藤田政博 『バイアスとは何か』 : 〈認知バイアス〉は 面白い。
書評:藤田政博『バイアスとは何か』(ちくま新書)
人間における「認知バイアス」、つまり「認知の歪み」を紹介した本である。
大雑把に内容を紹介すると、おおむね次のようになる。
(1)人間はどのようにして世界を認知しているか
(2)認知の際に生じる「バイアス」には、どのようなものがあるか
(3)私たちは、こうした認知バイアスと、どのように付き合うべきか
(4)司法の場などにおける、認知バイアスの問題を提起する
著者本来のテーマは(4)なのだが、私たち一般読者が読んで面白いのは、著者には申し訳ないが(1)~(3)の部分である。
しかしまた、本書において「認知心理学」の面白さを知れば、読者の方でも「司法における認知バイアスの問題」にも自ずと問題意識が働くようにもなるだろうから、それでもかまわないのかもしれない。
私が、「認知バイアス」の問題として面白いと思ったのは、「認知バイアス」とは、要は「私と私の騙し合い」であるという点だ。
著者が、そう言っているのではなく、私が、自身の興味という「認知バイアス」に沿って、本書の内容を私自身に引き寄せて理解した結果が、「認知バイアス」とは、要は「私と私の騙し合い」である、ということである。
「なんだ、お前の興味に偏った紹介か」と思う方もいらっしゃるだろう。だが、それは間違いだ。
例えば、一見、本書の内容を「客観的に伝えている」ように見えるレビューであっても、そこに書かれていることは、多かれ少なかれレビュアーの「認知バイアス」と通して描かれた「本書」像であって、いわゆる「客観的」に存在する(と誤解されている)「本書」ではないからだ。
そもそも、本書を読んで「私のレビューは、本書の内容を正確に伝えている」などと思うレビュアーがいたとしたら、そのレビュアーは、本書を正しく理解しておらず、読んだ甲斐のなかった人だ、とさえ言えるかも知れない。
一一だから、私は、私の興味に即して、本書の一面を切り取って見せようと思う。
「認知バイアス」とは、要は「私と私の騙し合い」である、とは、どういうことを示唆しているのか?
それは「私は、私の認知バイアスによって、世界を歪めて見ている(しばしば、願望充足的な改ざんを加えている)」と認識するから「私は、可能なかぎり世界を正確に認識したいと思う」だろう。しかし、本書にも説明されているとおり、なんでも「正確に理解できれば良い」というものではない。
自分が、いかに頭が悪くて、特別な才能もなく、見かけも悪く、周囲の人からも嫌われている、なんてことを「客観的かつ正確に認知」してしまったら、その人は「客観的事実」に絶望して、自殺しなければならなくなってしまうだろう。だからこそ、そうはならないように、各種の「認知バイアス」が人間には仕込まれている。「自分を実際以上に良いものとして見てしまうバイアス」なんてものが、その典型だが、これは世間では「うぬぼれ鏡」などと言われたりもしている。
この「うぬぼれ鏡」という言葉は、基本的には「否定的」な評価を語ったものだと言えるだろう。要は「あいつは、現実が見えていない。自分が全然わかっていない」という、冷笑を込めた否定的な言葉だと考えていい。
しかし「それは、おまえだってそうなんだよ」ということなのだ。
誰だって、認知の病いに罹っていないかぎりは、「うぬぼれ鏡」を通して世界を見ているのだ。
だから、大切なのは「現実を直視すること(できると思うこと)」ではなくて、「どのように現実を見る(理解する)のが、正しいのか」ということである(例えば「未来に絶望するのではなく、理想を掲げて努力する」といった具合に)。
言い換えれば、「認知バイアス」の存在を是認した上での、「ある時は、バイアスのかかった認識を肯定的に利用し、ある時は、それに補正を加える」といった、「認知バイアス」との駆け引きである。
具体的な状況で言えば、ある困難に遭遇し、それを「突破できる」と感じた際、その「認識」を肯定して「よし、ここは強気で行こう」という意思決定をするか、逆にその認識を否定的に評価して「いやいや、ここは慎重に行くべきだ」というふうに考えるか、である。
つまり、「突破できる」と感じ、そう考えたのも「私(自分)」なら、その「私(自分)の認識」を「評価している」のも「私(自分)」であり、両者は明らかに、その「認識レベル」を異にしている。
そして、言うなれば、前者は「一時的な私」であり、後者は「二次的な私」。あるいは、前者は「主観的な私」で後者は「鳥瞰的な私」。さらに言えば、前者は「物理学的な私」であり、後者は「認識論的な私=メタレベルに立つ私」なのだと言えるだろう。
私たちは、決して、前者の私から自由になることはできない。しかし、後者の私によって、前者の私をコントロールすることは(ある程度は)できるし、現にやっている。だが、その割合は、人それぞれだ。
つまり、「欲望のままに生きている(に等しい)人」というのは、前者が圧倒的強い人だ。一方「自己懐疑的な人=慎重な人」とは、後者が強い人だと言えるだろう。
すでにお察しのとおり、これは「どちらが正しい」ということではない。
「無鉄砲」が良いわけでも「慎重居士」が良いわけでもなく、時と場合に応じて「自分を使い分ける」というのがベストであることは、論を待たないのである。
だからこそ、これは「今回は、私の判断が正しい」「いや、やはり私の判断の方が適切だ」という「私と私の騙し合い・説得論戦(ディベート)」であると言えるのだし、なればこそ、人間にはどんな「認知バイアス」があるのか、そしてそれの「長所と短所」を知っておくことは、「私と私の戦いにおける、武器の性能を知っておくこと」だとも言えるのである。
こうした「私と私の騙し合い」あるいは「私と私の戦い」を象徴するのが、統合失調症における「否定的な声(幻聴)」の問題だ。
おおよそ「幻聴」というものは、否定的なものが多い。
「おまえは人間のクズだ」「おまえなんかに生きている価値はない」「みんながおまえを嫌っているぞ」といったものが多く、「君は素晴らしい」「君は幸せ者だ」「みんなが君を大好きだ」などという「幻聴」はほとんどない。なぜなら、そういう時の(肯定的な)声は、容易に「私」と一体化するから、「外からの声」にはならないのである。
つまり、「幻聴」が否定的なものが大半だというのは、それは私が基本的には「生きたい=自己を肯定したい」という「生の願望(欲望)」を持っているからであり、それを否定するような「考え方」を「外部化」しているから、まるで「他人の声」のように聞こえるのである。
しかし、「外部の声」として排除したところで、やはり「否定的」な声は、私の中で直接的に響くものだからつらい。
本物の他人の声なら、耳をふさぐこともできるし、「それはあなたの考え方(価値観)に過ぎないよ」と拒絶することも可能なのだが、「私の主観の中(頭の中)で響いている、否定的な声」は、「私」と半ば一体化しているからこそ、逃げることも、否定しきることもしにくく、だからつらいのである。
だが、万全の対抗策ではないにしても、「私と私の駆け引き=私と私の戦い」において、面白いテクニックを紹介しているマンガがあった。水谷緑の『こころのナース夜野さん』という作品である。
この作品は、「精神科」の現場を取材し、かなり現実の事例に即して描かれたフィクションなのだが、その中で、私がとても興味深く思ったのは、同作第1巻の第5話「悩みをキャラ化する」だ。
要は、被害妄想による「幻聴としての声」に「名前を与えてキャラ化する」という、ユニークかつ実践的な方法が紹介されている。
同作についての私のレビューから、一部を引用させていただく。
『「おまえは役立たずだ」「まわりのみんなも、そう思っている」といった「幻聴」による攻撃的な声が、当人を執拗に責め苛むのは、その「声」が当人の意識と「一体化」しており、そのために「等閑視しにくくなっている」ためである。
つまり、そうした「内なる(批判的な)声」に対して、「本当にそうかな?」とか「そういう意見もあるだろうけど、気にしてたら切りがないよ」といった、反論や相対化の言葉を思い浮かべることが出来にくい心理状態に陥っているのだ。
そこで、この「攻撃的・否定的な、内なる声」に「名前」をつけてキャラ化し、「別人格」扱いにして、自我との「一体化」を防ぐことで、そうした「内なる声」と「一定の距離」を措くことが出来るようにする、という寸法である。
これが有効なのは、こうした手法が、決して特別なものではなく、健康な者でも、多かれ少なかれ日常的に行っている心の動きを、具体的に方法化したものだからである。』
(レビュー「〈心の不思議〉に寄り添うこと」より)
このように、私たちは、自身の中に「他人」を住まわせている、とも言えるだろう。それが「認知バイアス」だと言うこともできるかもしれない。
そして、その「他人」を「敵にするか、味方につけるか」が、「認知バイアス」との「付き合い方」だとも言えるのではないだろうか。
私たちは、頭の中に「他人」を住まわせており、その「他人の目」を通して、世界を見ている。
ならば、私たちは、その「他人=認知バイアス」とうまく付き合うしかないし、うまく付き合うならば「二馬力」にもなるのである。
さて、以上が、私の「認知バイアス」を通しての、「本書に伏在する価値」への評価だ。
私自身は、私の「認知バイアス」と、うまく付き合えていただろうか?
初出:2021年7月1日「Amazonレビュー」
(2021年10月15日、管理者により削除)
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