書評:ジェニファー・ラトナー・ローゼンハーゲン『アメリカのニーチェ ある偶像をめぐる物語』(法政大学出版局)
アメリカでのニーチェの受容史であり、そこに表れたアメリカの精神史というのが、本書の大まかな内容だが、私はニーチェに詳しいわけでもアメリカに詳しいわけでもないので、個人的に面白かった部分について書かせていただく。
本書で描かれるのは、ニーチェがそれぞれの読者にとってのニーチェであり、その意味で彼らが描くニーチェは、それが哲学者のものであれ一般読者のものではあれ、「偶像」でしかありえない、という事実だろう。どんなに詳しくニーチェを読んでも「ニーチェそのもの(なるもの)」が理解できるわけではない。
理解できるのは、ニーチェのテキストを通して見た、なにか(自分や自国など)なのである。しかしまた、そこで理解されたもの(自分や自国など)もまた「偶像」でしかないのだが、それを承知で探求し続けるのが「哲学」という営為なのではないか。そして、そうした態度こそが、「思想」の受容なのではないか。
本書でも繰り返し語られるように「ニーチェの反基礎付け主義」ということを真面目に受け取るならば、「神」の代わりに「偶像」を立てて「はい、おしまい」というのでは、あまりにも反ニーチェであり、反哲学的であろう。しかし、まったく「偶像」なしに済ませること(思考すること)も出来ないので、過渡的な「道具としての偶像」を、それと承知で利用しなければならないのでもあろう。
しかし、そもそも哲学を齧る人間の多くは、「偶像の権威」が欲しくて哲学に接近するのであって、自ら考えるために哲学する人なんてのは、本当はごく稀なようにも思う。
哲学というのは、誰にでも勉強することは出来ても、哲学することは誰にでも出来ることではないようだ。だから、私も「偶像」を欲せず、「偶像」に囚われないように自戒しなくてはならないと思う。
まったく他人事ではない。
初出:2019年10月31日「Amazonレビュー」
(2021年10月15日、管理者により削除)
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