川野芽生 『無垢なる花たちのためのユートピア』 : 個人の尊厳と 種の滅亡
書評:川野芽生『無垢なる花たちのためのユートピア』(東京創元社)
2021年刊行の第1歌集『Lilith』で「現代歌人協会賞」を受賞し、その次に刊行したのが、第1小説集たる本書『無垢なる花たちのためのユートピア』である。
つまり、川野芽生は、歌人にして小説家であり、さらに言えば、かなり先鋭な批評家でもあって、決して「耽美華麗な幻想を描く作家」などという、オタクな「村落」的枠組みに収まるような人ではない。
第2著書となる本書の刊行以降、この2年の間に、第2歌集『星の嵌め殺し』はもとより、短編小説集『月面文字翻刻一例』、長編小説『奇病庭園』と『Blue』、エッセイ集『かわいいピンクの竜になる』、評論集『幻象録』と、6冊もの著書を刊行しているし、「Wikipedia」では川野の著書にはカウントされていないようだが、人形作家・中川多理の展覧会用に制作さられた、人形写真との川野の短歌のコラボ本である『人形歌集 羽あるいは骨』『人形歌集 骨ならびにボネ』の2冊も刊行されており、きわめて旺盛な執筆意欲を見せている。
また、長編小説(実質は中編小説)『Blue』は芥川賞候補にもなって、特定の嗜好を持った固定読者層以外の層へも、一定の存在感を示すようになってきている。
以上10冊の著作のうち、私が未読なのは『星の嵌め殺し』『幻象録』『人形歌集 骨ならびにボネ』の3冊で、これは、この3冊に興味がないということではなく、あまりにも刊行ペースが早いために読む方が追いついていないだけで、すでに『幻象録』は入手してもいる。
私の場合、特定ジャンルの特定作家だけを読んでいるのでもなければ、ただ「読破する」だけでもないから、どうしても川野の執筆ペースに追いついていないだけで、今のところ川野芽生という作家への興味はまったく薄れてはいないから、残りの3冊もおいおい読んでいくつもりでいる。
ともあれ要は、これほどの執筆ペースでありながら、今のところ川野芽生は、その「濃度を保っている」ということなのだ。
言い換えれば、書き過ぎ作家にありがちな「薄くなる」という好ましからざる事態には、立ち至ってはいない。
そうなれば、私はあっさりと川野を切るだろうが、このペースで、著作を執筆刊行していながら、まったく「薄まってはいない」というのは、なかなかどうして、只事でもなければ、只者ではないことの証明にもなっていよう。
むしろ、最初から「芥川賞」を狙っていったがために、故意に「その濃厚な個性を薄めた=一般小説読者でも読みやすく書いた」のであろう『Blue』だけは、私としては「薄くて物足りない作品」になってしまってはいたものの、これは川野自身が「薄まった」というよりも、世間に迎合するという「戦略の誤り」でしかなかったと思っているので、今のところ川野芽生への期待は捨てていないのである。
もちろん川野が、『Blue』程度の作品をいくつも書き出したら、私はまず、川野の著書を「すべて読む」という現在のモードから、「幻想・耽美系の作品だけを読む」というモードへと変更し、そうした作品でさえ「薄まった」と感じれば、その時はじめて、川野の著作を読むことを止めてしまうだろう。つまり、読書対象から「切る」ということである。
さて、そんな中で今回読んだ『無垢なる花たちのためのユートピア』は、最初に紹介したとおり、2022年に刊行された、川野芽生の第2著作にして、小説本としては1冊目になる「短編集」である。
内容的には、収録作個々に濃淡はあるにせよ、ごく大雑把に言えば「幻想SF小説集」だと言えるだろう。書き下ろし作品は別にして、収録作の多くは「SF」系の書き下ろし小説アンソロジーに発表されたものだだったためである。
ちなみに、本書を読むのが遅れたのは、例によって、積読の山に長らく埋もれさせていたからで、それを最近発掘したのだ。
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本書『無垢なる花たちのためのユートピア』の収録作品は、つぎの6作である。
まずは、各作品をざっと紹介しておこう。
(1)の「無垢なる花たちのためのユートピア」は、「世界最終戦争」後の荒廃した世界から、人類の希望を繋ぐべく「7人の導師と77人の無垢なる少年たちが選抜されて方舟に乗り込み、天空の彼方に登っていく」のだが、その「不浄なるものが排除されているはずの方舟で、不審な自殺や失踪事件が発生しており…」その真相は、というお話。
大枠はSF的な設定だが、きわめて川野芽生的に「耽美幻想」な神話的世界を描いた作品で、ちょっと見には、長野まゆみを思わせる「少年愛」的な世界を描いているようだが、しかし、それで済ませないところが川野芽生で、本作は、川野の「両極性」がうまく噛み合った、表題作にふさわしいものに仕上がっている。
(2)の「白昼夢通信」は、往復書簡形式の、純粋な「幻想小説」と言って良いだろう。個人的には、晩年の倉橋由美子を彷彿とさせられたが、「面白さ」ということでは、圧倒的にこちらの方が良作であった。
(3)の「人形街」は、伝染病により住人たちのほとんどが「人形化」してしまった惑星に取り残された、まだ人形化しきっていないある美少女と、彼女を庇護する牧師の葛藤を描いた、耽美な「反・恋愛小説」だと言えるだろう。
(4)「最果ての実り」は、「世界最終戦争」の後の世界において、「半植物化されたヒューマノイド」と「半機械化されたヒューマノイド」のファーストコンタクトを描いて、最後に意外な「真相」が明かされる、ある意味では正統派のSF作品なのだが、この作品でも「性愛=種の保存」というものに対するジレンマが描かれている。
(5)「いつか明ける夜を」は、光のない世界に「月」が生まれ、その「月の光」のよって、世界が「昼と夜」とのサイクルへと分たれたことにより「時間意識の生まれた世界」の葛藤が描かれる。
その世界では「闇のみ=時間がない」「闇=姿が見えない=色がない」だったところに、「月」が生じることで、月の出ている時間が「昼間」と認識されるようになる。それまでの「闇に生きる種族」と、それに敵対しているらしい「光の種族」との葛藤を描いた物語である。
この世界においては、「光」や「時間」や「色」が存在しないのが「正常」だったのであり、その世界に「月=光」が生まれたことによる混乱が描かれ、さらにその先にある「色の恐怖」が語られもする。
「光」の象徴される「知」を善しとする常識的な世界観を逆転させ、その意味するところを象徴的かつ暗示的に描いた物語だと言えるだろう。
(6)「卒業の終わり」は「書き下ろし」であり、他の作品とは違い、初出アンソロジーの「テーマ」に縛られることなく、川野が自由に書くことのできた作品であろう。その点で本作は、川野芽生らしいラディカルさが、最もストレートに出た作品である。
内容的には、「解説」で石井千湖が指摘しているとおり、カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』や、マーガレット・アトウッドの『侍女の物語』に連なるディストピアSFで、ある「閉鎖空間」の内部の生活が描かれた後、隠されていた「外部の真相」が明かされて、その「閉鎖空間」が持たされていた、「残酷な意味」が明らかになる、というパターンの、テーマ性のはっきりした作品である。
また、その直接的で生々しい「告発」性のゆえに、ファンタジーに耽溺したい読者には、忌避されてしまう作品なのかもしれない。
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さてこのように見ていけば、本書の収録作品は、大雑把に次のように捉えることができるだろう。
一一川野芽生の「作家性」の、右端を「幻想・耽美」性、左端を「社会批評」性とするならば、最右翼が「白昼夢通信」で、最左翼が「卒業の終わり」であり、後の4作は、その間のどこかにあるわけだが、その位置づけは、おのずと読者によって変わってくるだろう。
だが、私の見たところ、その両極性がバランスよく統合されて、小説として最も完成度の高かったのは、表題作「無垢なる花たちのためのユートピア」であろうということだ。
いずれの作品にも、多かれ少なかれ、この「両極性」を併せ持っているというのは、自明の前提。その上で、発表媒体の性質の違いによって、そのバランスや濃淡に違いが出てしまうのは仕方のないことだし、実際、川野という作家は、その両極を意識的に「按配する」ことのできる力を持っている。どちらか一方を、意図的に強めることも弱めることもできるのだが、しかし「どちらか一方だけ」になることもない作家、だとも言えるのである。
さて、川野芽生における「両極性」、一方に「幻想・耽美」性があり、もう一方に「社会批評」性があるというのは、すでに紹介したとおりの、比較的わかりやすい特徴であり、さらに「幻想・耽美」性の方は、特に説明を要しないであろう。つまり問題となるのは、川野芽生の「社会批評」性であり、川野のそれは、どのようなことについての問題意識なのか、という点だ。
端的に言えば、川野芽生の「社会的な問題意識」とは、まず「性」の問題であり、次に「マイノリティー差別」の問題だと言えるだろう。
つまり川野の問題意識とは、これまでの「男女の社会的な役割差別」問題(フェミニズム的問題)だけではなく、そんな「性的二元論」の構えに対しさえ批判的な「LGBTQ」的な問題意識、さらには、以上のような「性的な自由と平等性(差別性)」の問題にすら止まらない、それまでは自明なものとされてきた、「恋愛」や「生殖」といった「種の保存」という大前提にまで疑義を突きつける、きわめてラディカルなものである。
「男女に差別があってはならない」というのは自明な話だし、個人がどのような「性のかたち」を選ぶかというのも、自由であって良いはずで、そうしたものに「ここまでは正常だが、ここからは異常だ」という恣意的な線引きを「多数決的な問題=数の問題」として設定するのは「不正義」なはずだ。
一一そしてさらに言うなら、「人は、誰か他の個人を、性的な恋愛対象として、あるいはパートナーとして選択しなければならない(愛さなければならない=愛さないのは「異常」だ)」とか、「子を成すための性愛パートナー見つけるべき」といった「種の保存」のための「常識」は、「多数派の正義=常識」として、そのまま容認されて良いものなのか。一一川野芽生の問題意識は、こうしたきわめてラディカルなものなのだ。
要は、「種の保存」よりも「個人の自由」を尊重し、そのためには、場合によっては「種の保存」という、これまで大前提とされてきたものすら否定するのが「人間の人間たる所以」として「正しい」のではないかという、根源的な問題提起なのである。
したがってこれは、間違っても「aro/ace(アロマンティック/アセクシャル)」などといった「目新しいジャーゴン」を弄び、そうした人たちへの差別に「眉を顰めて見せるだけ」では済まされない大問題であるし、そうであることは自明なはずなのだ。
これは、ある意味では(極論すれば)「個人の自由(選択権)は、人類の存亡に優先する」という考え方であり、「たとえ人類が滅亡することになっても、人類は、その尊厳において、この名誉ある滅亡を受け入れるべき」だという覚悟の表明でなければならず、現に、子供や孫をなしている人たちが「アロマンティックやアセクシャルである少数者たちの権利を守ろう」と主張するなら、それは、自身の子や孫の「将来」を「否定することになっても」という覚悟があってのことでなければならない、ということなのだ。
で、子も孫もいない私としては、いささか無責任な言い方になるけれども、全面的な川野芽生の主張を支持している。
それでなくても私はもともと、「地球環境の悪化で、人類は遠からず滅亡する」と思っているし、だから日本政府の方針に反して、「少子高齢化」もやむを得ないと思っている。
人類が生き延びるための「生物資源開発」として「子供を作れ」という主張には、むしろ「非人間的なもの」を感じているので、個人の選択としては、子供など作らない方が「子供のため」だとも思っている。
これからますます地球の環境が悪化していくのが目に見えているのに、ほとんど根拠のない「希望的観測」だけで、自身の「性欲の結果」を正当化するような大人たちを、心から支持することも、信用することもできない。生まれてくる子供たちは、「プランテーション運営のために必要な黒人奴隷」と同様の「人的資源」であってはならないと、そう考えているのである。
さて、ここまで言われれば、いかに鈍感な「小説読者」や「短歌ファン」でも、川野芽生の「幻想・耽美」性や「マイノリティー擁護」を、「だから素晴らしい」などと脳天気に言っているだけでは済まされない、ということに気づくはずだ。
川野芽生の作品の結末が、たいがいは「悲劇的」なものであり「悲観的」なものだというのは、何も、読者の「耽美な美意識」に媚びるためのものなどではないのだという、その「重さ」に、少しは気づくべきなのである。
そうでない読者は、おのずと遠からず「転向」するだろうし、近い将来の「裏切り者」に決まっている、のである。
(2024年8月22日)
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