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「文芸批評」的に読むとこうなる。 : 平田雅彦・平田悠悟 『38万人を診た専門医が教える 自分で痔を治す方法』

書評:平田雅彦・平田悠悟『38万人を診た専門医が教える 自分で痔を治す方法』(アチーブメント出版)

「吾輩は痔である」という、いささかベタなナレーションの入る「痔の薬」のテレビコーマーシャルが、昔あったように記憶する。「痔」というのは、やはり「格好悪い病気」というイメージが強いので、このようなユーモアを交えた表現を採用したのだろう。テレビという公器で、真正面から「痔」という疾病について語るのは、多少なりとも憚られたが故の配慮でなのではないだろうか。
このテレビコマーシャルが、「食事時」にも流されていたか否かまでは、私は知らない。ただ、子供のことだから、面白がって「吾輩は痔である」と、口真似をして喜んでいたのであろう。だから、記憶力がないことには自信のある私でも忘れなかったのであろう。

まあ、そんなことをしていたから、バチが当たったというわけでもなかろうが、還暦を過ぎた後に「痔」になってしまった。
いや、本書によれば、私はすでに、だいぶ以前から何度となく、軽い「痔」になっていたのかもしれないが、自然治癒していたのではないかと思う。排便時の出血なら若い頃にも何度かあったし、それで「切れ痔」を疑って、肛門にメンソレを塗ったりしたこともあったが、それもたいがいは数日で治ったので、そのまま忘れてしまっていたのである。

だが、今回は「痛み」がかなりあったのと、何よりイボのごときものが肛門にできていたので「これはいぼ痔に間違いない」と確信した。これはメンソレを塗っておくだけで消えてしまうようなものではないとそう思い、以前、「痛み」がひどかった時に、一度だけ訪うたことのある、「肛門科」のある病院を、ひさしぶりに訪ねたのである。その病院はすでに、近くに移転して、大きなビルに建て替わっていた。

痔の話をするのは、私のような図太い人間でも、やはり恥ずかしいものである。だから前置きが長くなってしまった点についてはご勘弁願いたい。
「いや、おまえのは、いつだって前置きが長いではないか」と言われそうだが、それは言いっこなしだ。あえて言い訳をするなら、「夏目漱石風に書くとこうなる」ということにでもなろうか。

ともあれ私は、4ヶ月ほど前の「本年8月23日」に『売れっ子作家の仲間入り。』と題する、「痔になったので、病院へ行ってきた」という趣旨の、言うなれば報告記事を書いた。
日頃は「書評」か「映画評」くらいしか書かない私が、こうした「身辺雑記」的なエッセイを書くというのは、きわめて稀なことである。だが、言い換えれば、それくらい「びびった」ということでもあろう。

しかしながら、それでも「痔になったので、病院へ行ってきた」とは書かずに『売れっ子作家の仲間入り。』という、一見して何を書いているのかわからない題名にしたのも、次のような書き出しにしたのも、要は照れからである。私だって、照れるのだ。

夏目漱石正岡子規、あるいは現代の作家だと、澁澤龍彦赤瀬川原平(尾辻克彦)、浅田次郎、マンガ家だと手塚治虫さくらももこ。一一たうたう私は、こうした偉大な作家たちの、仲間入りを果たしてしまつた。』

そんなわけで、私の読者の中には「その後、どうなったの?」と心配してくださっている方もいるかもしれない。
なにしろ、ありがたいことに私の「note」をフォローしてくださっている方が500人以上もいるのだから、その中には、一人や二人はいるのではないかと、そう思いたい。
もちろん、フォロワーだからといって、記事を読んでくれているとは限らないどころか、読んでいない人の方が大半だというのは、重々承知しているから、読んでもらってはいないことに不満をもらすつもりはない。なにしろ私自身、ほとんど他人の「note」は読まないからだ。その暇があったら、本を読み、映画を観て、レビューを書いている。
また、実際のところ、私の記事を継続的に読んでくれている人は、せいぜい10人程度なのではないかという感触もある。それでも十分にありがたいことだ(合掌)。

だから、その10人ほどの中には、一人くらいは「その後、どうなったの?」と心配してくださっている方もいるかもしれない。そう思いたい。だが、たぶんいないだろう。「そういうものだ」カート・ヴォネガット)。

「まだ前置きが続くのか?」と言われそうだが、こうしたエッセイを書くのもひさしぶりなのだから、こうした折にしか書けない寄り道を、どうかおゆるしいただきたい。

「いや、いつも寄り道しているじゃないか」と、そうおっしゃる方もいるかもしれないが、それとこれとは「また別の話」なのだ。
どう別なのかというと、これは「評論ではなくエッセイ」だからで、「論理的な説明」は馴染まないので、くだくだしい説明はしない。

一一とこう書いて、この記事が、もともとは「書評」として書こうと思っていたという事実を失念していたことに、いま気がついた。前振りを書いているうちに、すっかり「エッセイ」気分になっていたのだ。
仕方がない、ここは潔く軌道修正して、書評を書きたいと思う。

 ○ ○ ○

紀伊国屋書店の大阪本店で、新刊をチェックしていたところ、本書が目に飛び込んできた。なにしろ、この表紙であるから、いやでも目についたのである。
本書は、2018年に元版の単行本が刊行され、このたび文庫版に改版されたものである。装丁は、と言うか、表紙は、ほとんどそのままのようだ。

「嘘のサンパチ」という言葉があるが、統計学的には当たっていないらしい

さて、私のその後の状況だが、最初に診察してもらいに行った際に処方された薬で、痛みはすっかり消えてしまった。だが、内から外に出ていたのか、外にできたのか、私自身はいまだによくわかっていない「いぼ痔」については、まだ小豆大のものが一つ残っているので、薬が切れた段階で、通院して薬をもらうというのを続けている。
最初は1ヶ月して通院して、また1ヶ月分の薬を処方されたが、3度目の通院の際は、1ヶ月後が11月の北海道旅行に重なりそうだったので事情を話すと、2ヶ月分の薬を処方された。そして4回目の通院の前回も2ヶ月分の薬をもらって、それを服用している段階である。
「服用」と書いたが、薬は「飲み薬の錠剤」と、お尻に注入する、ホテルなどに置かれている使い捨て「練り歯磨き」大のチューブ様の「坐薬」である。

「錠剤」の方は、朝昼晩の1日3回、「坐薬」の方は朝と晩の2回ということになっているが、これがなかなか守れない。
私はもともと、夜更かしの朝寝坊なので、朝食を抜くことが多いから、「食後すぐ」と言われているわけでもないのに、「朝昼晩」と言われると「食後」という印象に囚われてしまい、その結果、昼と晩しか服用しないということになってしまっている。
また、「坐薬」の方も、ウンチをしてスッキリしてから「入れたい」という気持ちがあって、どうしても一日1回程度になってしまう。これでは回復が多少遅れるのも致し方ないのだが、ひとまず「痛み」がないから、この調子なのだ。人間とは、実に弱いものである。

閑話休題。そんなわけで、なんとなくまあ順調にいっているような感じのその後なのだが、書店で本書をみかけて「ブックオフオンラインに入ったら、読んでみよう」と思い、今回読むことになった。「ありがとう、楽楽明細」ではなく、「ありがとう、ブックオフオンライン」である。

もちろん、すでに通院治療を受けている私なので、本書のタイトルのように『自分で痔を治す』必要はない。ただ、帯に書かれている、次の惹句に興味を持ったのである。

『 「痔は切らなきゃ治らない」はウソ! 痔の9割は切らずに治せる! 痛みも出血もなくなる!』
『 自宅でできるセルフケア』

すでに通院しているとはいえ、自分でできることがあるのであれば、「基礎知識」的なものを「心掛け」として持っておいても損はないだろう。「すぐに読めそうだし」と思ったのだ。一一で、事実そのとおりであった。

本書で語られているのは、要は「痔は、生活習慣病。それさえ改めれば、たいがいの痔は自然治癒するものだから、その方法を伝授します」というものである。

で、その方法が「マンガ」を含めて、とてもわかりやすく平易に語られている。しかも、同じ内容が、マンガも含めると、3回ほど語られていて、「繰り返しが多い」と不満を漏らすことも可能だが、まあ、しっかりと刷り込まれるので、これはこれで良いのではないかと思う。小説や批評書などとは違い、「新たに面白いもの」を提供することが目的ではないからである。

そんなわけで、当初の期待どおり、「痔にならないため」の知識や、「痔になったら、何を心がけるか、どう対処すべきか」という「基礎的な知識」を得ることができた。これで、ひとまず満足できたのである。

ただし、不満がないかと言えば、そうとまでは言えない。どういうことかと言うと、要は、本書の趣旨とは「生活習慣を改めれば、痔は治るし、痔にもならない」ということなのだが、その「正しい生活習慣」を身につけるというのが、そう簡単ではなさそうだからである。

「こうすれば治りますよ」というのは、言い換えれば「この通りにやらないのなら治りません」ということであり「治らないのは、あなた自身が悪いのであり、この本の責任ではありません」と言われているも同然だからだ。

たしかに「お説ごもっとも」ではあるものの、「生活習慣を変える」というのは、そう簡単なことではない。そもそも、その「痔」に至る「好ましくない生活習慣」を持っていたのは、そうした生活が「好きだ」とか、「そうせざるを得ない環境にあった」からとかいったことがあるからだ。したがって、それを変えるのは、決して容易なことでないのは明らかであり、「そんなことを言ってたら、結局は、病院へ行って、治療を受けるしかありません」ということなら、結局は「通院せずに、自分で痔を治す」なんてことは、できないに等しい、ということになるのではないだろうか。

例えば、「毎日、これくらいの運動メニューをのこなせば、あなたもスリムになれる」と言われても、そのとおりに出来るのなら、誰も苦労はしない。それができないからこそ、どうすれば良いかと、こんな本を読んでみたりするわけだが、そこで「無理なメニューは要求しません。それは結局続きませんからね。だから、まずはこうしたことから始めましょう」と言われたところで、その「簡単なメニュー」がやっぱり続かないというのは、「30秒体操」の類ですら続かないという経験がある者には、わかりきった話でしかないのである。

ちなみに私は、退職したらやろうと思っていたウォーキングが、夏になり暑くなったので続かなかった。早起きはできないし、夕方時分は私の書斎活動時なので、外に出る気がしない。しかし、これではダメだと、気候が良くなってウォーキングを再開したものの、それも数ヶ月で辞めてしまった。「そういうものだ」。

前述のとおり、もらった薬だって、なかなか決められたとおりには飲めない。これは、医者の方でもわかっているようで、薬局で薬をもらう際に、「薬は残っていませんか?」と訊かれることがある。
睡眠薬なんかだと事故防止のために「貯め込まれると困る」ということで尋ねるのかもしれないが、私がもらっているような薬は、そんな悪用目的で貯め込むようなものではないから、やっぱり、決められたとおりには服用できない人が少ないくないということなのだろう。ことほど左様に、人間は弱いのだ。理想どおりにはいかないのである。

だから、本書に書かれていることを、「知識」として持っていて損にはならないけれど、ここに書かれているとおりにいかないだろうというのも、ほぼ間違いない。
本書には「成功事例」ばかりが紹介されているが、その陰には、山のような「挫折失敗事例」があるというのは、ほぼ間違いのないところだろう。だが、そこには触れられていない。「指示どおりにやっていただけないのであれば、それは当方の責任ではありませんから」ということなのだろうが、現実問題として、釈然としないというのも事実である。

本書を読んでいて気になったのは、他の「痔の治療法」や「医師」への批判が多い、ということ。それから「自慢話」に類することが多い。

なにしろ「うちは、切らずに治しますよ」というのが「売り」なのだから、当たり前に「切る」医師は「安直」であり「信用ならない」という話になっている。
「切らなくても治せるものを、安易に切るのは、儲けばかりを考えているか、勉強していない、考えの古い医師だ」という調子になっている。「その点、うちは最新技術に目配りして、それも必要な時にはやれますが、それ以外は、切らずに治しますよ」という話になっている。

たしかに「切らずに治せる」と言われれば安心だし、「安直に切るべきではない」「最新技術を学ばないような医師はダメだ」というのも「一理ある」とは思うものの、「私の生活改善の指示程度のことが守れない人は、治らなくても仕方がない。それは当方の責任ではない」というのが「暗黙の大前提」になった「正論」による「他者批判」は、いまいち信用がならない。

おっしゃるとおりにすれば治るというのは確かなのだろうが、そうはいかない場合も多いから、「即時対応」的な医師の存在も必要なのではないのか。
本書の著者がいうことが正しいとなると、どうしても生活習慣を改められない人は「自業自得なんだから、せいぜい悪くなってから、そうしたありきたりの医師の、ありきたりな治療を受ければ良い」ということになるのだろうか。そうは言わないとしても、そういうことになってしまっているのではないか。だから、信用しきれない。

私が、前のエッセイ『売れっ子作家の仲間入り。』で紹介した、「ジオン(ALTA)注射による治療」という、最新の治療法がある。これは「痔核」に薬剤を注射して、血流を止めて腫れを引かせるという方法なのだが、この治療法について、私は、次のように書いた。

『「ジオン(ALTA)注射による治療法」というそうなのだが、「痔核」に薬が満遍なく行き渡るように、「痔核」一つ当たり4回も注射をするという。麻酔をするから、痛くないそうではあるが、私の場合は3つあるから、全部それでやったら、12回も注射されることになるのだから、ゾッとする。この療法は、1日の経過入院で済むそうだが、できれば、そうはなりたくないものである。』

本書によると、この知恵療法は、ほとんど施術時の痛みはなく、その日だけ安静にしておけば、翌日からは普通の生活ができると書いてあったから、その意味では安心させられた。一一しかしまた、次のようにも書かれていたのだ。

『 ところで「ALTA療法(ジオン注)」という注射療法を聞いたことがある方は多いと思います。注射を用いた内寿核の治療法ですが、この方法はアルミニウムを、厚生労働省が推奨する1日の安全基準量のなんと1600倍の量を核に注入します。日本国内や中国で広く行われていますが、アメリカやヨーロッパでは許可されていません。
 重金属のアルミニウムは、脳へダメージを与えると言われています。患者さんの20年後、30年後の未来を考えて、当院では採用をしていません。』(P114)

このように書かれているのを読めば、この治療法を受けようなどと思う人は、まずいないだろう。
この治療法は、これほど「危険」なものなのに、こんなものを採用してしている「悪徳医師」が、日本にはそんなに大勢いるのだろうかと、そう疑問に思って「ALTA療法 デメリット」と検索してみると次のような「説明」文が出てきた。

『治療後の注意点 ALTA(ジオン)によって、痛みが続く、出血がある、肛門が狭くなって排便がしづらくなる、熱が出る、などの副作用が現れることがあります。 そのため、定期的に通院していただく必要があります。 普段と違い、気になる症状が現れた場合には、直ちに受診して下さい。』

「ALTA(ジオン):痔核硬化療法」「治療後の注意点」

たしかに「副作用」がある場合もあるようだが、この程度のことなら、どんな注射治療にだってあることで、本書の伝える「脅迫的」なそれとは、相当の開きがある。

で、同じ検索ページには、この治療法を採用している病院のウェブサイトへのリンクがあったので、そちらチェックしてみた。
どういう「言い分」なのだろうか、ということである。

「切らずに治す!痔の日帰り手術「ALTA療法」」(神宮の杜 よこやまクリニック)

「ジオン注射(ALTA療法)|切らずに治すいぼ痔の日帰り手術は ...」(自由が丘消化器・内視鏡クリニック)

以上は、たくさんあるリンクの「上位2つ」であるが、両者に共通するのは「切らずに日帰り手術」という「お手軽さ」にあると言って良いだろう。
しかし、そのウェブサイトでの「説明」を、ざっと読んでみても『この方法はアルミニウムを、厚生労働省が推奨する1日の安全基準量のなんと1600倍の量を核に注入します。日本国内や中国で広く行われていますが、アメリカやヨーロッパでは許可されていません。/重金属のアルミニウムは、脳へダメージを与えると言われています。患者さんの20年後、30年後の未来を考えて、当院では採用をしていません。』などという「恐ろしげ」な記述は見当たらない。
隠しているのだろうか? それとも、それほど重大な問題ではない(そんな大袈裟な話ではない)と思って、説明していないだけなのだろうか?

私自身は、医者でも何でもないから、どちらが正しいという判断はできない。しかし、これほどかけ離れた意見が、それぞれ別々に語られており、私たち素人は、そうした「一面的な情報や意見」だけを聞かされて、判断させられているのだとしたら、これは恐ろしいことなのではないだろうか。

本書でも「すぐに、切りましょうなどと言われたら、即断せずに、セカンドオピニオンにかかってみるべきです」みたいなことが書かれていたが、セカンドオピニオンの判断が必ず正しいという保証など、どこにもない。

ただ、私たちは「切りましょう」と言われるのと、「切らないで良いですよ」と言われるのでは、間違いなく後者を選らぶだろう。その方が安心できるからなのだが、だからと言って、それで後者の意見が正しいという保証など、どこにもないのである。

そんなわけで、本書の中心的な主張である「切らなくても治せる」「すぐに切ろうというような病院は、信用すべきではない」つまり「うちを信用すべきだ」という主張は、鵜呑みにできるものではないのではないだろうか。それは単に「耳障りの良い話」だから、私たちはつい、こうした意見に傾きがちだ、というだけの話なのではないだろうか。

本書では「感謝の言葉が多く寄せられています」とか「すでに完治した人が、顔をみせたりするので、どうしたのと尋ねると、たまに先生に診てもらった方が安心だし、という返事が返ってきたりすることもある」などという、ほとんど「自慢話」でしかないことが書かれていたりする。
あと、「文庫版新章」として「腸内細菌叢」の話が付け加えられているのだが、ここだけが、素人には不親切すぎるとしか思えないほど、専門用語の並んだ、浮いた記述であり、ここも「私は(本書著者)も、書こうと思えば、こんな医学書みたいなことも書けるんだよ」と誇示して見せているかのようで、いかにも不自然。おなじことを、もっと平易に書けたはずなのだ。

もちろん、本書の目的は「切らずに痔を治す方法」の紹介であるのと同時に、「いざという時は、当院へどうぞ」という趣旨の「宣伝」でもあるのだから、少々の「自慢話」は、致し方のないところなのだろう。

だが、「文学趣味の本読み」である私は、その文章に「書き手の人柄」を読み取らずにはいられない。
「優しげだから、良い人だ」などという「詐欺被害者」レベルの「読み」では満足できず、この「患者第一」だと声高に語っているがごとき著者の「人柄」についても、それをそのまま鵜呑みにすることはできない。

そして思うのだ。「医師であれ、一般人であれ、臆面もなく自慢話を垂れ流し、その一方で、過剰に人の〝悪口〟をいうような人間は、信用できない。こいつには、裏の顔があると見て良い」と。

本書の版元は「アチーブメント出版」という、聞いたこともない出版社である。たぶん、こうした「自費出版」系の本を刊行している出版社なのであろう。

で、この出版社名である「アチーブメント」という言葉の意味が、語学の苦手な私にはわからなかったので、これも「アチーブメント 意味」でネット検索をしてみると、真っ先にヒットしたのが、次のような説明であった。

achievement
名詞 /əˈtʃivmənt/
複数形achievements

達成,成就;業績,偉業
achievement of 〜 by 〜〗 〜による〜の達成
(※ 用例)
He is always boasting of his achievements.
彼はいつも自分の業績を自慢してばかりいる。
His academic achievements are impressive.
彼の学問的な業績には感銘を与えるものがある。』

つまり「達成出版」ということで、この種の「ノウハウ本」を中心に出版しているのであろうが、この種の「達成」には、『自慢してばかりいる』という属性がついて回るのだとすれば、何とも皮肉なことだ。漱石の『坊っちゃん』冒頭の、

『親譲りの無鉄砲で子供の時から損ばかりしている。』

ならまだしもと、そう思った次第である。

今回は、『吾輩は痔である』ではなく、痔の『それから』と題すべき話となった。
次回が『門』になる可能性も、あながち否定はできない。


(※ 上の単行本版の方では、カスタマーレビューもそこそこ寄せられている)

(2023年12月19日)

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