『けものフレンズ2』 『無敵鋼人ダイターン3』 あるいは、 フィリップ・K・ディック的 「模造人間」
先日(2023年9月29日)、私の記事「たつき 『けものフレンズ』の非凡性:演出家・たつき監督のすごさについて」(以下、「たつき『けものフレンズ』の非凡性」と略記)を取り上げて「文章が下手」だとする、「もるにあの怨霊」氏によるレビュー「年間読書人氏の記事を添削する 第一回:「たつき 『けものフレンズ』の非凡性:演出家・たつき監督のすごさについて」」(以下、「年間読書人氏の記事を添削する 第一回」と略記)が「note」にアップされていた。
「もるにあの怨霊」氏によるこの文章で、私がまず注目したのは、出だしの次の部分だ。
「そうか、私の一連の「けものフレンズ」関連記事が、真フレと呼ばれ、たつき監督の『けものフレンズ』ばかりが高く評価されることを快く思っていない人たちの間で話題になっているのか」と、そう知らされたのだ。
もちろん、良い意味で「話題になっている」のではないだろう。私は、たつき監督による『けものフレンズ』(以下、『1』と略記)が唯一無二の「本物」であって、スポンサーである「KADOKAWA」の意向を受けて、別スタッフのよって作られた『けものフレンズ2』(木村隆一監督)や、その後の、ゲーム『けものフレンズ3』だの関連グッズだのというのは、所詮、『1』の人気にあやかっただけの「便乗商品」でしかないと評価する者だからだ。
つまり、私の論文「たつき『けものフレンズ』の非凡性」は、彼ら「(通称)真フレ」の価値観や鑑識眼を否定しているも同然なのだから、私の文章は、彼らには面白くないものだろうし、「話題」にするとしたら、それは「困った論客が出てきた」ということでしかないだろうというのは、容易に察し得ることなのである。
ただ、これまでは、拙稿「たつき『けものフレンズ』の非凡性」に、どれだけの影響力があるのかが、よくわからなかった。
そこそこ「好き」は付いているし、閲覧数も現時点で1300を超えているから、それなりに注目されているのはわかっているが、閲覧数というのは「最後まで読んだ人」の数ではないから、いまいちハッキリとした手応えを感じることができない。まして、『けものフレンズ2』(以下『2』と略記)以下の「便乗商品」を楽しんでいる人たちというのは、要は、一つのこと(コンテンツ)に固執して、広がりを持たない人たちなのだろうから、私の文章を最後まで読み通すだけの能力はないと見て良い。
言い換えれば、彼らは「難解な文章」や「長文」には馴染んでいない人たちで、活字の本などは、よくて「ラノベ」が限界であり、文学書や、ましてや哲学書や批評書(評論書)などは読んだことがないだろうから、仮にも「評論」である、私の「たつき『けものフレンズ』の非凡性」は、読み通せない蓋然性が高いだろうし、理解もできないだろうと、そう思っていたのである。
それでも、当の「真フレ」らしい「もるにあの怨霊」氏が「評判になっている」というのなら、それは「わからないなりに、(真フレに)影響を与えている」ということなのだろうから、それは私にとって「手応え」であるし、その意味で好ましいことだったのである。
ただ、勘違いしてもらっては困るのは、私は、私自身が褒められたいがために文章を書いているのではなく、社会に働きかけたいという目的から、文章を書いている。そのため、人々に「物申す」というような批判的な文章も多く、そうした点で、嫌がられたり、嫌われたりするというのは、もとより覚悟の上なのだ。
したがって、たとえ「敵視」であっても、反響が無いよりは、私には、よほど好ましいことだったのである。
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さて、「もるにあの怨霊」氏によるレビュー「年間読書人氏の記事を添削する 第一回」だが、その趣旨は「年間読書人は、文章が下手である」ということに尽きよう。「だから、文章の上手な自分が、回数を分けて、徹底的に添削してあげよう」という文章である(あれば、第二回以降にも期待したい)。
たしかに、私は「上手い文章」を書ける人間ではない。「下手」だと言っても良いだろう。ただ、「下手は下手なりに、中身のある文章」を書こうとはしてきたのだが、そうしたことは、「文学」をはじめとした「活字の本」、特に「硬い本」に馴染みがないのであろう「もるにあの怨霊」氏には、まったく理解できなかったようだ。
「活字の本」を、ましてや「文学書」を読んでいる読書家にとって、「読みやすさ」は至上価値ではない、というのは自明な話である。
読みにくい文章であっても、それに見合う「中身」があれば、それは価値のある文章だし、「文学書」を読む読書家にとっては「読みやすい本=優れた本」ではない、というのも自明な話だから、当然「読みにくい文章=無価値な文章」ということには、ならないのである。
わかりやすい例で言えば、ドストエフスキーの小説がその代表格だろう。
ドストエフスキーの小説は「ポリフォニックな過剰性」に満ちている。登場人物に過剰な者が多いというだけではなく、その「文体」が、そもそも過剰なので、それなりの覚悟を持って読もうとしなければ、代表長編である『カラマーゾフの兄弟』とか『悪霊』とか『白痴』といった、分厚い文庫で上下巻にもなるような作品は、とうてい読み通すことはできない。
しかし、これは何も、ドストエフスキーに限った話ではない。プルーストにしたって、サルトルにしたって、決して読みやすい文章ではない。特に、サルトルは哲学者でもあって、哲学的な内容を物語に託して書いているので、おのずと「難解」であり「読みにくい文章」になっている。
だが、だからと言って、こうした「読みにくい文章を書く作家」たちの本が、「読みやすくてわかりやすい文章」で書かれた「ラノベ」より「劣る」ということにはならない、というのも、しごく常識的な話でしかない。
一一要は、「読みやすくてわかりやすい文章で書かれたものであれば、それで良い」というわけではない、ということである。
無論、私の文章が、こうした「超一流」の人たちと「同じ」だなどと言うつもりは、さらさらない。彼らに対し私は、「思弁」能力的に劣っているのは無論、文章作成能力的にも大いに劣っている。
だが、そうした「才能」や「力量」のなさを補って、少しでも「意味のある文章(価値のある文章)」を書こうと思えば、「読みやすさ」や「ウケ」に走るのではなく、他の人が書けないことを書かなければならない。他の人と同じようなことを、同じように書いていても、そんな文章には、そもそも「存在価値が無い」のである。
無論、そうした「ありふれているからこそ、わかりやすい文章」というのは、それゆえにこそ「一流の文章を読み慣れていない人」たちには、「ウケ」が良いだろう。
だが、少なくとも「一流の文章」を読み慣れている私としては、そんな「読みやすいがゆえに、俗ウケするだけの文章(俗情との結託的文章)」など書く気にはならない。人生の時間は限られているのだから、ただ読み捨てにされていくだけの「中身のない文章」なんて、いくらウケが良かろうと、そんなものを書いている暇はない。だから、ウケなかろうが、嫌われようが、人々の心に「爪痕を残す文章が書きたい」と、私は思う。
そして、だとすれば、必要なことは、「見かけ」を飾って「ウケ」に走るのではなく、「自分の本音を、自分らしく語る」文章を書く、ということになるのだ。
そんなわけで、私は「文体」というものを、非常に重視している。
「文体」が重要だというのは、「純文学」の世界では常識に類する話だが、エンタメ小説しか読んでいないような人には、決して常識ではない。
「純文学」における「文体」とは、書き手の「個性」を体現するものであり、その人がその人にしか書けないことを書くためには、その人固有の「文体」を見つける必要がある。しかし、ここでいう「文体」とは、自然に出てくるようなものではない。なぜなら、私たちは日頃から「これがウケの良い文体だ」という情報にとり囲まれており、その大きな影響を受けて、自身の「個性」を歪められているからである。あるいは、「個性」を見失っているのだ。だから「文体」は、自己探究の果てに「発見」されなければならないのである。
したがって、常日頃からこうしたことを考えている私は、以前から、次のような文章を書いている。
私がこのレビューで扱っている、文芸評論家・井口時男の著書『悪文の初志』は、「悪文」だと言われることの多い、大西巨人、富士正晴、小林秀雄、大岡昇平、椎名麟三、大江健三郎、永山則夫、中上健次といった作家たちを扱って、彼らの「悪文」が、どのような「志(こころざし)」から、必然的に生み出されたものかを語った、作家論集だ。
つまり、「読めない読者=読む能力のない読者」が、単純明快に「読みにくい文章は、悪文であり、悪文は、価値が低い」と考えて、短絡的に「悪文」を否定しがちなのに対し、井口は「そうではない」と、同書で語っている。「悪文には、悪文の必然性があり、そこにこそ独自の価値も生まれるのだ」と、そういう話なのだ。
だが、こうしたことは、「活字の本」をろくに読んでいないというのが明白な「もるにあの怨霊」氏には、当然、理解不能である。
少しでも、文学書なり哲学書などの「硬い本」を読んでいれば、「読みにくい文章は、(悪文であり、悪文は)価値が低い」などという「幼稚な議論」などできるわけがない。
しかし、「幼稚で、世間の狭い」同氏は、「私の方が、読みやすい文章が書ける」という「その一点だけ」で、私の文章を否定できると思い、前記の「年間読書人氏の記事を添削する 第一回」で、私の文章を否定できたつもりになっていた。
愚かにも「どうだ年間読書人、参っただろう」と、そんなつもりで、あの文書をアップしたのだ。
だから、「もるにあの怨霊」氏は、この文章をアップすると、早速、私の「けもフレ」関連文書の最新作であった「「第2の『けものフレンズ』」とは何か?:「キズナアイ問題」あるいは「旧統一教会問題」との相似性において」のコメント欄に、その日のうちに、次のような報告のコメントを寄せたのである。
この書き込みに気づいた時には、すでに同文章を読んでいた私は、次のように返信した。
「もるにあの怨霊」氏としては、「どうだ!」と言わんばかりに、勝ち誇って書いたつもりの文章が、私からは「『けものフレンズ2』ファンの面汚しにしかならない」文章だと評されたのだから、氏にとっては、この反応は、意外なものであり、自身の期待に反して、氏の文章が私に打撃を与えていないことに、驚きもしたことであろう。
だが、あの程度の「幼稚な文章」で、私に勝り得ていると、本気で考えていたところが、「もるにあの怨霊」氏の、救いがたい「頭の悪さ」の証拠だとも言えよう。
また、批判対象である私の評価だけではなく、「もるにあの怨霊」氏としては、きっと「真フレ」がこぞって自分を支持し、拍手喝采を送ってくれるものと思っていたのであろうが、それなのに、アップから半月が経った今になっても、まだ3つしか「好き」が付いておらず、実質的に「真フレ」の支持さえ得られなかったのも、もはや明白となっている。
なぜ、『1』に対して、『2』以下の「けもフレ」コンテンツを擁護した「もるにあの怨霊」氏の文章が、「真フレ」たちの支持を得ることが出来なかったのか。
その理由は明白で、要は、文章が「無内容」であり、何より「書き手の人格の低劣さが、わかりやすく表れていた」からである。
つまり「こんなやつ(もるにあの怨霊氏)と、一緒にされたくない」と、ほとんどの「真フレ」が、正しくそう考えたからだ。
言い換えれば、「もるにあの怨霊」氏は、「自分がまったく見えていない人」だったということである。
私は、前記の、井口時男著『悪文の初志』についてのレビューの中で、すでに「もるにあの怨霊」氏のような人の存在を想定して、次のように書いていた。
だから、私は、その後、先のコメント欄で再開された「もるにあの怨霊」氏とのやり取りの中で、「もるにあの怨霊」氏について、氏の、
という言葉を受けるかたちで、(現時点での、最後のコメントにおいて)次のように断じておいた。
つまり、「もるにあの怨霊」氏が「つまんない」人間であり、しかも「馬鹿」だから、相対的に私の方が「ずいぶんマシ」なのは、否定できない事実である、と言っているに過ぎない。
私など、「一流」の人に比べれば、「二流」であることなど明白なのだから、何も自分が『今劣等感を抱かれるのに値する人間』などとは思っていない。一一ただ「三流」の人間である「もるにあの怨霊」氏に比べれば、「ずいぶんマシ」だと思うのは、決して自信過剰には当たらないと考えているだけなのである。
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「一流・二流・三流」という言葉は、当然のことながら、明確な「範囲規定」としての「定義」など持たない言葉である。
こういう硬い表現が難しければ、さらに噛み砕いて「それぞれの言葉が、どのような範囲を指していると考えるかは、人それぞれだ」ということになろう。
で、ここでは、私が以下で使う「一流・二流・三流」という言葉を、簡単に定義しておくと、
「一流」とは、「才能」が並外れていて、「欠点」がほとんどないもの。
「二流」とは、並外れた「才能」を持っているが、「欠点」もあるもの。
「三流」とは、才能がなく「凡庸」であるだけではなく、「欠点」も少ないないもの。
というようなことになるだろう。
つまり私の場合は、ある種の「非凡な力」を持っている(でなければ、小説の登場人物になったりはしない)反面、欠点も少なくない。例えば「喧嘩っ早い」とか「口が悪い」とか「遠慮がない」とか「文章がうまくない」とかいったことがあるから、おのずと「二流」ということになってしまう。
一方、「もるにあの怨霊」氏が「三流」だというのは、「人並みの能力(読解力)」もなければ、自分にその能力がないということにも気づけないほど「頭が悪い」、救いがたい「勘違い人間」であるという点において、氏は、決定的に「三流」なのだ。
たとえ、「才能がなく」ても「頭が悪く」ても、その自覚さえあれば、その人は「努力」を重ねることによって成長する可能性に開かれている。その人は、今のところ「三流」でも、「二流」になる可能性は残されているのである。
ところが、「もるにあの怨霊」氏には、自分が「三流」であるという自覚がない。
じつのところ、まったくないわけでもないのだが、それを認めたくないものだから、心理学で言うところの「抑圧」によって、「自分は三流かもしれない」という疑問の意識化を、みずから抑え込んでいる。
だが、そんなことをやっているかぎり、「もるにあの怨霊」氏には、成長の可能性がない。
みずから、その可能性を閉ざして「私はできる人間だ。文章も上手いし、だからみんなから支持されるはずだ」と思いこみ、そうした「誤った自己像」に閉じこもったままになっている。
だから、私が、件のコメント欄で、長々と「もるにあの怨霊」氏とやり合ったのも、じつは、頭の悪い氏と「議論すること」が目的ではなく、氏が「議論に値しない人間」だということに、少しでも気づかさせてあげる、というところを目標としていたのだ。
氏が、無意識に抑圧している「自己懐疑」や「自己批判」の言葉を、氏の抑圧された意識になり代わり、剥きつけに突きつけてあげ、それがいつか「抑圧された意識」の解放につながる「呼び水」になればいいと考えて、氏に対し、徹底的に「あなたは、頭が悪い」「あなたは、(捨てハンドルの匿名者である)卑怯者だ」と、「事実」を突きつけ続けたのである。
「もるにあの怨霊」氏は、私の「ネトウヨいじめ」について「趣味が悪い」をおっしゃっているが、「ネトウヨいじめが趣味だ」という私自身の言葉は、当然のことながら、私の「謙遜」から出ているものだ。
なのに、それにそのまま乗ってしまうところが、「もるにあの怨霊」氏の「文章読解力のなさ」であり「頭の悪さ」の証拠だとも言えるだろう。
そもそも私の「ネトウヨいじめ」は、匿名者である「ネトウヨ」に対して、「愛国者気取りのようだが、あなたは所詮、匿名で嫌がらせをすることしかできない卑怯者であり、その意味では、日本の面汚しでしかないんですよ。また、そんなことにも気づけないあなたは、救いがたく頭が悪い」ということを教えてあげるためのものであり、要は「もるにあの怨霊」氏の場合と、まったく同じことなのだ。
すなわち、「ネトウヨ」が「日本(祖国)の面汚し」なのであれば、「もるにあの怨霊」氏は「真フレの面汚し」でしかない。
だから、「もるにあの怨霊」氏など相手にしなかった「真フレ」の多くが「まともな判断能力のある人たち」だというのは、間違いのないことなのだ。
もちろん、「真フレ」の中にも、「もるにあの怨霊」氏のような、「頭が悪い」だけではなく「人間性にも劣る卑怯者」が、少数ながら存在する。
そして、そうした「一部の卑怯者」が、ハンドルネームを取っ替え引っ替えして「匿名」で大騒ぎをするものだから、「真フレ」にそういう程度の低い手合いが多いのかという「誤った印象」が持たれがちなのだが、現実はそうではない。
例えば、ネットだけを見ている分には、「ネトウヨ 」は、ものすごく多そうに見え、一部に「若者が保守化している」といった誤った印象を与えたりもしたけれど、保守批評家からリベラルに転向した古谷経衡が、「ネトウヨ」の実数は「日本人口のせいぜい2%に過ぎない」と算出しているとおりで、実態はそんなものだというのと、これは同様の事実だといえよう。
私は、これまでの「けもフレ」関係のレビューにおいても、何度か、SF作家シオドア・スタージョンの、次の言葉を紹介してきた。
ここでスタージョンは、刺激的に「クズ」という言葉を使っているが、その意味するところは、要は「凡庸・平凡」ということであり、すなわち「SF作品の9割は、傑作ではなく、凡作である」という当たり前の話でしかない。そして「あらゆるもの」も同じなのだ。
「平凡」なものが大半であるからこそ、突き抜けた1割程度が「非凡なもの」であると認識され、要は「傑作」だと言われるのであって、全体のレベルが上がったところで、決して大半が「傑作」ということにはならない。なぜなら、それが「当たり前」であり「平凡」であり「水準(作)」になるからである。
したがって、『けものフレンズ』ファンについても、『1』のファンだから「みんな優れている」とか、『2』のファンだから「大半が馬鹿だ」ということにはならない。
どっちだって、つまり「あらゆるもの」の「大半=9割」は「凡庸」であり、「特に優れてもいなければ、特に劣ってもいない」のであり、真に劣っているのは、「あらゆる集団」の「1割以下」でしかないのだ。
で、その「1割以下」に入っているのが、「匿名」の物陰から人に石を投げるような手合い、つまり「もるにあの怨霊」氏などのような手合いであり、だからこそ「真フレ」の9割の人は、氏を支持せず、むしろ「傍迷惑」な手合いだと評価した結果、「もるにあの怨霊」氏の渾身の力作である「年間読書人氏の記事を添削する 第一回」に「好き」をつけた人は、たったの3人しかいないという結果にもなったのだ。
しかも、そのうちの2人は、以前に私にコテンパンに批判されたことのある「捨てハンドルの匿名者」であり、その片方は「ネトウヨ」だったのである。
「もるにあの怨霊」氏が、「年間読書人氏の記事を添削する 第一回」の中で紹介している、私に対する批判記事を書いた二人のうち、「令士葉月」氏の方は、典型的な「ネトウヨ」だし、「吉成学人(よしなりがくじん)」氏の方は、「リベラル」っぽいことを言っているけれども、その心根(人間性)は「ネトウヨ」と大差がないものだから、そこを私に批判された挙句、ネトウヨである「令士葉月」氏とつるんで、私の悪口を書いたような人物である。
つまり、「もるにあの怨霊」氏が、「令士葉月」氏や「吉成学人(よしなりがくじん)」氏の文章を紹介しているというのは、要は「類は友を呼ぶ」ということでしかない。
だから、いずれも「似た者どうし」という印象を与えて、「客観的な第三者」の意見には見えないのである。
○ ○ ○
そんなわけで、ここで、わかりやすい譬え話をしてみよう。
「もるにあの怨霊」氏の「三流」性を理解するには、『機動戦士ガンダム』で知られる富野由悠季監督の『無敵鋼人ダイターン3』第37話「華麗なるかな二流」を参照してみると良い。
この作品で語られる「二流」の「二流」性とは、次のようなものである。
つまり、「二流の人」木戸川の「二流」性とは、「悪い人ではない」のだが、実力の伴わない自尊心が強過ぎて、自分がどうしても叶わない幼馴染の万丈を「妬む」、という点にある。
その結果、万丈にどうしても勝ちたいと「卑怯な手」を使うのだが、それを万丈に指摘されて葛藤することになる、というお話だ。
木戸川が「二流」だというのは、彼には、万丈のような並外れた「能力がない」だけではなく、「妬み」を禁じ得ないという「人間的な弱さ(卑小さ)」にあるのだが、しかし、基本的には「悪い奴ではない」という点において、なんとか「二流」に止まり得ている。
言い換えれば、木戸川が、人格的にも腐っていたなら、彼は「二流」とすら評価されずに「三流」と呼ばれただろうし、物語の最後で、「一流」の万丈と和解することも出来なかったはずである。
つまり、「能力がない」というのは、人間とっては、決して「決定的な弱点」ではないのだ。
すでに指摘しておいたとおり、自身の「能力のなさ」に対する「自覚」があれば、その人は成長することができる。「一流」にはなれなくても、「一流」に恥じることのない「当たり前の人間」になることはできるのだ。「正々堂々の、立派な凡人(二流の人)」になれるのである。
だが、自らの劣等感にとらわれ、他人を妬み、そのために「卑怯な手」を使うような者は、もはや「二流」とは呼べず、正しく「三流」と呼ばれるべきなのだ。
そして、まさにそうした典型的な「三流」が、「匿名の捨てハンドル」でしか他人を批判できない「もるにあの怨霊」氏なのである。
同氏は、私とのやり取りの中で、私が「匿名者が、非匿名者を批判して、自分の言説に責任を持たないというのは、卑怯だと思わないのか」と問われて、自分が匿名にしている理由を、無用の被害を受けないための「当然のネットリテラシーでしかない」し、「匿名であることと、主張の中身とは関係ない」から、「匿名が卑怯だとは思わない」と主張している。
だが、これは、当たり前の人間には、とうてい通用しない理屈である。
例えば、「絶対的な権力者に対し、言葉しか持たない無力な個人が、言葉によって抵抗する」といったような「非対称」な関係にある場合なら、「匿名」の批判も許されるだろう。
だが、「もるにあの怨霊」氏と私の間には、そうした「非対称性」はない。あるのは「言論能力における力量差」だけで、立場は対等なのである。
つまり、「もるにあの怨霊」氏が、「匿名の捨てハンドル」を選んでいるのは、要は「自分の言説に責任が取りたくない」だけなのだ。
万が一にも、私に論破され、恥をかいた場合に備えて、いつでも「消えていなくなる準備」をしているだけ。
自分は「匿名」で他人を批判しているのに、自分が「匿名者」から批判されるのは嫌だから「日頃のSNSアカウント」は隠しておき、安全第一で、いつもどおりに「匿名の捨てハンドル」を採用しているだけ、なのだ。
そして、そうした自分に「一抹のやましさ」があるからこそ、「もるにあの怨霊」氏は、自身の「匿名の捨てハンドル」採用という「卑怯さ」を、是が非でも認められないのだ。
だからこそ、氏の自己正当化の理屈は「ネットでは、匿名が当たり前であり、みんなもやっていることで、それは当然の権利なのだ」などという、哀れな主張となってしまう。
しかし、これは「盗人猛々しい」言い訳でしかない。「フェアじゃないのは、俺だけじゃない」という、開き直りである。
こうした一部の「卑怯者」は別にして、普通の人は、わざわざ「捨てアカウント」を作ってまで、人を批判したり誹謗中傷したりすることはない。
そりゃあ、言いたいことや言いたい相手の一人や二人はいるだろうが、そこまでするのは、さすがに「恥ずかしい」と、思い止まるものなのだ。
もちろん、私は、「もるにあの怨霊」氏に、本名や住所などの「個人情報」を明かせと言っているのではない。
いつも使っているSNSアカウントを示して、みずからの発言責任の所在を明確にしてもらいたいと言っているだけなのだが、とにかく自分が批判される事態を恐れている「もるにあの怨霊」氏は、それすら示すことができず、いつでも「消えていなくなれるような逃げ腰」を捨てようとはしないし、そんな「責任回避の逃げ腰」を卑怯だと認めることもできない。
くりかえすが、なぜそれを認められないのかといえば、それは自分自身でも、自分が「卑怯だ」と感じている部分があるからこそ、余計に認められないのである。
どんな親だって、自分の子が、「もるにあの怨霊」氏のような「卑怯な大人に育ってほしい」とは、思わないはずだし、だからこそ、「もるにあの怨霊」氏は、親にも見せられないような、自身の「匿名での行い」を、徹底的に隠さないではいられない。
もしも氏に、お子さんがいたとしたら、氏はきっと、みずからの「匿名での行い」を、その子にも隠すことだろう。「わざわざ教える必要はない」などと、自分自身に言い訳しながら…。
また、実際的なことで言えば、「もるにあの怨霊」氏の場合、日頃使っているSNSアカウントを明かしてしまうと、
(1)どれくらいの力量の持ち主なのか、どんなアニメを視、マンガ本や活字本を読んでいるのか、いないのかが、全部バレてしまう。
(2)日頃の「いい人ぶり」が、「仮面」でしかなかったのがバレてしまう。
といったこともあるからだろう。
だから、人のことを「文章が下手」だと言っておきながら、自分が「文章を論じられるだけの、裏づけのある人間」なのか否かの「根拠」を示そうとはせず、私が「日頃、どんな本を読んでいるのですか? 文章を云々できるほどの読書をなさっているとは思えないのですが」と質問すると、当然のことながらそれへの回答はなく、「そんなこと説明する必要があるとは思いません」と、これも拒否することしかしない。
当然、「もるにあの怨霊」氏は、私が最初から見抜いたとおりに、まともに「活字の本」を読んではおらず、だから「読みやすい文章が、そのまま優れた文章だ」などという、幼稚な発想しか持てなかったのである。
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しかしながら、こんな「頭が悪い上に、つまらない人間」の内面世界とは、いったいどのようなものなのであろうか?
私が、ごく最近読んだ本に、面白いことが書いてあった。
まるで「もるにあの怨霊」氏、そのままではないか。
例えば、「もるにあの怨霊」氏が確信しているらしい、異様な考え方として、次のようなものがある。
これに対して、私は次のように説明した。
ここで「もるにあの怨霊」氏が主張しているのは、「(小説などとは違い、批評的な)文章は、書き手の意図したとおりに、読まれなければならない」ということである。つまり、読み手が勝手に「深読み」をしてはいけない(隠された意図を読み取ってはいけない)、ということだ。
無論、こんな話は、一般世間では通らない。
「小説」が「多様な読解に開かれている」というのは当然として、批評文であろうと事務文書であろうと、「文章(表現)」というものはすべて、「多義性」を含んでおり、「表の意味もあれば、裏の意味もある」ものなのだから、そうした「多義性」を文章上で十分に制御しきれず、その結果「狙いどおりに読まれなかった」というのは、読み手が悪いのではなく、書き手の〔書き方の拙劣さの〕問題なのである。
したがって、「アッキー氏にその意図がなかったのに、違った読み方をしたのであれば、それは誤読である」という「もるにあの怨霊」氏の主張する「文章読解の正しさ」というのは、「絶対に、自分の狙ったとおりにしか読んではならない」という「自己認識への病的な偏執」にとらわれた「パラノイア(偏執狂)」独特の、異様に手前味噌な思い込みでしかないと言えるだろう。
しかもこれは、私とアッキー氏の間で、すでに決着済みの話なのだが、「もるにあの怨霊」氏は、その話を、アッキー氏の側に与するかたちでむし返すことによって、アッキー氏を味方につけられるとでも考えたのであろう。
だが、見てのとおり、「もるにあの怨霊」氏の「年間読書人氏の記事を添削する 第一回」に「好き」をつけている3人のうちに、アッキー氏の名前はない。
これは、アッキー氏が、「もるにあの怨霊」氏を「ありがたい応援団」だとは思わなかった、ということであろう。
実際、アッキー氏を批判したも同然の私でさえ、アッキー氏と「もるにあの怨霊」氏とでは、明らかにアッキー氏の方が頭がよく、物事を理解する能力があるとわかる。
また、だからこそ、アッキー氏の場合は、私の説明を理解できたのだろうし、「もるにあの怨霊」氏を「仲間」だと思いたくもなかったのであろう。
アッキー氏にすれば、「もるにあの怨霊」氏が「自分の別名」だなどと勘繰られては困る、とも思ったのではないだろうか。
ちなみに、「もるにあの怨霊」氏がコメントする前に、アッキー氏と私との間で交わされたやり取りは、次のとおりである。
この至極わかりやすい説明を読めば、普通なら誰だって「文章」というのは「本人の意図どおりに受け取られるものだとは、限らない」し、その意味でも「公開する文章には、慎重でなければならず、そこに書き手の責任が発生するのだ」ということくらいは、理解できるだろう。
だが、「もるにあの怨霊」氏には、この程度の話が、どうしても理解できず、自分の見解に、あくまでも固執する。
ここで「もるにあの怨霊」氏は、『「アッキーはこう言っていたんだな」と(※ 年間読書人が世間に)誤解させ(※ るような解釈を示し)てはいけません』と主張しているのだ。
しかし、自分個人が『(※ アッキー)氏の文章や思想、過去の記事から推察しても誤解する余地はないように見受けられます。』と推察した(解釈した)から、それこそが「疑問の余地のない現実だ」と思い込むことに、氏は何の「矛盾」も「疑問」も感じていないようなのだ。
つまり、「自分がそう確信するから、客観的にもそうだ。それ以外ない」などと思い込めるのは、その人が「他者」への想像力を欠いた、自己の「世界理解」だけに固執している「パラノイア(偏執狂)」だからに他ならないのである。
ちなみに、上で紹介している、宮崎駿作品『君はどう生きるか』についてのレビューで、私が書いているのは、次のようなことである。
これはなにも、「もるにあの怨霊」氏の言うような「小説などのフィクションに限る」といった話ではなく、例えば、私がアッキー氏とのやり取りで書いた「森喜朗元首相による〝神の国〟発言」でも、まったく同じことだというのは、「正常人」の常識であろう。
だが、自分の中に引きこもって、そこでの「全能感」に浸っている人には、自分が認められない「理解(解釈)」は間違いである、ということになる。そうでないと、自分が引きこもっている「狂気の繭」に亀裂が入るからなのだ。
ちなみに、先にご紹介した、ジル・ドゥルーズの研究者で、フランスの思想家・批評家であるダヴィッド・ラプシャードの本には、次のような部分もある。
まるで、「KADOKAWA」の世界観であり、それに侵襲されて、『けものフレンズ2』以降も「偽物ではない」と信じさせられている人たちの世界を、語っているようではないだろうか。
もちろん、これは「真フレ」だけの話ではなく、「推しブーム」だなどという言説に、体よく踊らされている人たちすべてに言えることである。
だが、『けものフレンズ2』が、『けものフレンズ』(『1』)の「模造品」であり「偽物」であったのと同じように、ことさらに、私と同じトップ画像を使って書かれた「もるにあの怨霊」氏の「年間読書人氏の記事を添削する 第一回」は、拙論の「劣化コピー」とすら呼べないものであり、ましてや「匿名の捨てハンドル」でしかない「もるにあの怨霊」氏ご当人は、私の「劣化コピー」にもなれず、せいぜいがフィリップ・K・ディックの描く「人間もどき」でしかない。
つまり、私が、たつき監督版『けものフレンズ』ならば、「もるにあの怨霊」氏は、木村隆一監督による『けものフレンズ2』くらいの違いは、十分にあるだろうということであり、あるいは、同氏は、「かばんちゃん」に対する、「キュルル」でしかあり得ない、正真正銘の「偽物(贋物)」なのだ。
そもそも、姑息にも「匿名の捨てアカウント」でしか物の言えない「もるにあの怨霊」氏は、所詮『2』にしかなれない、決して、オリジナリティなど持ち得ない、「模造人間」の域を出ない人だということなのである。
(2023年10月13日)
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