夏目漱石 ・ 金井田英津子 『夢十夜』 : 〈明晰夢〉のロジック
書評:夏目漱石(文)、金井田英津子(画)『夢十夜』(パロル舎)
再読である。前回読んだのは、内田百閒・金井田英津子の『冥途』を読んだ直後だから、2013年のことだ。
先に、金井田英津子との出会いについて書いておこう。
百閒の『冥途』自体はそれ以前に読んでいたが、金井田の絵に惹かれたので、金井田版の『冥途』で再読し、やはりすごいと感心しなおした。
一般に、文学作品にビジュアルをつけてうまくいくことなど滅多にない。ビジュアル版を喜ぶ人の大半は、もとの小説を先に読んでいなかった人で、先に小説を読んでおりその時のイメージが強烈であったならば、あと付けのビジュアルイメージに違和感を感じるのは、むしろごく自然なことなのだ。
ところが、金井田版の『冥途』は、そうではなかった。具体的なビジュアルイメージをつけるとしたら、もうこれしかないだろう、というほど見事なものであった。
そこで既刊だった、金井田版の、梶井基次郎『猫町』と夏目漱石『夢十夜』を読んだ。
どちらも素晴らしいと思ったが、印象に残ったのは『夢十夜』の方であった。私がもともと漱石のファンだったからかもしれないが、好きだからこそ評価が厳しくなってもおかしくないのに、そういうことにはならず、これも『冥途』に匹敵するほど素晴らしい作品だと思った。これが金井田版『夢十夜』の初読である。
今回は、先日刊行された、金井田版・泉鏡花『絵本の春』を読んで、やや期待はずれだったことからの再読だった。そちらに書いたレビューでは「さしもの金井田とは言え、どんな作家のどんな作品にでもピッタリ合う絵が描けるというわけではないのだろう。金井田と鏡花では、「幻想」の質が違ったようだ」という趣旨のことを書いた。
そして、もう一度、金井田版の『夢十夜』と『冥途』を読んでみようと思い、先に手に入ったのが『夢十夜』のほうで、今回の再読とあいなった。
もとより、再読しても失望させられることはないだろうとは思っていたが、やはり素晴らしかった。文句のつけようがない。
ただ、「素晴らしかった」「イメージがぴったり」とかいった、正しくはあれ、いささか間抜けな感想を連ねるだけではつまらないので、もうすこし贅言を費やすことをお許しいただきたい。
『夢十夜』の魅力である、そのいかにもな「夢らしさ」は、はたして奈辺に発するものなのだろうか。
無論、ひとつは、その計算された「文体」である。
『こんな夢を見た。』という簡潔きわまりない文章は、しかし、語り手が「作者」その人だと見せながら、じつのところ「作中の語り手」だという仕掛けになっている。ここで語られている「夢」とは、「夏目漱石の見た夢」ではなく「作中の語り手の夢」である。言い変えれば、この夢は「作品の中の作品=作中作」である。この入れ子構造が、読者と「作中で語られる夢」とに「ワンクッションの距離」をもたらして、「夢」を夢らしく、茫洋としたものにしている。簡潔明瞭に書かれていても、それは「リアルな簡潔明瞭」に堕してはいない。
また、書き出しの妙もある。例えば「第六夜」はこうだ。
第一夜、第二夜、第三夜、第五夜の出だしが『こんな夢を見た。』であり、なぜ第四夜がそうでないのかは定かではないものの、おおむね全十夜の前半がこれで、後半が上の「運慶の仁王」のような、唐突な描写で始まっている。
これはたぶん、『夢十夜』を読む読者の多くが、各エピソードを冒頭の第一夜から、ある程度は連続的に読むのを想定してのことだろう。つまり、すでに読者は「漱石の語る夢の世界」に、半分引き入れられていることを前提として、後半ではいきなり「夢の世界の言葉」が語られるのである。
したがって、引用した「運慶の仁王」の語り手は、作者漱石自身ではなく「作中の語り手」であり「夢の中の(夢を見ている)語り手」である。そして、読者自身も「夢の世界」に入っている。
「夢」の特性とは、「非合理の合理」であり「飛躍・唐突」である。
普通なら「理屈に合わない話」が、しかし「理屈に合っている」と感じられるのが、「夢の文法」である。これは、現実の世界では「相応の根拠があって、物事が合理的だと判断される」のに対し、夢の世界では逆に「リアリティのある現前(夢)によって、根拠が後から創造される」からであろう。「リアルな夢」は、「リアルだからリアル」なのではなく、「リアルだと感じるから、リアルに思う(見える)」のである。
また、夢は、唐突に始まり、突然場面転換し、いきなり終る。夢には、そこに至る合理的な「前段(根拠.前振り)」など無いし、場面転換に合理性もない。お終いも「オチがつく」とか「話がまとまる」といった合理性を持たない。
それなのに、夢を見ている最中は、それが「不自然」だとはつゆ思わない。なぜならそれは「自然だと感じられているから」であり、「不自然だ」と感じるのは、夢が覚めて、現実の論理(合理性)が起動しだしてからなのである。
漱石は、こうした「夢の論理」を、きわめて見事に再現している。「夢」を、「現実(リアル)の論理」においてリアルに描こうなどと、的外れなことはしない。「いかにも夢のような夢」を描こうとはしない。「夢の中でのリアル」を描こうとしており、「夢の中のリアル」は「現実のリアル」とは別物であることを深く弁えているのである。
これは、金井田英津子の版画についても同じだ。金井田の絵は、詳細かつリアルな部分と「何も描かれていない部分(抜けた部分)」のメリハリが、「夢の論理」に沿って見事である。
「夢」は決して「ぼんやりしたもの(輪郭曖昧なもの)」ではない。
たとえば、夢の中で本を手に取り、その細かい活字に注目すれば、それは一字一字ハッキリとした輪郭を持っていて、どこにもボンヤリとしたところがない。もっと注視すれば、原子核だって見られることだろう。
つまり夢とは、むしろ「現実以上に明確明晰」なものなのだ。なぜなら、「夢」には「空気遠近法」の「空気」がないし、「近眼・遠視」の類いもない。夢の中では、いつでも見たものに、ぴったりとピントが合っているのだ。
だが、全体としては、なぜかボンヤリとしたイメージがある。その理由は、見るもの(対象像個々)がすべてが明晰でありながら、しかし、個々のイメージの間には、合理的な繋がり(整合性)がなく、それぞれの間に「飛躍」があるため、全体像としては(総合的には)「ボンヤリとしたもの」にならざるを得ないのだ。
ところが、金井田英津子は、こうした「矛盾しながらも、不連続的につながる明晰なイメージ」を、みごとに再現してみせる。彼女の絵は「明晰な矛盾」とでも呼ぶべき「夢の映像」世界を再現しているのだ。
夏目漱石と金井田英津子は、ともに「明晰」である点において共通している。
夢だから「つかみどころがない」とか「薄ぼんやりした世界」だなどという「現世の論理」で、誤って「夢」を捉えていないところが、両者の非凡な点なのではないだろうか。
初出:2020年6月27日「Amazonレビュー」
(2021年10月15日、管理者により削除)
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