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ギリシャ哲学

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カリクレス「しかしながら、そもそも法の制定者というものは、世の大多数を占める弱い人間どもなのだ。」

カリクレス「しかしながら、そもそも法の制定者というものは、世の大多数を占める弱い人間どもなのだ。」

カリクレス「しかしながら、そもそも法の制定者というものは、世の大多数を占める弱い人間どもなのだ。
つまり彼らは、人間たちのなかでも力の優れたものたちが自分たちの権利を侵さぬように、平等や節制などというような、自然の摂理に反する馬鹿げたことを正当化しているに過ぎないのだよ。」
(プラトン「ゴルギアス」より)

ここで言う「法」とは、法律よりも範囲は広く、平等や公平、正義や節制などの道徳的な価値観を含

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ソクラテス「親愛なるクリトンよ、私たちが大切にしなければならないのは、ただ生きるということではなくて、善く生きるということなのだ。」

ソクラテス「親愛なるクリトンよ、私たちが大切にしなければならないのは、ただ生きるということではなくて、善く生きるということなのだ。」

ソクラテス「親愛なるクリトンよ、私たちが大切にしなければならないのは、ただ生きるということではなくて、善く生きるということなのだ。」
(「クリトン(プラトン)」より)

ここではまず、「ただ生きる」と「善く生きる」の違いを明確にしなければなりません。

ソクラテスの言う「善く生きる」とは、己の魂を善きものとしていくことです。

ここで何よりも大事なのは、己の魂が善きものであるかどうかは、己がまず判

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ソクラテス「君は、アテナイという、偉大なポリス(都市国家)の人でありながら、ただ金銭をできるだけ多く自分のものにしたいというようなことにばかり気を使って、恥ずかしくはないのか。」

ソクラテス「君は、アテナイという、偉大なポリス(都市国家)の人でありながら、ただ金銭をできるだけ多く自分のものにしたいというようなことにばかり気を使って、恥ずかしくはないのか。」

ソクラテス「君は、アテナイという、偉大なポリス(都市国家)の人でありながら、ただ金銭をできるだけ多く自分のものにしたいというようなことにばかり気を使って、恥ずかしくはないのか。」
(「ソクラテスの弁明(プラトン)」より)

ソクラテスは更にこう続けます。

「魂ができるだけ優れたものになるよう、随分に気を遣うべきであって、それより以上に、もしくは同程度にでも、身体や金銭のことを気にしてはならない。

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ソクラテス「死を恐れるということは、諸君、知恵がないのにあると思っていることに他ならないのだ。死を知っているものは誰もいないのに、そしてそれはまた、人間にとって、最も善いものであるかもしれないのに、彼らはそれを恐れているのだ。」

ソクラテス「死を恐れるということは、諸君、知恵がないのにあると思っていることに他ならないのだ。死を知っているものは誰もいないのに、そしてそれはまた、人間にとって、最も善いものであるかもしれないのに、彼らはそれを恐れているのだ。」

ソクラテス「死を恐れるということは、諸君、知恵がないのにあると思っていることに他ならないのだ。死を知っているものは誰もいないのに、そしてそれはまた、人間にとって、最も善いものであるかもしれないのに、彼らはそれを恐れているのだ。」
(「ソクラテスの弁明(プラトン)」より)

無知の知(不知の自覚)は、哲学に興味のない人であっても一度は耳にしたことがあるでしょうし、それほど難しいものではありません。

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ソクラテス「この男は、知らないのに知っていると思っているが、わたしは知らないから、知らないと思っている。つまり、このちょっとしたことで、わたしの方が知恵があることになるらしい。」

ソクラテス「この男は、知らないのに知っていると思っているが、わたしは知らないから、知らないと思っている。つまり、このちょっとしたことで、わたしの方が知恵があることになるらしい。」

ソクラテス「この男は、知らないのに知っていると思っているが、わたしは知らないから、知らないと思っている。つまり、このちょっとしたことで、わたしの方が知恵があることになるらしい。」
(「ソクラテスの弁明(プラトン)」より)

俗に言う「無知の知」です。
無知の知という言い方は誤解を招くので「不知の自覚」と言うべきである、という意見もありますが、私は別にどっちでもいいだろうと思います。

無知の知とは

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パルメニデス以後のエレア学派⑦ メリッソス(前5世紀)

メリッソスの生まれはエレアではなく、イオニア地方のサモス島である。
サモスの政治家・軍人として、アテナイとの戦いで勝利を収めたなどの逸話が残っている。

メリッソスはまた哲学者として、パルメニデスの思想を承継しているので、エレア学派の一人とされている。
その思想内容は、全体としてはパルメニデスと大きくかけ離れているものではない。主な違いを探すとすれば、まずパルメニデスは自身の思想を叙事詩の形式で、

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パルメニデス以後のエレア学派⑥ エレアのゼノン(前5世紀)

エレアとは、イオニア人によって建設された南イタリアの植民都市である。ここで生まれ育ったパルメニデスを中心とする一派を、エレア学派という。
パルメニデスについて語るときりがないので、前回で一区切りとして、今回はパルメニデスの弟子であるゼノンを取り上げる。

哲学史上において有名なゼノンは、二人いる。今回のゼノンと、もう一人は後の時代、ストア派の創始者となるゼノンである。この二人を区別するために、それ

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パルメニデス(前5世紀)⑥ 一の肯定・多の否定

あるものは、

① 生成されず
② 生滅もせず
③ 運動変化もしない

ということになると、演繹的に一つの結論が導き出される。
それは、

あるものは「一」である

ということである。

生成変化しないのであるから、時の経過という概念とは切り離された存在であり、永遠にある。
そして、運動しないのであるから、常にそこに留まっている。
そうなると、あるものが複数存在するということは論理的に有り得ず、た

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パルメニデス(前5世紀)⑤ 消滅の否定・運動の否定

あるものは消滅するのか?

あるものが生成するということは、一つのルートが考えられる。

あるものからの消滅:ある→あらぬ

これは「あらぬ→ある」の生成が有り得ないのと同様である。
つまり「あらぬ」ことが理性をもって想定しえない以上、あるものがあらぬものになることはない。

そうなると、あるものが運動変化することも否定される。
運動変化は、次の二つのパターンが考えられる。

① あるものから、別

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パルメニデス(前5世紀)④ 生成の否定

あるものは生成するのか?

あるものが生成するということは、二つのルートが考えられる。

① あらぬものからの生成:あらぬ→ある
② あるものからの生成:ある→ある

まず①について検証する。
前回申し上げた通り、あらぬものとは、私たちの観念をもって思い懐くことすら叶わぬ、絶対的な無である。私たちが思い懐くことの出来る無とは、有の対極としての概念であって、概念として存在するものであるから、厳密には

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パルメニデス(前5世紀)③ あらぬ、とは何か

あるものはある、あらぬものはあらぬ。

まず「ある」「あらぬ」とはどういうことか。
先に「あらぬ」から検証した方が分かり易い。
以下は私個人の足りない頭による理解である。パルメニデスの真意を本当に正しく理解しているのかどうかは保証できない。

あらぬとは「無」である。
究極の無、絶対的な無である。
ここで何故「究極」「絶対的」と表現したかと言うと、通常私たちが思い浮かべる無とは、「有」の対義語であ

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パルメニデス(前5世紀)② あるものはある、あらぬものはあらぬ

あるものはある。
あらぬものはあらぬ。

ヘラクレイトスは、万物が破壊的に生成消滅すると言った。つまり、

生成:あらぬ→ある
消滅:ある→あらぬ

あるいは、

変化:ある→ある

というようなことが、この世界では刻々と起こっている、と言う。
実際のところ、これは滑稽無形な論ではなく、まさしく私たちが日常感じている感覚である。草木が種子から芽を出して大きく成長したり、川の水が流れたり、火が灯った

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パルメニデス(前5世紀)① 万物流転説の否定

ヘラクレイトスの万物流転説は、非常に分かり易い。
何故ならば、私たちはそれを感覚的に、経験的に理解し得るからである。人は同じ川に二度入ることはできない。いや全くその通りだ。川の水の流れは絶えることはない。ついさっき見ていた川と、今見ている川は全く別物である。その視界に入っている水は全て入れ替わっているのだから。

このような、感覚や経験を通じて得る世界観をバッサリと否定したのが、パルメニデスである

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パルメニデス以前の哲学者たち⑥ ヘラクレイトス(前6~5世紀)

ここまで何人かの哲学者たちを見てきたが、ミレトス学派の三人は動的な世界観であり、ピュタゴラスは静的かつ調和の取れた世界観であった。
そして今回のヘラクレイトスは、ミレトス学派の動的な世界観を更に加速させて、かつ破壊的にした世界観を有している。

ヘラクレイトスの世界観を端的に表す言葉は「万物流転」である。これは彼自身の言葉ではないようであるが、彼の遺した言葉の段片を重ね合わせていけば、最終的にこの

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