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マルセル・カルネ監督 『天井桟敷の人々』 : 聞きしに勝る堂々たる傑作

映画評:マルセル・カルネ監督『天井桟敷の人々』(1945年・フランス映画)

映画にまったく興味のなかった若い頃から、この映画のタイトルだけは何度も耳にしていた。
いや、それが漠然と記憶に残っていたのは、昭和の「天才」の一人といっても良いだろう寺山修司の主宰した劇団の名前が「天井桟敷」で、こちらがとても有名だったからであろう。

とは言え、劇団「天井桟敷」が活動したのは1960年代後半からから70年代後半にかけてという、私がまだごく幼い頃であったから、劇団「天井桟敷」のことは、長じてのちに知ったにすぎない。
また、長じてからも、そもそも私は「舞台演劇」というものに興味を持ったことはなかったので、劇団「天井桟敷」については「寺山修司が、かつて主宰していた劇団」という以上の認識はしかなかったし、それは今もってそうだ。

そしてさらに言えば、私は寺山修司についても、さして詳しくはない。
私が寺山修司のことを意識したのは、私の「聖典」と呼んでいいだろう幻想ミステリ小説『虚無への供物』を書いた中井英夫が、『短歌研究』誌の編集者時代に見出した、幾人かの天才歌人のうちの一人が、この寺山修司であったからだ。

つまり、私は基本的に、小説家・中井英夫のファンだったのだが、ファンとしては、中井英夫の「短歌雑誌編集者時代の大きな仕事」にも、ひととおり目配りしておきたかったので、寺山修司塚本邦雄中城ふみ子春日井健といった、中井英夫の見出した歌人たちの歌集なども、1冊ずつくらいは読んでみて、自分が決定的に「詩歌オンチ」であることを、思い知らされたりしたのである。

ただ、寺山修司の場合は、「短歌」だけではなく「戯曲」や「エッセイ・評論」集なども刊行して、その多才ぶりで知られていたので、エッセイ・文芸評論の方ならわかるだろうからと、そちらも読んでみた。
そして、「まあ、悪くはないけど、特にどうとも…」というような印象だったので、寺山のファンにはならなかったのである。

そんなわけで、寺山修司に関連して「天井桟敷」という聞きなれない言葉を知ったのだが、寺山主宰の劇団名とは別に、『天井桟敷の人々』という映画があって、寺山の劇団名は、どうやらこの映画から採られたものらしい、くらいの漠然的認識は、もう30年くらい前から持っていた。

そして今回やっと、タイトルだけは知っていた、その「名作」映画を見ることにしたのである。

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本作『天井桟敷の人々』は、第二次世界大戦末期に制作された「二部構成・190分」の、堂々たるフランス映画の大作である。

内容は、主人公の舞台俳優ジャン・バチストと美女ガランスを中心とした5人ほどの「想いのすれ違いを描いた恋愛悲劇」とでも言えるだろうか。ある意味では、典型的な「昔のメロドラマ」だと言ってもいいのだが、「メロドラマ」だから「つまらない」というわけではない。
そうではなく、「上品で抒情的な恋愛ドラマ」というほどの意味にご理解いただきたい作品で、今では作りたくても作れない、「古き良き時代の人情」を前提とした、人間ドラマなのである。

(第二部の、バチストとガランス)

さて、そんな本作を見た私の印象と評価だが、最初のうちは、物語がどのように展開していくのかがわからず、少々退屈であった。
この退屈の原因は、登場人物たちの「性格のわかりにくさ」あるいは「複雑さ」ということが、少なからずあるだろう。

まず、主人公と呼ぶべき男女、舞台俳優のバチストと暗い過去をもつ美女ガランスは、共に「自分の想いを秘めて語らない」人たちなのだ。
バチストの方は「若くて純粋で内気」だったからだし、ガランスの方は『不幸な生い立ちと決して清廉ではない過去』(Wiki)を恥じる思いがあって、自分を所詮は「汚れた女」だというふうに卑下していたためである。

また、内心では惹かれ合いながらもその想いに正直になれなかったこの二人には、それぞれに対して想いをよせる人たちがいて、その絡まり合いによって物語が駆動してゆくのである。

バチストに想いをよせる劇場主の娘ナタリー。ガランスに想いをよせる、舞台俳優のフレデリック・ルメートル、犯罪者であり詩人でもあるピエール・ラスネール、ガランスの出演した舞台を見て一目惚れしたモントレー伯爵

(ナタリーと舞台扮装のバチスト)
(左から、ピエール・ラスネールとモントレー伯爵)

つまり、これらの人物が出揃い、その関係のからまりが物語を駆動させるまでに、しばらく時間を要するため、そこまでは少々退屈だったのだ。
だがそれも、見終わってみれば、この大作には必要な「仕込み」であったと、じゅうぶん納得できたのである。

こうした「悲劇的な恋愛模様」の美しさは、登場人物たちがそれぞれに秘めた、その「純粋さ」によるものであり、一見悪党にも見えるピエールも、自分の美学を持って生きている男だというのが、最終的にはよくわかる。
つまり、登場人物のいずれもが単純な「善人・悪人」の図式には収まらない曲のある物語として、本作は「品格」さえ感じられる作品に仕上がっているのだ。

そしてまた、そうした点で本作は、今ではめった見られないタイプでありながら、今の目で見ても楽しめるし、感動できる作品となっていたのである。

あと、私が感心したのは、作中で描かれるフュナンビュール座での「無言劇(パントマイム)」における、バチストの、一一と言うよりは、バチストを演じた俳優ジャン=ルイ・バローの、パントマイム演技の素晴らしさである。このパントマイムの演技が、なんとも軽やかで美しいのだ。
言うなれば「鍛え抜かれた肉体と演技力」によるもの、ということになるのだろうが、それが「どうだ、スゴいだろう」的な凄さではなく、「上品かつ軽やか」なところが、これも今の時代では、めったにお目にかかれないもののように、私には感じられたのである。

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本作のストーリーは「Wikipedia」に詳しいが、そちらは長いものなので、ここでは「映画.com」の内容解説から、シンプルな「ストーリー紹介」部分を引用しておこう。

『19世紀半ばのパリを舞台に、女芸人ガランスをめぐってさまざまな男たちが織りなす人間模様を、第1部「犯罪大通り」、第2部「白い男」の2部構成で描く。1840年代、劇場が立ち並ぶパリの犯罪大通り。パントマイム師のバチストは、女芸人ガランスを偶然助け、彼女に恋心を抱く。ガランスは俳優ルメートルや犯罪詩人ラスネールにも思いを寄せられていたが、誰のものにもならない。そこへ、同じくガランスにひかれる富豪のモントレー伯爵が現れる(第1部)。

数年後、座長の娘ナタリーとの間に一児をもうけたバチストは、フュナンビュル座の看板俳優として舞台に立っていた。そんなバチストを毎夜お忍びで見に来る女性がいたが、彼女こそ伯爵と一緒になったガランスだった。ガランスが訪れていることを聞いたバチストは、ある時、居ても立っても居られずに舞台を抜け出すが……(第2部)』

「映画.com」・『天井桟敷の人々』より。なお、ガランスを「女芸人」と評するのは不正確。一時、バチストの勧誘で同じ舞台に立っただけ)

なお、本作のタイトルになっている「天井桟敷」というのは、この映画の場合だと、3階建て吹き抜けの劇場の『大劇場で、客席後方の最も上部の階に設けられた低料金の席』のことである。

(天井桟敷の人々)

つまり、このタイトル自体は「舞台を見る庶民層の客たち」のことを指していて、「見られる側」である主人公たちを指すものではないのだが、金持ちのモントレー侯爵を除く4人は、この「天井桟敷の人々」と同じ「庶民層」に属する人間なのだ。
例えば、バチストやフレドリックのように人気俳優になったとしても、決して「富裕層」になったというわけではないのである。

だから、本作のタイトルが「天井桟敷の人々」となっているのは、たぶん、本作が描いたのは、「貧しくも心清き人」たちの側に寄り添って描いた人間模様、というほどの意味(意図)だったのではないだろうか。

また、本作がナチス・ドイツの占領下にあったフランスで作られたという事実も、とうぜん無視し得ないところであろう。
内容的には、戦争や占領に関わる部分は皆無なのだが、「不幸な巡り合わせの中にある心正しき人々」に寄り添う映画だという点で、本作には「不幸な最中にある祖国とその同胞」に対する想いが、暗に込められていたのではないか。それを、「複雑な恋愛悲劇」として象徴的に描いた、ということだったのではなかったろうか。

ともあれ、映画好きなら、見ておくべき歴史的傑作だと、そうお薦めしておきたい。


(2024年12月27日)


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