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チャールズ・チャップリン『サーカス』:ドタバタ喜劇を見直した!

映画評:チャールズ・チャップリンサーカス』(1928年・アメリカ映画)

個人的にはキッド』『黄金狂時代に続く3本目の鑑賞となる作品だが、チャップリンの監督作としては、『キッド』『黄金狂時代』の間には、偽牧師巴里の女性の2作が存在する。
なのにこの2作を飛ばして『黄金狂時代』を見たのは、『偽牧師』と『巴里の女性』という作品タイトルを聞いたことがなかったからだ。つまりこの2作は、代表作には入らないのだろうと思ったからである。

しかし、実のところ当初は、『黄金狂時代』の後は、本作『サーカス』もとばして、有名な街の灯へと進む予定だった。
『サーカス』の場合は、タイトルは聞いたことがあるけれども、そのタイトルからして、内容が透けて見えると感じたためだ。

しかしながら、『キッド』と『黄金狂時代』を見てみて、100パーセントの満足ではないにしろ、やはり代表作と言われるような有名作品は、見る価値のある、見ておくべき作品だと思えたので、いくら定番ネタだとは言え、『サーカス』も見ておこうと、そう考え直したのである。

さて、本作『サーカス』なのだが、内容的には「想像どおり」の作品だった。一一だが、意外なことに、それでも面白かった。

私も幼い頃には、ザ・ドリフターズ『8時だョ!全員集合』を喜んで見ていたクチだから、ドタバタ喜劇(スラップスティック・コメディ)が嫌いだというわけでもないし、楽しめないわけでもない。
しかし、そういうのは幼い頃にさんざん見たから「もう十分だ」という気持ちが徐々に強くなってゆき、高校生にもなると、テレビの「ドリフ」特番は見なくなったし、今でもたまに放映されることのある「懐古番組」を見ることもない。

そんなわけで、ドリフ喜劇の直接的な祖先たるチャップリンのドタバタ喜劇には長らく興味がなく、チャップリンに対する私の主たる興味は、その物語の中に込められた「ヒューマニズム」という「思想的側面」に限られていた。だからこそ、最初に見た映画も、『キッド』になったわけである。

だが今回、あまり期待せずに本作『サーカス』を見たところ、物語の方は「定番」どおりで、どうということもなかったのだが、ドタバタの方が冴えまくっていて、とても楽しめた。

(一番上は、警官に追いかけられるチャップリンとスリ。2番目は、鏡の迷路で逃げ惑うチャップリン。3番目は、ターンテーブルの上での、前になり後になりの追いかけっこ。4番目から下は、警官の目をくらまそうと、人形のふりをする二人。チャップリンがスリの頭を叩いて、機械的に正面に向き直り笑うという動きの繰り返し。スリが失神してバレる)

たしかにネタ的には、いずれも見たことのあるものなのだが、それは後進がそれをそのまんま真似たからであって、チャップリンの罪ではない。

それに、なにより肝心なのは、このオリジナルの方が、ドタバタに数等キレがある、という点だ。
つまり、こう言ってはなんだが、私は子供の頃に、チャップリンの「劣化コピー」を見て育ち、それに飽きてしまってもいたのだが、やはり「本家」は、代物が違っていた、ということである。

無論、ドリフターズの方は、客を入れた舞台で見せたライブを収録してテレビ放送したものであり、チャップリンの方は、納得できるまで何度も撮り直しをして完成させた作品だ。だから、後者の方が「完成度が高い」というのも、当然と言えば当然ではある。

しかし、「作品」というものは、「結果」がすべてであって、「過程」は重要ではない。評価にあたっては、「過程」の事情も勘案はされるとしても、やはり、作品評価としては「結果」がすべてなのだ。
だから、ドリフがチャップリンのドタバタに及ばないというのは、目的(消費形態)の違いはあれ、やはり否定できない事実なのである(一方、ドリフの魅力は定番ギャグにある、とも言えよう)。

したがって、本『サーカス』で、私が特に楽しめたのは、全編72分の最初の20分に当たる、チャップリンがサーカスに加わるまでのドタバタだった。
これはもう、今や古典となったドタバタネタばかりでありながら、本当に素晴らしい。しかしまた、この魅力を文章で説明するのは不可能なので、「見てほしい」としか言いようがないのが困ったところではある。

一方、中盤の「片思い→失恋」ネタは、チャップリンの中でも「定型」に属するものだろうから、これも後進(例えば「男はつらいよ フーテンの寅さん」シリーズなど)に大きな影響を与えたものではあるけれども、こちらは後進の方がグレードアップされた作品も多いので、今や「型通り」という印象しか受けなかった。
やはり、1本の作品の中に「ドタバタ喜劇」と「ヒョーマン・ドラマ」の両方を詰め込むのは無理があって、たぶん、チャップリンは徐々に、後者にシフトしていったのであろう。

あと、もう一つの見どころは、クライマックスの「綱渡り」シーン

ここは「Wikipedia」でも紹介されている通りで、綱渡りの特訓を詰んだ上で、チャップリン自身が吹替なしで綱渡りを演じている。
だが、チャップリンが実際に、命綱もなしに、落ちれば死ぬような高さで演じたとは思えず、その点ではどうとも思わないのだが、ただし、このシーンに登場する「猿」が最高に可愛いイタズラ者ぶりで楽しませてくれるのだ。

『このシーンでは数匹のサルが寄ってきてチャップリンの(※ 綱渡りの)邪魔をするが、チャップリンの鼻をかじるサルは、同年に公開された映画『キートンのカメラマン』でバスター・キートンと共演したサルと同じサルであり、また主演 ハロルド・ロイドの映画『田吾作ロイド一番槍』(1927年)にも出演している。性別はメスで名前はジョゼフィンといい、チャップリンが1949年に生まれた次女に同じ名を付けている。』

(Wikipedia「サーカス(映画)」

また、チャップリンが誤って「ライオンの檻」に入ってしまい大慌てするシーンのライオンや、チャップリンを見ると決まって追いかけてくるロバなど、動物たちの演技も素晴らしかった。
今では様々な理由から撮影困難になり、特撮で誤魔化すシーンも少なくないのだろうが、やはりナマモノの存在感には勝てないというのは、否定しがたいところであろう。

ともあれ、「いまさら、チャップリンなんて」とお思いの方も少なくないだろうことは百も承知で、しかし、はっきり言っておきたいのは、宣伝に煽られて見る「新作の凡作」などよりは、この100年前の作品の方が、よほど「楽しめる」はずだ、ということである。

最後に「定番」にしか見えないであろうが、いちおう「あらすじ」を紹介しておこう。一一本作の魅力は「あらすじ」には表れないところにある、ということを再強調した上で。

『見世物小屋を見ていた放浪者(チャップリン)は、スリとして警察に追われ巡業中のサーカスのテント小屋に逃げ込んたことがきっかけで、大道具係としてサーカスに入団。ドジを踏むたびに観客に大うけし、愉快なキャラクターとしてたちまち売れっ子になる。

彼は団長の義理の娘(マーナ・ケネディ)に恋をするが、彼女は新しく入団した綱渡り師(ハリー・クロッカー)に夢中。彼女をふり向かせようと、放浪者はひそかに綱渡りの練習をするのだった。

そんな中、綱渡りの演目を前にして綱渡り師がいなくなり、放浪者が代役に抜擢される。命綱が外れたりなどのハプニングの中、放浪者はみごとに綱渡りを演じきる。しかし、娘が団長に虐待されているのを見て殴り掛かったため解雇される。娘も虐待に耐えかねてサーカスを抜け出し、放浪者について来ようとする。放浪者は迷った末に、恋敵であった綱渡り師に彼女を託す。娘と綱渡り師は結婚し、娘は放浪者のサーカスへの復帰を条件に綱渡り師と共にサーカスに戻る。

サーカスの馬車が次の興業へと旅立つ中、放浪者はその地にとどまり、去っていくサーカス一座を見送る。

すべてが去り閑散とした跡地に座り込み物思いに沈んでいた放浪者は、やがて思いを振り切るかのようにその場を立ち去っていった。』

(「映画.com」『サーカス』より)


(2025年1月9日)


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