満若勇咲監督 『私のはなし 部落のはなし』 : なぜ〈差別〉は 無くならないのか?
映画評:満若勇咲監督『私のはなし 部落のはなし』
というのが、本作のリードコピーである。まったくそのとおりの作品だ。
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さて、今の若い人たちは、「部落差別」というものに、どんなイメージを持っているのだろうか?
私が生まれ育ち、今も住んでいる大阪が、「部落差別」に縁の深い土地柄だということもあり、私の幼い頃には、まだまだ「部落差別」の問題は、比較的身近なところにあった。
例えば、小学校のクラスメイトの中には、思わせぶりに指4本を示して、うれしそうに「よっつ」という言葉を使っていた者がいたように記憶するし、近隣の町に出かけた際には、「差別をなくそう」とか「狭山差別裁判を絶対に許すな!」「石川青年を冤罪から救おう!」といった看板を目にすることもあったからだ。
もっとも、後の2つの看板については、大人になってから、初めて「部落差別」に関わるものであることを知ったのだが、いずれにしろこれらの看板は、おおよそ同じ地区に掲げられていたので、同様の「空気」を、そこに感じていたように思う。
そんな時代に比べると、今は「部落差別問題=同和問題」というものは、きわめて見えにくくなっている。
これは、同和問題解決のため、1969年に公布・施行された「同和対策事業特別措置法」という10年間の時限立法が『生活環境の改善,社会福祉の増進,産業の振興,職業の安定,教育の充実,人権擁護活動の強化』などで一定の効果をあげ、終了したこととも関係しているだろう。
つまり、もう「被差別部落」は、それ以前のような、一見してわかるような「貧困地区」ではなくなり、「外見上の区別」はつきにくくなったため、差別される側としても、ことさらに「同和地区」であることがわかるような「徴」を掲げることを、避けるようになったからではないだろうか。
その結果として、「部落差別」は、良い意味でも悪い意味でも「不可視化」されて、「心の問題=認識の問題」へと変化してきた。
また、そのせいで「見えないものは、気にならない」人にとっては、徐々に「部落」は存在しないものとなっていったが、その一方「見えないからこそ、見えないものに意味を見出してしまう(疑心暗鬼する)」人たちも残って、それが「部落差別」を永続化させてしまうことにもなっている。
目に見える「貧困」ならば、対処のしようはある。要は、お金をかければなんとかなるのだが、個人の「心の問題=認識の問題」というのは、お金で解決できるものではないのだ。
そして、これは「宗教」の問題と同じである。一一そう考えれば、とてもわかりやすい。
言うまでもなく「部落差別」というものは「フィクション」であり、実体的根拠などありはしない。
江戸時代に制定された「身分制度」の延長で、「人外」としての「穢多・非人」などの身分も「政治的」に作られたわけだが、これは無論、民衆を「分断統治」するための「政治的フィクション」であって、生物種としての「人間」に、「士農工商」や「穢多非人」といった物理的区別があるわけではない。
「穢多・非人」を「起源的に、日本人ではない」とする「人種主義」なども、無根拠で恣意的な「フィクション」だし、「人種主義」そのものが、そもそも「フィクション」でしかないのである(このあたりのことが理解できない人は、是非とも勉強してください)。
つまり「部落差別」に実体的な根拠など無いというのは、黒人・白人・黄色人のように「見た目の違い」がある「人種差別」に比べれば、比較的理解しやすいものだと言えるだろう。
一一それなのに、どうして、いくらかの人たちは「部落の人間」を「別物」だなどと、本気で考えたりするのだろうか?
例えば、この映画の中にも、本音を隠して「部落の人」とも付き合っているという高齢女性が「顔出しなし」のインタビューに答えているが、彼女は「結局は、血なのだ」と言う。
簡単に言えば、自分は「地位も名誉もある武家の末裔」だが、「部落の人」たちは屠殺業や皮革業といった「血穢」にかかわる「賎業」にたずさわってきた「汚れた血筋」の人たちで、自分たちとは「血筋が違う」、流れている「血」が違うと、そういう認識なのである。
だが、言うまでもなく、「血筋」などというものは「物理的」には存在しない、所詮は「(選民願望の)フィクション」でしかない。
「血筋」というのを、科学的な「物理的遺伝」に限定し、「外見・性格・能力の遺伝」といったことに議論を限定するのならばともかく、「天皇家には神の末裔としての聖なる血が流れており、部落民には施陀羅の汚れた血が流れている」などという発想は、ほとんど「(昔の)子供向けテレビアニメ」の「勧善懲悪的な善悪二元論」にも等しい、きわめて「幼稚な発想」と言うしかないものだろう。
だが、そんな「無知蒙昧」な「土人の信仰としての差別意識」を、いまだに後生大事に抱えている人が、現に、少なからず存在しているのである。一一いったい何故なのか?
これは、「ウルトラマン」の実在を信じている幼児に対し、「ウルトラマンって、本当はいないんだよ」と教えるにも等しい、きわめて容易なことであるようにも思えるし、事実、「ウルトラマン」についてなら、子供の方も、すぐには信じなくとも、そのうちに「知恵がついて」、それが「フィクション」であることを理解する。
大人になっても、まだ本気で信じている人など一人もおらず、もしもそんな人がいたなら、もはやその人はなんらかの精神病者だということにしかならないだろう。
ところが「部落民などというものは、実在しないんだよ。それは政治的に作られたフィクションでしかないんだ。そもそも、血穢なんてものも、所詮は、死への生物的恐れに発する、原始的なフィクションでしかないし、それに基づく、屠殺業や皮革業などに対する差別意識(賤視)なんてものも、当然、不合理なものだ。だって、彼らが殺してくれた動物の肉を、我々は食っているわけなんだし、それは皮革製品だって同じ。どうして、殺した人は穢れて、食ってる奴は穢れないなんてことになるの? そんなものが、責任転嫁のためのフィクションでしかないのは、あまりにも明らかでしょう」という「理性的判断」が、意外に通用しないのは、何故なのだろうか?
それは「差別意識」というものは、人間の「動物性」に由来する「非理性的防衛機制」であって、それを「理性」の力でねじ伏せられる「人間」は、能力的な問題として、どうしても限定されてしまうからである。
つまり、すべての人が「理性的判断」をできるようにはならない、ということだ。
しかしまた、「部落差別に物理的根拠があるなんてことを本気で考えるなんてのは、一部の、頭の悪い奴だけだ」という理解も正しくない。部落民か否かに関わりなく「頭の悪い奴」は、「一部」ではなく、「大半」だというのが、現実なのだ。
私がよく引用する言葉に、SF作家シオドア・スタージョンの、次のような「格言」がある。
つまり、この伝でいけば、「人間の9割は馬鹿」なのである。言い換えれば「人間の9割は、非理性的」だと言えるのだ。
そして、その何よりの証拠が、「信仰」であり「宗教」の、根強さなのである。
「理性」的に考えれば、「神様仏様など、存在しない」し、「天国や極楽浄土など、存在しない」というのは、多くの人にとっても、明らかな事実であろう。
それらは、言うなれば「幽霊やお化けや妖怪など、存在しない」というのと同程度に「非科学的」な存在であって、そんなものを本気で信じているのであれば、それは「よほど頭が悪い」か、いっそ「頭の病気」なのである。
ところが、超一流の科学者や哲学者と言われる人であっても、「信仰」を持っている人は少なくなく、彼らは、その信仰的信条にかけて「神は存在する」と証言する。そう出来なければ「信仰」ではないし、「信者」ではあり得ないのだから、自己暗示的にでも、本気で、そんな「馬鹿馬鹿しいフィクション」を信じようとし、心頭滅却して、信じることができるのが、「人間」という「動物」なのだ。
だから、人間の「9割が、非科学的な思考の持ち主」であっても、なんら不思議ではないし、9割の人が「部落差別」という「フィクション」を、本気で信じていても、なんら不思議ではないのである。
本作の中でも「部落差別は、政治的に作られたフィクション」だと語られているが、その一方で、その「フィクション」でしかないものが「どうして無くならないのだろう?」と問われてもいる。
しかし、私に言わせれば、「神様だの天国だなどという、明らかなフィクションへの信仰」でさえ無くならないのだから、もっと地味な「部落差別」や「人種差別」が無くならないというのは、むしろ当然のことだ。
客観的に、いかに好ましくないこと、あるいは悪しきことであろうとも、「人間という動物の9割以上」は、確実に「信じたいことを信じるだけの、非理性的存在」なのだから、「宗教」が無くならないように、「差別」もまた、残念ながら、絶対に無くならないのだと、私はそのように考えている。
そして、これは「部落の人」たちだって、「同じ人間」なのだから、まったく同じである。
つまり、「部落の人」の9割もまた、「非理性的」であり「差別意識」を持っている。
比較的そうした「負性」が、彼らには少ないように見えるのは、彼らが「被害者」の立場に置かれることが多く、「加害者」になる機会が少ないからでしかない。
本作の中でも扱われているように、いまだに「ネット上に部落を晒す」ようなことをしている馬鹿な人たちがいるが、彼らの言い分は「部落の奴らは、利権を求めて反差別運動をし、不正な利得を、私たちの血税から盗みとっている」といったようなものだ。そして、その証拠として、いくつかの「同和利権をめぐる不正事件」の実例を挙げる。
このあたりの理屈は、「外国人」だけではなく「同和地区の人」にまで攻撃を仕掛けた、かの「在特会(在日特権を許さない市民の会)」と、まったく同じだといって良いだろう。
要は、「被害者意識」丸出しで、一部の不心得者に注目し(あるいは、視野狭窄になって)「あいつらは、不正な特権を享受している」と大騒ぎしたがる「情けない負け犬」たちと、本質は同じ、だということだ。
しかし、この程度の「証拠」で、「あいつらは不法利得者だ。許せない」などと考えるのは、まったく愚かなことだ。
なぜなら「あらゆる人間の9割は、馬鹿」なのだから、「部落の人」の9割もまた馬鹿であり、清く正しく美しい人の方が少ないのは当然。したがって、そこからも「犯罪者」が出るのは当然なのだ。
むしろ、犯罪者や悪人の出ない方がおかしいのであって、そうした不心得者や馬鹿が出たからといって、それで「部落の人」を「丸ごと差別する」ことが許されるわけないのは、論理的に考えれば、わかりきった話でしかないのである。
そもそも「こんな犯罪者がいるから、奴らはみんな、そういう人種なんだ」という理屈が通用するのなら、「日本人」も「中国人」も「韓国人」も「ドイツ人」も「アメリカ人」も「ロシア人」も、すべて「そういう人種」であり、要は「人間」とは「そういう動物種だ」ということにしかならない。
したがって、他者を、「個人」であれ「グループ」であれ、「丸ごと」否定し差別する、合理的な根拠はない。だから、「差別」は許されないのだ。
だが、その一方で、「差別」は絶対になくならない。「人間」が「人間という動物」であり、「馬鹿が一人もいない」という理想状態の実現が不可能であるかぎり、私たちは「馬鹿」とも、それなりに「共存」していく以外に、道はないのである。
無論これは、「差別」を容認するということではない。
そうではなく、私たちは、人類の滅びる時まで、「人間という動物」の「愚かさ」と対峙し続けるしかない、ということだ。
そして、そこには必ず「理不尽に差別される側」と「理不尽に差別する側」がいて、明らかに、つらい思いをするのは前者であり、その点で「不公平」なのだが、しかし、「完全に公平な社会」が「理想的観念」でしかないかぎり、私たちは「差別のある不公平な社会」の中で、「理不尽に差別される側」に立って、生きていくしかない。
どうして、「理不尽に差別する側」ではなく、あえて「理不尽に差別される側」に立つのかと言えば、それが「理性も持つ人間という動物(つまり霊長類)」の「尊厳」を示す立場だからである。
「人間」が、単なる「動物」ではなく、優れた「知性」を持った動物だと言うのであれば、「非理性的」なものでしかない「差別」意識など、誰も持つはずがないし、選ぶはずもない。そして、そんな「人間の理性や知性」の誇りを持つのであれば、私たちが「理不尽に差別される側」に立つというのは、当然の選択でしかないはずだ。
「差別」との闘いとは、「人間の中の、動物性としての非理性性」との闘いである。
だから、すべての人よ、尊厳のある「人間」として、自他にわたる愚かな「動物性」を撃て!
(2022年5月27日)
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