木澤佐登志 『ニック・ランドと新保守主義 現代世界を覆う 〈ダーク〉な思想』 : 〈エリート小児病〉的世界
書評:木澤佐登志『ニック・ランドと新保守主義 現代世界を覆う〈ダーク〉な思想』(星海社新書)
本書は、ニック・ランドという陰鬱かつユニークな思想家の出自と、その影響下にある「新保守主義」の思想を紹介している。
ごく大雑把に言えば、彼らの思想の根底にあるのは「制限された生への苛立ちに発する、破壊的な自由願望」だとでも言えるだろう。
彼らは、基本的に、自分たちが「優秀」であると自認している。だからこそ、国家や民主主義という卑俗な制度は、自分たちの聖なる自由を制限し、自分たちの成果を搾取する悪しき制度でしかないと感じている。したがって、そうした制度をなんとか破壊し「自由な世界」を実現したいと考えるし、実際にはそれが容易なことではないのであれば、そこから脱出して、自分たちだけの自由な世界を実現したいと考えている。
無論これは、特に目新しい考え方ではない。いや、むしろありふれた考え方だとさえ言えるだろう。
古来、エリートたちは、愚かな大衆、豚のような大衆に脚を引っぱられることを嫌い、なんとか自分の能力を自分のために存分に発揮できる世界のかたちを夢想してきたが、それは大概は「人間を人間あつかいしない、悪夢のような政体」を一時的に生み、やがて崩壊する、という歴史を繰り返してきた。
エリートとは、所詮、人間のごく一部であって、それが大半の人間を好きにしようとするならば、それが永続的な体制になることはないのである。エリートとは、あくまでも全体のなかでのエリートでしかありえないのだ。
だが、エリートの苛立ちは、何度でも甦ってくるものだし、「ニック・ランドと新保守主義」も、その一種に過ぎないのである。
彼らの思想が、ニック・ランドの思想に典型されるように、どこか「ダーク」なものであり「狂気」すら孕んだものになってしまうのは、結局のところ、彼らの思想は、彼らの「被害者意識」に発し、それに発する「加虐趣味(サディズム)」と、さらにそれが反転した「被虐趣味(マゾヒズム)」の様相を呈するからだろう。だからこそ、彼らの展望は、わざわざ「不健康で暗い」ものにならざるを得ないのだ。
彼らによれば、現代社会の中心的思想であるリベラルな平等主義という矛盾は、偽善的で禁欲的な「キリスト教的・愛の思想」だということになる。いくら、「思想」めかしても、それは「宗教」でしかないと。つまり、人間の現実を歪める奇麗事を押しつけ、優れた人間に犠牲を強いている、と彼らは言うのだ。
彼らが敵視する人間のなかには、無神論的宗教批判者として名高いリチャード・ドーキンスなども含まれてしまう。と言うか、ドーキンスは宗教批判者であるからこそ、彼のヒューマニズムは「思想的に不徹底なもの」として、ちょっとした近親憎悪の対象となってしまう。
ランドらによれば、科学的合理主義を推し進めるならば、当然、エリートを制限するような「リベラルな人間平等主義」など支持できるはずがないのに、ドーキンスがそれを支持するのは、ドーキンスが自身の宗教性に気づいていないからなのだ、ということになる。
しかし、宗教を嫌う彼らは、宗教というものをよく知らないようだ。
ドーキンスは、徹底した無神論者であり、同時に「リベラルな人間平等主義」を信奉している。これは、まったく矛盾ではない。
ランドたちは「信じる」という行為を「宗教」と同一視しているようであるが、それは「宗教」という言葉の拡大解釈であって、その理屈で言うのであれば、ランドたち自身を含めて、すべての人間は、何かを「信じている」のであり、そこに例外はない。
では、ドーキンスは、「宗教」ではなく、他の何を信じて「リベラルな人間平等主義」を信奉しているのか?
その答えは「科学(進化論)」である。
ドーキンスが「リベラルな人間平等主義」を信奉するのは、それが「科学的に正しい選択」だからに他ならない。
なぜなら、人間が「能力的に劣る仲間を助ける」というのは「生存競争を生き抜くための、進化の過程で構築された性質」だからである。
私たちが「人助けをしたら、良い気分になる(脳内で快楽物質が放出される)」というのは、そういう行動が人類の種としての生き残りに有効であったからだ。つまり、助け合いをする種族は生き残り、エリートによって劣った者が差別される種族は生き残れなかった、という人類の進化論的歴史現実があって、「人助けをしたら、良い気分になる(脳内で快楽物質が放出される)」人類が、今に生きているのである。
「リベラルな人間平等主義」は、科学的に、進化論的に、つまり合理的に有効なのだ。だから、ドーキンスはそれを合理的に選択しているのであって、「宗教的平等主義の教義」を妄信しているわけではない。
したがって、ドーキンスを「宗教的=非科学的」と非難するランドたちの読みは、完全に間違っているのである。
そして、さらに言うなら、宗教的なのは、むしろランドたちの方だというのは、本書での紹介にも明らかだ。
ただ、彼らは「宗教」を批判して合理主義を掲げたが故に、「宗教」的な絶対権威に頼ることができず、そのためにラブクラフトの「クトゥルフ神話」やサイバーパンクSFなどのフィクションのイメージや、未来的な技術に頼らざるを得ないということになる。
歴史を断たれているが故に、未来に根拠を設定せざるを得ないのだが、それも所詮は「宗教」の一種に過ぎないだろう。「未来」には絶対の合理性など、まったく無いのだから。
もちろん、彼らが嫌悪する、多くの「リベラルな人間平等主義」者たちもまた「未来」に希望を持って、今を生きている。その点では、「未来」に期待するランドたちと同じだと思えるかもしれないが、しかし、両者には決定的な違いがある。
その違いとは、「リベラルな人間平等主義」者たちには「自分以外の人たち」への配慮として「未来」があるのに対し、基本的に「自分個人の自由(その範囲内での、一部エリートの自由)」を求めていたはずのランドたちが、自分が生きていられないほど先の「未来」に期待をよせるのは、矛盾であり、所詮は自己欺瞞でしかない、という点である。
結局のところ、ランドたちは「自分たちが、エリートでありながら、しかし、やはり人間として制限された存在」であることが「矛盾」と感じられて、それが堪えられないのだが、しかし、エリートであろうが非エリートであろうが、人間というものは、あるいは生物は、皆「制限された存在」でしかあり得ない。「神」にはなり得ないのである。
ランドたちは、この「当たり前の現実を直視して、それに堪えること」ができない、精神的に弱い「賢い子供たち」に過ぎない。
私は先に、ドーキンスが「リベラルな人間平等主義」を選ぶ根拠には「進化論的事実」があると説明した。しかし、それはあくまでも「理屈」であって、本当は、そんな理屈は後づけでしかない。
たぶん、ドーキンスが「リベラルな人間平等主義」を選んだ理由は、彼の「美意識」だろう。弱者を踏みにじるエリートとして生きるよりも、弱者に手を差し伸べるエリートとして生きる方が「美しい」と感じるから、彼は「リベラルな人間平等主義」を選んだのであろう。
では、なぜ彼はそれを「美しい」と感じるのか?
それは先にも説明したとおり「進化脳科学的な事実」によるのだろうが、ここまでくれば、そうした説明よりも「美しいという感情」の方が重要だろう。これは「神が押しつける教義的真実」ではなく、私個人が「好きで選んだ美学」なのだから、それを「宗教」呼ばわりされる謂れはないのである。
そして、そうした「人間主義的美学」を選んだ者からすれば、ランドたちの思想など、所詮は「自分の欲求しか見えていない、子供の駄々」に過ぎないのではないだろうか。
初出:2019年6月28日「Amazonレビュー」
(2021年10月15日、管理者により削除)
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