていると思う。
「叔母伝いに、母の居場所は知っています。でも、何かあっても頼ろうとは思いません。あの人が私の親だと思いたくないし、普通の子供の生活をさせてもらえなかった負い目は、たぶん一生抱えると思うので。
だけど最近、少しずつ思い出してきたんです。父を亡くして母と二人で暮らしていた頃の楽しかった記憶とか、母のことを大好きだった気持ちとか。リッカさんがいなかったら、こんなこと思い出すこともなかった。私もこの店に、リッカさんのパンに救われたんです。最初に食べたメロンパン、あれを食べたら昔の思い出が走馬灯みたいに流れてきて、しかも幸せな思い出ばかりで、私、何もかもうまくいかなくて消えたくなってたのに、ずっと暗かった心の中に光が差したんです。リッカさんにうちで働くんだって言われて、全然嫌な気持ちにはならなくて、私、リッカさんみたいなお母さんだったらよかったのにって何度も思って、うまく言えないけど、私、私……」
この店がなくなってしまう、そう思うだけで喉の奥が詰まって上手に声が出せなくなる。まよなかあひるの看板娘として生きることが、今の私にとってただ一つの拠り所だった。血縁関係も義理もなく、無条件に受け入れてもらえる場所を、ようやく見つけたというのに。
「うまく言えなくたっていいんだよ」
リッカさんはたったそれだけの言葉を、ぽつんと落とした。
「うまく言えなくたっていい。……これだけ伝われば十分だよ」
ふとリッカさんの顔を見上げると、リッカさんの目から汗が、いや違う、まさかと思ったけれど、それはたぶん涙だった。失礼ながら、私はぎょっとした。あの豪快で大雑把で繊細な感情なんて何一つ持っていないような、リッカさんが。
だけど、だからこそ今なら聞けると思った。
「リッカさん。どうしてまよなかあひるを始めたんですか」
今までも私だけでなくお客からも尋ねられることがあったのに、まともに答えてもらえた試しがなかった。リッカさんがなかなか明かそうとしなかった、この店の秘密。私は今どうしても、それが知りたかった。
しばらくの沈黙があった。
「あたしもね、この歳になって誰かのお母さんに、なってみたくなったのかもね」
リッカって名前もね、実は娘の名前なんだ。と、リッカさんはどこか夢の世界を眺めるような目で、訥々と語りはじめた。
「どうせ二度と会うつもりなんかないから、響きだけでも拝借しようと思ってね。リカとリッカ、小さい頃はそりゃもう平和にやってたさ。あたしは、それなりにいい母親をやってたつもりだったよ。だけど元旦那と離婚するとき、娘は真っ先に元旦那についていくと言った。あたしも若かったんだろうね、もう、それだけで裏切られたような気持ちになって、腸が煮えくりかえっちまって。金輪際あんたらとは二度と会わない、絶縁だ、って叫んで出て行って以来会ってない。
娘が高校生になってからかな。頻繁に連絡が来るようになった。いつもお金が足りないってだけの、くだらない内容だよ。いくらか振り込んでやると、またすぐに同じことを言われる。父親がどうしてるのか知らないけど、あたしはその繰り返しが嫌になってね。縁もゆかりもない土地を点々とするようになったのはそれからだよ。
この街は、娘が小さい頃に連れてきたことがあるんだ。あれからずっと、もう一度この街に来たかった。あたしは長年夜の店──本来の意味で言うやつね──で働いてたんだけど、死ぬまでに一度くらいは自分の店を持ってみたいと思ってた。この街に来たとき、商店街を歩きながら潮の匂いを嗅いだら、ここで店を開きたいと思ったんだよ。でも、スナックやバーなんかのありきたりなものは、あたしのやりたい店じゃなかった。そのとき、昔、娘にパンを焼いてやってたことを思い出してね。それでパン屋を開くことにした。
ただのパン屋じゃなくて、夜中だからこそ来る意味のあるパン屋をやろうと思った。夜をうろつく人間なんか、ろくなのがいないよ。そんなろくでもないやつらがスナックやバーみたいに酒を使わずとも安心できる、なんなら家みたいに思ってもらえる、そういう場所を作ってみたかったんだよ」
リッカさんは一息に話し尽くすと、「と、いうわけさ」と椅子に深く腰掛け、天を仰いだ。
「そうそう、そんな感じだったね……この店の始まりは。でも、あひるがいなかったら、どうにもなってなかったかもね」
「そんなことはない、と思いますけど。私こそ、リッカさんに拾ってもらえてなかったら今頃どうなっていたことやら、ですよ」
濁ったコーヒーに口をつけると、すっかり冷めきっていた。コーヒーを淹れ直そうと席を立つ。リッカさんは店で出すコーヒーにはこだわるくせに、家のコーヒーは安物のインスタントコーヒーだ。おかげで、冷めた古い分を捨ててしまうことに抵抗を感じずには済んでいる。
「私もこの街、唯一母と旅行に来たところなんです。母との数少ない思い出の場所で。だから、死に場所にしたくなったのかな」
「あんた、やっぱり死にに来たんじゃないか」
「ん、そうです。普通に死ぬつもりで来ました」
もう、軽口みたいに言えるようになってしまった。当時は私なりに深刻に考えていたつもりだったのに、人間は弱くもあり強くもなれる。
「それにしてもあんた、お母さんのことめちゃくちゃ好きなんだね」
「そりゃそうですよ。好きかどうかはともかく、子供は母親という存在に執着しちゃうものなんじゃないですか。私だって、愛されたかったんですよ」
その点、リッカさんは私の夢を叶えてくれましたね。そう言うとリッカさんは、夢だなんて大袈裟な、と笑ったけれど、その語尾は潤んでいた。情けない。私たちは実に情けない親子だ。
「リッカさん」
「ん」
呼びかけると、真っすぐにこちらを見てくれる。リッカさんはそういう人だ。
「会ってみましょうよ。娘さんに」
「はあ? この話の流れで?」
「だからです。私は、母に会いに行きます。だからリッカさんは、娘さんに会いましょう」
たった今生まれた、ほんの思いつきに過ぎなかった。けれど、口にしてみたらどんどんその気になってきた。リッカさんと出会ってから、ちょっとしたことからぐっと心の方向性が定まる、ようなことが増えた気がする。
「どういうことだか……やだよあたしは」
「なんて言いながらリッカさん、ちょっと面白そうだなって思ってるでしょう」
私がにんまりとリッカさんの顔を覗き込むと、リッカさんは乾いた笑みを漏らした。
「あんたも言うようになったね」
「そうですよ。だって私、リッカさんの第二の娘のつもりでいるので」
ご自身のためにお金を使っていただきたいところですが、私なんかにコーヒー1杯分の心をいただけるのなら。あ、クリームソーダも可です。