チャールズ・チャップリン 『黄金狂時代』 : 「喜劇」と「ラブストーリー」の二側面について
映画評:チャールズ・チャップリン『黄金狂時代』(1925年・アメリカ映画)
チャップリン作品の中でも「傑作」と呼ばれる作品だというので、見ることにした。
だが、見終わった結果から言えば、次のようなことになる。
上の引用文でのポイントは『喜劇』である。
つまり、チャップリンの作品には、「喜劇」を基本としながらも、「ヒューマニズム溢れる感動作」という側面がある。前回レビューを書いた、本作以前の作品『キッド』(1921年)などが、まさにそうだ。
そして、本作『黄金狂時代』以降の作品には、『街の灯』(1931年)や『ライムライト』(1952年)のような「感動作」の側面が強く出た傑作と、『モダン・タイムス』(1935年)や『独裁者』(1940年)のような「社会批評(風刺)性」の強い傑作も生まれており、今となっては、「喜劇」として「だけ」面白い『黄金狂時代』は、どうしても「代表作」としての順位を、下げざるを得なかったようだ。
殊に日本では、『モダン・タイムス』や『独裁者』がジャーナリスティックにとり上げられることは多くとも、やはり、『街の灯』や『ライムライト』のような「感動作」の方が人気の高かったであろうことは、想像に難くない。
そんなわけで、本作『黄金狂時代』にも「ラブストーリー」の側面があるとは言え、それが主たるものではなく、あくまでも「喜劇」として面白く、しかも、そこに散りばめられた「喜劇表現のテクニック」が並外れたものであり、後進に大きな影響を与えたという点において、「歴史的な傑作喜劇」だと評すべき作品となっているのである。
本作を論じるために、まずは「簡単なあらすじ」を紹介しておこう。
ここで紹介されているのが、物語の三分の一くらいまでである。
チャップリンが、ゴールド・ラッシュの波に乗って、雪のアラスカをおとずれ、吹雪に閉ざされた「山小屋」の中で、金鉱脈の発見者であるビッグ・ジムと、凶悪犯のブラック・ラーセンを交えた三人で、食糧と小屋内の主導権をめぐって、ドタバタ喜劇を演じる。
このシーンでは、ドアを開けると吹雪の強風が吹き込んできて、外に出ようとしても、凍てついた床をずるずると滑って後退してしまい、外に出られない、という滑稽な所作が見どころだろう。
ちなみに、ラーセンが凶悪犯であることを、後の二人は最後まで知らない。
ともあれ、このあと3人は和解して、食糧確保のための狩りに出る者をくじ引きで決めるこことなり、ラーセンが当たってしまう。
ライフル銃を担いで吹雪の中を出ていくことになるのだが、その出先で彼を追ってきた刑事二人と遭遇して、刑事たちを返り討ちにして殺すと、その食糧を奪ってしまう。そして、その食糧を独り占めするために、ラーセンは、二人の待つ山小屋へ帰ろうとはしなかった。
そこで、山小屋に残された二人の飢えは深刻なものとなり、ついに二人は、チャップリンがストーブで焦がしてしまった革靴を食うことにする。それが「Wikipedia」で紹介されている、
となるだが、下に示した写真とは違って、私の見たDVDは画質が良くなく、サイレント映画だから詳しい説明もなかったために、何を食べているのかが、いまいちわかりにくかった(靴や釘には見えなかった)。
その後、飢えのせいで朦朧となったビッグ・ジムは、チャップリンが「鶏」に見えてしまい、殺して食おうとするが、すんでのところで目を覚まし、チャップリンに謝罪して、今度はジムが、ラーセンの様子を見に行くことになる。
ジムは、ラーセンを見つめるものの、ラーセンはジムを殴りつけて昏倒させ、食糧を担いで逃げてしまう。だが、そのあとラーセンは、天罰覿面、雪の崖が崩れて、崖から墜落死してしまう。
一方のビッグ・ジムは、ラーセンに頭を殴打されたことで記憶喪失になってしまい、自分が見つけた金脈や金塊をどこに隠したかなど、ほとんどの経緯を忘れて、ひとり彷徨うことになる。
また一方、待てど暮らせど二人が帰ってこないため、チャップリンは黄金発掘を諦めて山を降り、ゴールド・ラッシュに湧く麓の街の酒場で、気の強いダンサーの女性ジョージアに、一目惚れしてしまう。
さて、この後の「ストーリー」は、次のようになる。
上の紹介文は、部分的に不正確なところがあり、そこは補足しながら、以下に説明を続けよう。
ともあれ、ここに紹介されているのが、残りの三分の二で、中間部の三分の一で、チャップリンとジョージアの出会いと、チャップリンをからかうための軽口から出た「大晦日の夜のパーティー」の「すれ違い」が描かれる。
この「中間パート」での「喜劇的なテクニック」として、注目すべきな、次の点であろう。
すっかりパーティーを準備を整えて、ジョージアたちダンサーの訪問を待つチャップリン。しかし、約束の20時を過ぎてもいっこうにダンサーたちが現れないため、チャップリンはテーブルに突っ伏してうたた寝をしてしまうのだが、その「夢の中」で、訪れたダンサーたちを喜ばせるために、チャップリンの披露した「パンを刺したフォークを使い、これを、ドタ靴を履いた脚に見立てた、ダンスステップ」。一一これである。
ローソクの火で浮かび上がるチャップリンの顔、その下の胸の前あたりで、パンとフォークの脚が、まるでチャップリンの顔と繋がった、ディフォルメ人形のそれでもあるかのように、生き生きとダンスステップを踏むのである。
これはもう、映画史上に残る「名演技」と呼んで良いものではないかと思える、地味ながら超絶技巧の生えた名シーンだ。
さて、酒場でビッグ・ジムと再開したチャップリンは、ジムに引きづられて、ジムが隠した金の鉱脈(か、そこから掘り出した金塊かが、いささか分かりにくい)を見つけるべく、チャップリンの案内で、元の山小屋に戻る。
ところが、二人はまたもや吹雪に見舞われ身動きがとれなくなるのだが、その夜、吹雪のあまりの強さのために、山小屋が丸ごとズルズルと吹き飛ばされて、翌朝には、ラーセンが墜落死した崖っぷちにまで運ばれており、小屋の半分だけ崖に引っかかっている、シーソー状態に置かれてしまう。
だが、中で寝ていた二人は、すぐにはそのことには気づかず、それで、山小屋内でのシーソーゲーム的なドタバタが演じられたあと、二人はなんとか助かり、小屋にロープで縛りつけて埋めてあった、金塊入りの箱も見つけることができた。この箱が重石がわりになって、なんとか小屋の落下を繋ぎ止めてのである。
そして、この金塊入りの箱を持ち帰った二人は、金鉱脈の発見者として大金持ちとなり、船で故国に帰る途中に、チャップリンは同じ船にたまたま乗り合わせていたジョージアと再会し、二人は結ばれてハッピーエンド。一一と、そういうお話である。
さて、ここまで紹介してきたように、本作の「喜劇」としての「歴史に残る名シーン」としては、
などがある。
だが、その一方で、チャップリンとジョージアの「ラブストーリー」の部分は、いささか説得力を欠くものになってしまっており、ラストのハッピーエンドも「取ってつけた」感が否めない。
というのも、本作を全体として見た場合、ジョージアという女性は、「気が強い」だけではなく、結構「移り気」であり、「最終的には、本気でチャップリンに惚れた」のかどうか、いささか疑わしく、勘繰るならば、チャップリンが億万長者になったから、迷わずに婚約までしたんだろうと、そう見えないこともないのだ。
どうして、そう見えるのかというと、最初にチャップリンが酒場に行った際、ジョージアは小男のチャップリンになど目もくれず、背が高くスマートな青年を歓迎する。その後、女たらしのジャックがジョージアに強引に言いよるが、ジョージアはジャックを相手にせず、その当てつけに、チャップリンとダンスをしてみせたりもしたのだ。
またそのため、チャップリンとジャックは喧嘩になり、たまたま落ちてきた時計がジャックの頭に当たって、結果としてはチャップリンが喧嘩に勝ったようになかたちになって、チャップリン無事酒場を去るのだが、その際、床に落ちていたジョージアの写真を拾って帰る。
その後、ジョージアを始めとした酒場のダンサーの女たち5人が、たまたまチャップリンが住んでいた小屋を見つけ、ジョージアがチャップリンに「こないだ会った人ね」と声をかけ、皆で小屋の中に招かれる。
そして、チャップリンがお茶を用意している間に、ジョージアは、枕の下に隠されていた自分の写真を見つけて、チャップリンが自分に惚れていると知って、からかい半分に「大晦日の夜にパーティーをやってくれたら、みんなで押しかけるわ」と約束をする。もちろん、チャップリンは大喜びだ。
ところが、大晦日の夜は酒場も満員御礼の大騒ぎで、ダンサーたちは、チャップリンとの約束などすっかり忘れて、客たちと浮かれ騒いでいた。
また、ジョージアも、この頃には、女たらしのジャックが好きになっていた。
だが、日付が変わって新年になった後、ジョージアは、チャップリンとの約束を思い出し、ジャックたちと、またもやチャップリンをからかいに行くのだが、その時には、チャップリンの方でも、ジョージアたちの様子を見に出掛けていたために、両者が出会うことはなかった。
だが、ジョージアは、チャップリンの小屋に入って、すっかりパーティーの準備が整ったテーブルの上に、自分宛てのプレゼントの小箱を見つけ、にわかに良心の呵責を感じて、他のみんなに戻ろうと言い、恋人気取りで「キスをしろ」というジャックを撥ねつけてしまう。
さて、ここで問題なのは、「Wikipedia」の「ストーリー」紹介にある、次の部分だ。
つまり、この部分の展開が、「サイレント版」と「サウンド版(※ 劇伴音楽のみ)」で、少し違っており、「サイレント版」では、ジョージアが「仲直りの手紙」を出したのはジャックであり、ジャックがその手紙を、チャップリンに読ませて「誤解させた」という展開になっている。
一方、「サウンド版」では、ジョージアの「仲直りの手紙」は、最初からチャップリンに宛てられたものとなっていて、当然、両者の意味するところは、大きく違っているのである。
で、私が見た「サウンド版」(コスモピクチャー版DVD)では、なぜか「サイレント版」の「ジャックが介入」が、そのまま使われていた。
だから、こちらを見た私としては、「仲直りの手紙」をみせられ、チャップリンが大喜びをし、ジョージアを抱きしめるシーンのジョージアは、意味がわからずに当惑した表情に見えた。
また、その後すぐに、その酒場で、ビッグ・ジムと再開して「お前も大金持ちになれるから、俺と一緒に来い」と強引に誘われ、ジョージアに「きっと帰ってくる」と約束をして酒場を去らざるを得なかったチャップリンだったのだが、当然、この後の「語られていない展開」として予想されるのは、ジョージアはジャックと仲直りしたはずで、そのジョージアが、どうして最後はチャップリンと同じ船に乗り合わせていたのかが不明、ということになる。
また、「きっと帰ってくる」と言っていたはずのチャップリンが、首尾よく金塊の箱を見つけた後、酒場に行ったのか行かなかったのか、その描写もないまま、大金持ちになった後のシーンに変わる。
つまり、チャップリンが、約束通りに酒場に戻っていたのだとしたら、考えられる展開は、次のようなものだろう。
無論どちらも、基本的には「サイレント版=ジャックの介入あり」の展開を前提として想定できるものであり、もしも、「サウンド版=ジャックの介入なし」であるならば、ジョージアは仲直りしたチャップリンとの約束を信じて、酒場で待っており、そこで二人は再開するはずで、それだと、最後の「船上での再開」にはつながらないのだ。
つまり、普通に考えれば、「サイレント版=ジャックの介入あり」がオリジナルであり、「サウンド版=ジャックの介入なし」は、「あまりに残酷だ」ということで、いったんは「ジャックの介入」の部分が削られたのだが、結局は「オリジナルを尊重しよう」ということで、「ジャックの介入」版に戻したと、そういうことではないだろうか。
だが、だとすればだ、ジョージアはジャックが好きだったのであり、チャップリンの純情をからかったことについては、良心の呵責を感じたものの、それは所詮、チャップリンを愛したということではなく、好きだったのはジャックのはずなのだから、その後、ジョージアとジャックの仲がどうなったにしろ、酒場を離れたジョージアが、船上でチャップリンに再開した際、「もともと好きだった」かのように、あっさりと結ばれるというのは、やっぱり無理があるのである。
つまり「ジャックの介入あり」版でも、このハッピーエンドには無理があるし、「ジャックの介入なし」版でも、やはり無理がある。
すでに説明したとおり、「ジャックの介入なし」の場合だと、たしかにジョージアはチャップリンが好きだったのだが、それなら「船上での再開」以前に、「酒場での再開」を果たしているはずだし、そこが描かれておらず、そこでの「すれ違い」の理由が不明のままでは、物語として「辻褄が合わない」ということになるのだ。
したがって、本作は「仲直りの手紙」に関する2つのパターンのいずれを採っても、ラストの「船上での再会とハッピーエンド」には無理が生じるし、多分、オリジナルであろう「ジャックの介入」版で見るならば、ラストのハッピーエンドのついては「チャップリンが大金持ちになったからじゃないのか」という疑いを拭い去ることのできない、「不完全なもの」のなってしまっている、ということなのである。
そんなわけで、本作『黄金狂時代』は、「喜劇」としては歴史に残る名シーンの多い傑作なのだが、「ラブストーリー」としては「難がある作品」にとどまらざるを得ないのだ。
(2024年11月5日)
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