「第2の『けものフレンズ』」 とは何か? : 「キズナアイ問題」 あるいは「旧統一教会問題」との相似性において
まず最初に、「鑑賞する」ということについて書いてみよう。
ある作品をみて、「感動した」とか「すごかった」とか「共感した」とか「良かった」とかいう感想は、じつのところ、何に「感動した」のか「すごかった」のか「共感した」のか「良かった」のかが、さっぱりわからないものでしかないのだが、そういう感想を聞かされた人は、それで、その人が「何か、わかったのだろう」と思うし、そういう感想を口にした人自身、それで「何か」がわかったつもりになっている。
しかし、その「何か」を追求していくと、じつは、ほとんど何もわかっていないようなところで、そのように語られることの方が多いという事実に、私たちは気づかされざるを得なくなる。
例えば「感動した」。
「何に」感動したのかと問えば、「アニメ」の場合だと、おおむね「ストーリーに」と答えるだろう。中には、マニアックに「作画に」と答える人もいるかも知れない。
では、「ストーリーの何に感動したのか?」と問えば、これこれのシーンにと具体的に答える人もいれば、「主人公たちの友情に」と答える人もいるだろう。
前者に対し、「そのシーンの何に感動したのか?」と問えば、そのシーンで描かれた「主人公たちの友情に」と答えるかも知れない。
ではさらに「主人公たちの友情について、どう感じたから、あなたは感動したのか?」と問うた場合、その回答は難しくなる。というのも「友情は素晴らしいものである」というのを大前提として、そのように語っている人というのは、「友情とは何か。それはなぜ素晴らしいのか」というところまでは、およそ問うたことがないからである。
しかしまた、「友情」を「友情一般」として、ただ「素晴らしい」というだけで、その作品に描かれた「友情」が素晴らしいと言ったのだとしたら、それは「友情さえ描かれていれば」つまり「型どおりに(紋切り型に)友情が描かれていさえすれば」感動できるということになってしまうが、しかし、それは「感動」の美名に値するものなのか?
それは、「パブロフの犬」のような、単なる機械的な条件反射でしかないのではないか。餌を見せられた、無意識に唾液が出るといった、およそ「理性」とは無関係な「生理的反応」でしかないのではないか。
一一しかし、そんなものを「感動」と呼ぶのは、どこか本質的なところで、間違っていやしないだろうか。
だが、実際のところ、人間は「生体機械」なのだから、「情動」というのも、基本的には機械的なものなのかも知れない。
昔の小説家は、よく「読者を泣かせるのは簡単だ。例えば、無垢な子供や、健気な動物を不幸な目に遭わせれば、それで読者は気を揉むし、その逆境から救われて幸せになれば、良かったと安心して感動する。また、感動の涙を流す。けれども、笑わせるというのは、そう簡単なものじゃないんだ」という趣旨のことを語っていた。
「笑い」の問題は、それ自体なかなか難しいことなので、ここでは措くとして、問題は「心がふるえる」態の「感動」というのは、意外に薄っぺらなものだ、と語られていることの方が重要であろう。
というのも、私たちは「感動」とは、なにやら無条件に素晴らしいものだと信じきっている。だから「感動しました」と言っておけば、それですべて片づくかのように思い込んでおり、「感動しました」を伝家の宝刀のごとく、しかしながら、やたらと無闇に振り回しがちなのだが、もしも「感動」が「パブロフの犬」のごとき、無意識の、つまり「何も考えていない」単なる「条件反射的なもの」でしかないのだとしたら、ただ「感動した」と言っただけでは、何も語ったことにはならないし、語ってもいない、それは「無内容な言葉」でしかない、ということにはならないか。
それは「呼吸をしました」あるいはせいぜいのところ「食事をしました」程度の事実しか語っておらず、作品について、自身が感じたところを、何も語っていないに等しいのではないのだろうか。
そして実際、そうなのだと思う。
多くの人は、こうしたことを考えたこともなく、ほとんど条件反射的に「感動しました」という言葉を口にしている。そう言っておけば、作品を「理解した」ことになると思っているからであり、そう言っておけば、「何が?」あるいは「何に?」などとしつこく問われることもないとわかっているからだ。
例えば、「くだらなかった」と否定的な意見を言えば、多くの場合に「何が?」「どこが?」と問い返されるだろう。批判否定するからには「根拠」を示せというわけだ。
だから、そう問われた場合、あのシーンが「くだらなかった」と言えば、「どうくだらなかったのだ?」と問われ、例えば「あんなのありがちな描写だ」とか「描き方が薄っぺらい」などと答えれば、相手は「私は、そうは思わなかった。それはあなたが、あの作品の良さを理解できなかっただけにすぎない」と返された場合、後は、どちらの感想が適切なものであったのかという、鑑賞者自身の「能力」が問われることになってしまう。(他人の作った)作品どうこうではなく、鑑賞者である個々(自身)の「能力」が問われ、肯定者と否定者個人のどちらに、より「鑑賞力」があるかが問われることになるのだ。
つまり、自分自身が、他者からの「評価の対象」になってしまうのだが、それに耐えられるだけのものを持っている人が、いったいどれだけいるだろう? 能力を問われて、平然としていられるだけの力を持っているという、自己確信を持てるだけの、具体的な裏付けのある人が、どれだけいるだろうか。
実際のところ、そんな人はほとんどいないから、特に今の多くの人は、否定批判することを避ける。要は「説明責任」を負いたくないのだ。「そう言うお前はどうなんだ?」と問い返されたくないのである。そうした問いに、根拠を示して答える自信がないのだ。
しかしながら、根拠不明であっても、多くの人は自身に「鑑賞能力がない」とは思っていない。そうは思いたくないからである。根拠のない自信も、自分ひとりで持っている分には何の問題もない。
それが問われるのは、意見表明するからで、しかも否定的な意見を述べるからだ。
つまり、無難に肯定的意見を述べている限りは、その根拠を問われることがないから、多く人は、根拠不明な自身の鑑賞能力の存在を信じて、「感動しました」というマジックワードを口にするのである。
その言葉の意味するところは「私は理解している。私にはその能力、つまり鑑賞能力がある」というアピールだ。ほとんどそれだけといっても、過言ではないのかも知れない。
また、そういう事情だからこそ、言いっぱなしの言い逃げができる「匿名」だと、批判的否定的な評価を口にする人が、グッと増えるのだろう。
「匿名」であれば、不都合な事態になっても、姿を暗ますことで「説明責任」を回避できるという安心感があるから、つい「本音」が漏れる。
しかし、そのようなかたちでしか本音が語れない人というのは、そもそも「語るに値するもの」など持っておらず、要は「鑑賞能力」などを持ってはいない人だ、ということなのである。
ことほど左様に、「わかっている」つもりで「わかっていない人」というのはたいへん多い。
私は、先日書いたレビュー「たつき『けものフレンズ』 の非凡性:演出家・たつき監督のすごさについて」の中で、「こう簡単に書いても、多くの人は、その意味がわかっていないだろう。わかっていないのに、わかったつもりになっていたはずだ。だから、本稿ではそれを詳しく説明する」という趣旨の趣旨説明をしたのだが、そこで指摘したような「自覚されることのない無理解」というのは、山ほどある、というよりも、もしかすると、そっちの方が多いかも知れない。ちょっと複雑な議論だと、多くの人は、それが理解できない。
にもかかわらず、「平易な表現」で書かれていればいるほど、それを理解したような「錯覚」にとらわれているような場合の方が、むしろ多いのではないか。
例えば、私が今ここで語っていることを、本当に理解している人がどれだけいるのか、疑わしいというよりも、「ほとんどいない」と断じた方が、よほど正確なのではないだろうか。
そんなわけで、私が今回書きたいのは、以前に書いたレビュー「『けものフレンズ』騒動は、なぜ燻り続けるのか?:「資本主義経済」の呪い」で書いた、たつき監督による『けものフレンズ』だけではなく、まったくの別スタッフによる作品『けものフレンズ2』を、同様に高く評価する人というのは、両者を区別して「独立した作品(コンテンツ)」だと見るのではなく、すべての「けものフレンズ・コンテンツ」を一体のものとして見るという「特徴がある」、とした点であり、その意味するところの補足である。
つまり、コンテンツ個々を「独立した個々の作品」と見ることが出来ず、「関連コンテンツをひとまとめに一体のものとして見る」という態度が、どのような問題を含んでいるのかを、もうすこし具体的に語りたいと思ったのだ。
というのも「ここが問題だ」と指摘しても、そこの「何が問題なのか」について理解した人は、例によって、ほとんどいなかったはずだからである。
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そこで今回は、「note」において、比較的多く「けものフレンズ」関連の記事を書いておられる「アッキー」氏の、興味深い記事を採り上げてみたいと思う。
「ケムリクサはなぜ第2の初代けものフレンズになれなかったのか?」と題された記事だ。
アッキー氏は、この記事で、たつき監督が、「けものフレンズ」後に初めて発表した、シリーズもののアニメ『ケムリクサ』について、同作が「どうして、第2の『けものフレンズ』と呼ばれるほどの、ヒット作にならなかったのか?」と問うて、その原因を考察している。
私はまだ、この『ケムリクサ』を視ていないので、どの程度の出来の作品なのか、個人的には評価できないのだが、しかしそれは、たつき監督の作品であること、特に否定的な評価を目にすることもないといったことで、それなりによくできた作品なのではないかと思っており、機会があれば、ぜひ視たいと考えている。
実際、アッキー氏の同論考では、『ケムリクサ』は次のように紹介されている。
つまり、作品としての評判は「とても良かった」のだが、『初代けものフレンズ』のような『熱狂的な流行』には『ならなかった』という評価である。
そこでアッキー氏は、なぜ『ケムリクサ』が『初代けものフレンズ』のような『熱狂的な流行』には『ならなかった』のかという謎について、「作品の出来」ではなく、「商品としての売り方」に注目して、考察を加えている。つまり、
などがその原因だ、といった具合である。
そして、この分析の結論として、「最後に」で、次のように書いている。
つまり「作品の出来は良かった」のだが、業界的な『ゴタゴタ』が災いしたため、『初代けものフレンズ』のような「大ヒット作」にはなれず、「マニアうけ」に止まったのだろう、ということである。
そして、以上のような分析の上で、アッキー氏は「おまけ 逆襲のけものフレンズ」と題して、次のように語っている。
重要なところだから、全文引用しておこう。
以上をまとめるなら、たつき監督の手から離れた、「『けものフレンズ2』以下のコンテンツとしての、けものフレンズ」は、
としている。
つまり、個々の作品としては「凡作」または「単なるグッズ」にすぎないのだが、「売り方が良かった」から、「けものフレンズ」の「商標」をなんとか守っている、ということである。
そして、この「おまけ」部で、アッキー氏が言いたいのは、「良い作品でありながら、売り方で失敗した『ケムリクサ』」よりも、「凡作以下でありながらも、売り方のおいて延命を果たした『けものフレンズ2』以下のコンテンツ」の方が、「売れた」という意味においては「第2の『けものフレンズ』」の名に値するのではないか、ということなのだ。
たしかに、アッキーさんのおっしゃっていることは「間違ってはいない」と、私も思う。
だが、「作品本位」の私から見れば、アッキー氏のご意見というのは、「アニメファン」のそれではなく、「マーケター」のそれでしかないから、氏の言われる「第2の初代けものフレンズ」という言葉の意味も、『初代けものフレンズ』のような「優れた作品」という意味ではなく、『初代けものフレンズ』のようにとまでは言わないまでも、それなりに「売れた商品」ということでしかない、ということになる。
要は、これは「作品として駄作でも、商品としてヒットすれば、それで勝ち」という「価値観」においての「第2の『けものフレンズ』」ということでしかないから、「作品本位」の私からすれば、そんな「KADOKAWA流の価値観」での評価など、何がなんでも「金儲けがしたい人」以外には、「無意味」なのではないか、ということにしかならないのだ。
単純な話、アッキー氏のような(マーケター的)価値観で作品を視ている人というのは、「作品としての質」ではなく「ヒット作か否か」だけで、視る作品を選んでいるわけであり、要は「作品そのものを、見る目がない」ということにしかならない。
私が、あるいは、シオドア・スタージョンがいうところ(「SFの9割はクズである。ただし、あらゆるものの9割もクズである」)の「9割の凡人」というのは、そもそもまともな「鑑賞能力」がないから、流行っているものを追いかけるだけであり、それを「自分は作品を理解している」などと「勘違いしているだけ」ということになるのである。
当たり前の話なのだが、多少とも「鑑賞能力」のある人は「良質な作品(よく出来た作品)」を求めるのであって、「9割の凡人」たちの評価に頼った「流行作品」を求めているのではない。
「優れた作品」からは「良質な感動」が得られるから、「鑑賞能力のある人」は「良質な作品」を求め、その「良質性」を味わうのである。
一方、「ミソとクソ」の区別ができない「味覚オンチ」と同様に、作品の「質的良否」の区別がつかない、鑑賞能力のない人は、当然のことながら「良質な作品の良質さ」がわからないのだから、「ミソとクソ」は、その人にとっては等価でしかない。
ならば、世間で人気のある方を評価しておけば「間違いない」となるのは、理の当然なのである。
そんなわけで、アッキー氏のご論考は「マーケット分析」としては、たいへん興味深いものであり、よく書けた文章だとは思うものの、「作品分析・評価」という点では、何もない、と言っても良いだろう。
なにしろ、氏の興味は「売れたか売れなかったか」ということでしかないし、要は、資本主義経済おける「勝者」であることにしか興味がないようなもの、「作品鑑賞」とは全く無縁な論考だったからである。
つまり、アッキー氏の同論考のタイトルにある「ケムリクサはなぜ第2の初代けものフレンズになれなかったのか?」という設問は、『初代けものフレンズ』のような「売れた商品になれたか否か」という意味での問いでしかなく、『ケムリクサ』と「『けものフレンズ2』以下の、けものフレンズ・コンテンツ」とでは、どちらが「第2の『けものフレンズ』」の名に値する「良質な作品なのか?」という問いにはなっていない、のである。
「作品の質」ということでは、アッキー氏も認めているとおりで、『ケムリクサ』の方が「第2の『けものフレンズ』」なのは、論ずるまでもなく明らかなことである。
ただ、うまく「売り込めなかっただけ」であり、『ケムリクサ』は、言うなれば「不遇な名作」だということなのだ。
無論、「作品の質」においては、「『けものフレンズ2』以下の、けものフレンズ・コンテンツ」など、「第二の『けものフレンズ』」などであり得ないのは、わかりきった話でしかないし、それはアッキー氏も認める事実なのだ。
一一しかし、アッキー氏のこの論考を読んで、「やっぱり、『けものフレンズ2』以下の、けものフレンズ・コンテンツこそが、正当な『けものフレンズ』継承者だ」などと考えた人は、氏の論考を「読めていない」ということになる。
問題は、「第2の『けものフレンズ』になれたか(否か)」ではなく、その「第2の『けものフレンズ』」の『第2』とは、どういう意味での『第2』なのかということなのに、そうした人たちは、それをまったく読み取れていないのである。
そして、読み取れていないという事実にすら、まったく自覚がない、ということなのだ。
アッキー氏の論考を読んで「第2の『けものフレンズ』は、『ケムリクサ』ではなく、『けものフレンズ2』以下の正規コンテンツなんだ!」などと喜んだ人は、忌憚なく言えば、頭が悪く、読解力がない。おのずと作品鑑賞能力も、その程度のものでしかない、ということにしかならない。一一これが、「駄作は駄作でしかない」という、論理的な読みというものの厳しさなのだ。
そもそも、「ケムリクサはなぜ第2の初代けものフレンズになれなかったのか?」という「問いの立て方」が、ミスリードでしかない、ということに、多くの人は気づかなかったであろう。
このタイトルが意味するのは「ケムリクサは、なぜ初代けものフレンズほどのヒット作になれなかったのか?」という意味でしかない。
つまり、決して「作品としての正統性」を問うているわけではなく、「商品としての正統性」を問うているだけなのだが、その区別のつかないのが、「『けものフレンズ2』以下のコンテンツ」を支持している人たちなのである。
そもそも、『ケムリクサ』は、『初代けものフレンズ』のような作品を目指して作られたものではない。たつき監督が「『けものフレンズ』とは別方向」で、その個性にしたがって作った「別作品」なのだ。
決して「第2の『けものフレンズ』」を目指したわけではないからこそ、バカでもわかる「可愛らしさ」だけを売り物にしたような作品にはしなかった。あえて「2匹目のドジョウ」を狙わなかったのである。
それに「ケムリクサはなぜ第2の初代けものフレンズになれなかったのか?」という問いは、「作品創造(クリエイト)」という意味においては、意味をなさない「誤った問い」でしかない。
例えば、「アニメ『スペースコブラ』は、なぜ第2のアニメ『あしたのジョー』になれなかったのか?」などと問うのは、あまり意味のないことである。
なぜなら、出崎統監督は『スペースコブラ』を「第2の『あしたのジョー』」にしようとして作ったわけではなく、別作品として「優れた作品」にしたいと考えて作ったのであり、その意味では、『ケムリクサ』のたつき監督も、まったく同じことなのだ。
優れた作家は、リスクを引き受けてでも、安直な「2匹目のドジョウ」を狙ったりはしないものなのである。
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しかし、こうしたことはすべて「優れたクリエーター」の心理や矜持の問題であって、「凡庸な鑑賞者」あるいは「凡庸な消費者」には、たぶん理解不能であろう。
「前作がヒットしたのなら、同じ路線で、2匹目のドジョウを狙うのが当然であり、私たちも似たようなものなら、それで満足だ」という程度のことしか考えられないからである。
だが、『初代けものフレンズ』のような「優れた作品」は、そんな「見る目のない人たち」には作れないし、そんな人たちだけを当てにして作っていたのでは「ろくなもののはならない」というのも、わかりきった話だろう。
要は「易きに流されて」いては、まともな作品など作れないのであり、本物の「作家」は、「商品」ではなく、まず「作品」を作るのだ。その上で、その「作品」が売れてくれれば嬉しい、ということでしかない。「売れれば良い」ということではないのである。
しかしながら、鑑賞能力のない「凡庸なファン」というのは、残念ながら「中身の区別がつかない」から「外見的に、似たようなもの」を求めてしまいがちだ。
その良い例が、下に紹介する「キズナアイ」をめぐる、同種の問題である。
「あじさんま」氏による「ファンから見たキズナアイちゃん騒動」と題されたこのレビューは、たいへん痛ましい内容であり、同情を禁じ得ないものだ。
平たく言うと、「バーチャルYouTuber」として生み出さた「キズナアイ(Kizuna AI)」は、「バーチャルアイドル」としての人気が高まり、その人気は「中国」などにも広がったのだが、そのため(中国語に対応するため等の理由で)「中の人」の人数が増えて、オリジナルの「中の人」の仕事が(相対的に)減ってしまい、中には邪推に近い批判もあるにしろ、少なくないファンが「中の人が別人のキズナアイなど、所詮、偽者でしかない」という不満を漏らしはじめた。
こうした事態(騒動)に対して、「あじさんま」氏の立場を語ったのが、同稿なのである。
で、「あじさんま」氏の個人的な結論は、次のようなことになる。
要は、キズナアイのファンであるならば、「公式」の見解を「信じるべきだ」ということである。
これまでキズナアイによって癒されてきた「私たちファン」であれば、それが「正しい」姿勢だ、とそういう主張なのだ。一一だが、これは所詮「盲信」でしかない。
例えば、それまで「聖人君子」だと信じられてきた「教祖」のスキャンダルが報じられたときに、多くの「信者」は「マスコミの報道に惑わされてはいけない。私たちは、教祖様に救われて、今の自分があるのだから、肝心な時に教祖様を信じなくてどうするのだ!」と力説する。これは、かつての「池田大作個人崇拝の創価学会員」などと、まったく同じことなのである。
もちろん、「信じたい=甘い夢を見続けていたい」という気持ちは、理解できないわけではない。
しかし、だからと言って、私はこうした「盲信」を容認することはできない。「好きで信じて、好きで金を注ぎ込んでいるのだから、その人の勝手じゃないか」では済まないのは、「旧統一教会」などの事例を見れば明らかなはずだ。
「現実」に基づかない「幻想」への依存は、結局のところ、その本人だけではなく、周囲の者まで不幸にする場合が少なくないし、社会的な害悪にもなる。
要は「自分さえ(今が)良ければ、それで良い」ということでは済まされない。「信じる信じない」ではなく、「何が正しいのか」が、問われなくてはならないのだ。つらくとも、それを問わなくてはならないのである。それが、責任ある「大人」というものだからだ。
だから、現実を直視できない、弱い人である「あじさんま」氏は、もっともらしく「キズナアイへの愛と感謝」を語りながらも、「コンテンツとしてのキズナアイ」が延命されるのなら、「オリジナルの中の人」が蔑ろにされることも黙認すべきだ、という態度になってしまっている。つまり、「自分さえ良ければ、恩人を蔑ろにすることも厭わない」ということにしかなっていないのだ。
したがって、厳しく言うならば、「あじさんま」氏に「愛」を語る資格などない。
むしろ「あじさんま」氏に対しては、「早く、その病的な依存から脱却しなさい」と、厳しくも「愛」ある助言をすべきなのである。
一一で、この「あじさんま」氏の事例は、そのまま「『けものフレンズ2』以下の、けものフレンズ・コンテンツ」に依存する人たちと、まったく同質だと言えるだろう。
「キズナアイ」の場合と同じで、「中身は変わっても、外見が同じなら、同じものだと信じて、惰性的に依存し続けたい」ということでしかないのである。
だから、私が「『けものフレンズ2』以下の、けものフレンズ・コンテンツ」に依存する人たちに言いたいのは、世の中には、他にいくらでも素晴らしい作品があるのだから、それを探しなさい、安直かつ怠惰な「依存的盲信」は捨てて、「本物」の喜びを見つける努力をなさい、ということだ。
「キズナアイ」も「けものフレンズ」も、所詮は「見かけだけの容れ物コンテンツ(着ぐるみ)」に過ぎない。
それらが「本物」になるのは、本物の「中身」が盛り込まれた時だけなのだという「現実」を、たとえつらくても、それらの「作品」への「愛」のゆえにこそ、認めるべきなのだ。
実際、「見かけさえ似たようなもの」なら、それは「同じもの」だと、本気で思えるのだろうか?
だとすれば、例えば、「サーバル」や「キズナアイ」を扱った「エログロ同人誌」なども、見かけさえそっくりなら、「正当な作品」だと認めるのだろうか?
コンテンツ延命のためなら、猿の脳でも移植すべきだ、とでも言うつもりなのか?
「そんなものは認められない」というのであれば、どうして、不出来な『けものフレンズ2』や「中の人が別人のキズナアイ」といった「模造品」を認めるのだろうか?
「公式」のいうことが「正しい」という保証など、いったいどこにあるというのか?
多くの場合、「公式」なるものは、「KADOKAWA」と同様、基本的に「金儲け」でやっているというのは、大人なら、本当は誰もがわかっているはずではないか(だから、KADOKAWAは、オリンピックで大会役員に賄賂を渡したのだ)。
それとも、そういう「なんでも支持者=盲信者」たちは、本気で、1ミリの「疑い」も持たずに、「公式」発表を信じているのだろうか? いまだに「大本営発表」を鵜呑みにするほど「無知で愚かな日本人」なのであろうか?
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たぶん、「『けものフレンズ2』以下の、けものフレンズ・コンテンツ」を支持する人たちであっても、「旧統一教会を盲信している人たち」を「愚か」だと思っていることだろう(それとも、分相応に「シンパシーを感じている」のだろうか?)。
だが、いずれにしろ、「現実」を見られないで、ただ盲目的に「信じたいものにしがみつく=依存」という点では、「旧統一教会の信者」と「『けものフレンズ2』以下の、けものフレンズ・コンテンツを支持する人たち」と「中身を問わないキズナアイ信者」とは、所詮、同質なものでしかない。
こうした人たちは、うすうす自身の愚かさに気づいていながら、しかし、その現実を見たくないからこそ、無理にでも目をギュッと瞑っている、哀れな人たちなのだ。
したがって、私がやっているのは、端的に言うと「洗脳はずし」なのである。
「カルトの洗脳」をはずすのが、困難事であるように、「薬物依存」などに代表される「依存症」から、人々を脱却させることさえ、けっして容易なことではない。
当人が、脱却したいと思っていても困難な「依存からの脱却」を、それを望んでいない人に対して行うというのは、とてつもない困難事であるというのは、分かりきった話である。
だが、そうした人たちが「自分さえ良ければ良い」という意識から、周囲の人や社会にアダをなす以上は、決して放置しておいて良いことではない。
無論、私にできることは「言葉をつくす」ことだけであり、そんな言葉は、耳と目を塞いだ多くの「盲信者」たちには届かないだろう。
だが、こうしたことを書いておくことには、大きな意味があると私は信じている。
それは「盲信」だの「依存」だのといった「反社会的な愚行」は、何も「宗教」や「アルコール」や「ギャンブル」や「セックス」などといったものに限定されるものではないということを、まだそうした「悪徳」に染まっていない人へ向けての、警鐘とし得るからである。
前にも書いたことだが、たつき監督が『けものフレンズ』の最終回で描いていたのは、外部への「旅立ち」であった。
「ぬくぬくとこのままで」だけでは済まされないという現実を、あの最終回は「新たな大冒険の始まり」として描いていたのではなかったろうか。
(2023年9月24日)
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