北村紗衣 ・ 宇崎ちゃんは遊びたい! ・ 献血PRポスター炎上騒動 ・ 生物人類学(上)
書評:丈『宇崎ちゃんは遊びたい!』(全12巻の第1〜3巻・KADOKAWA)
北村紗衣を語る上で、知っておきたいこととして今回とり上げるには、少年マンガ『宇崎ちゃんは遊びたい!』とコラボした「日本赤十字社による献血PRポスター」炎上騒動である。
このポスターは、大きく次の2つの点で問題とされた。
(1)「ことさらに乳房の大きさが強調された女性のイラスト」は「性的な表現」であり、それを見せられた女性に不快感を与えるものとして、公共の場所での掲示物としては不適切。
(2)このイラストに添えられた「宇崎ちゃんのセリフ」である『センパイ! まだ献血未経験なんスか? ひょっとして……注射が怖いんスか?』は、献血をしないことが「度胸のなさ」を示すかのような、挑発的な表現となっており、そのことで献血を煽るような内容となっている。だが、献血とは、あくまでも善意と自由意志において行われるべきもので、この表現は、献血というものの趣旨に反しており、不適切である。
この2点において、ほとんどの場合に問題になったのは、もちろん(1)の方である。
というのも、(2)について言えば、たしかに吹き出しの中の「宇崎ちゃんのセリフ」は、この漫画作品(以下「原作」等と表記)を読んでいない大半の人たちには、献血しないのを馬鹿にしたものとしか感じられないからである。だからこそ(2)のような批判も出たのだ。
そんなわけで、まずは問題点として比較的わかりやすい(2)の方から片づけていこう。
結論から言えば、たしかにこの「セリフ」はマズかった(不適切であった)。
「不愉快だ」「余計なお世話だ」といった反発を招くのも当然の、ことさらに「挑発的な文言」だったのだから、「怒る」人が出てくるのは「当然の結果」だったのである。
では、なんでわざわざこんなセリフにしたのかといえば、それは、原作における「宇崎ちゃん」の性格設定が、そのようなものだったからである。
宇崎ちゃんというキャラクターは、「センパイ」と呼んでいる、一つ年上の男子大学生である桜井真一を、挑発的にからかうのが趣味の、少々子供っぽいところのある女の子なのだ(巨乳だが、小学生と間違われるほど、背が低いという設定に注意)。
では、どうして、宇崎ちゃんはセンパイをからかうのかといえば、それは無論「好きだから」である。
つまり、この手のラブコメの定番である「好きだから、かまいたい」「好きだから、からかいたい」「からかわれて怒る様子が、可愛くてならない」ということなのだ。
また、それでいて、これも定番なのだが、宇崎ちゃんは「自分が、センパイのことを好きだ(恋愛感情を抱いている)ということに、あまり自覚的ではない」のだ。「先輩が、いつも(独り)ボッチで可哀想だから、私が遊んであげるのだ」と、そう思っているのである(しかし、センパイである桜井は、単に一人が好きなだけなのだが、宇崎ちゃんはそれを理解できない)。
では、どうして「独りぼっちで可哀想なセンパイ」をかまうのに、ことさらに「挑発的な態度」を採るのかといえば、前述のとおり「可愛くってたまらないから、ついついからかってしまう」「怒った顔が可愛くてたまらない」という、「小学生男子の、好きな女の子に対する典型的な態度」として昔から知られた、それでしかない。
それが、今の女性上位(?)の時代においては、当たり前に「男女の立場が逆転している」に過ぎないのだ(また、読者である男子も、少々マゾっぽくなっているのかも知らない)。
「強い男の子」が「弱い女の子」をからかえば、たとえそれが「好意」に発するものだとしても、結果としては「イジメ」になってしまう。
そこには、「男女間における生物学的な身体能力の差」があるからだ。要は「男の方が腕力があり、喧嘩になれば女性に勝ち目はない」からである。
したがって、たとえ「男の子」の動機が「好意」に発するものだとしても、「女の子」の側が嫌だと思うなら、それを拒絶する権利は当然あるのだが、「腕力差」があるために、その「嫌がらせ」を甘受しなくてはならない状態に置かれてしまいがち(であり、男の子は鈍感だから、その女の子が、どれだけ嫌がっているかを察せられず、自身の感情のままに行動してしまいがち)なのである。
だから今では「男の子が女の子をからかって、いじめる」というのは「動機」がどうあれ、大目に見られることではなくなったのだ。
そんなわけで、当該ポスターにおける「宇崎ちゃんのセリフ」は、原作マンガを読んでいる人には「好意から出た挑発」だということがわかるので、それに腹を立てることもないのだが、しかし、このポスターを見る人の多くは、原作を読んでいない人たちなのだから、そこまで「察することは不可能」であり、したがって、このセリフを額面どおりに受け取って、腹を立てるのも当然なのである。
つまり、「献血PRポスター」に『宇崎ちゃんは遊びたい!』を採用しようと考えた(たぶん、日本赤十字社側の)関係者は、たぶん原作マンガを読んでおり、『宇崎ちゃんは遊びたい!』がヒット作品だとも知っていたから、これを使おうと思ったのだろうし、宇崎ちゃんをイメージキャラクターとして使うからには、単に「センパイも、献血をお願いします!」では、せっかくのキャラクターが生かされず、面白くもおかしくもないから、つい「宇崎ちゃんらしい」セリフにしてしまった、ということなのであろう。
喩えて言うなら、『機動戦士ガンダム』ファンの高齢男性が、自社の車のコマーシャルに同作の人気キャラクターであるシャア・アズナブルを使おうと思いついて、シャア役の声優である池田秀一に、本編での名セリフのもじりとして、
などと言わせるのと、似たような感覚だったのであろう。
それを採用した当人は「原作」を知っているから、その「もじり」が面白いと思ったのだろうが、『機動戦士ガンダム』を知らない人には「なにこれ?」だし、知っている同年代であっても、しばしば「サブいよ、それ」ということになるのと、同じようなことなのだ。
つまり、当人に悪気はなくても、自分とは常識や感性を異にする人が見たら(聞いたら)どう思うかという想像を、十分に働かせることができなかったのである。
無論、シャアの場合なら「何これ?」「サブい」で済むのだが、宇崎ちゃんの場合は「何なの? この上から目線の物言いは」ということになってしまった。
これも喩えて言えば、同じ『機動戦士ガンダム』における「名セリフ」であっても、シャアの妹である、セイラ・マス(アルテイシア・ソム・ダイクン)の、男性キャラクターであるカイ・シデンに対する(ビンタを伴う)、
を、今どきのテレビコマーシャルに使ったら、「いや、軟弱だからよろしくないというのに、男も女も(性別は関係)ないだろう。まして暴力を振るうなど」という批判が出かねないのと、同じことなのである。
つまり「宇崎ちゃん献血PRポスター」における「宇崎ちゃんのセリフ」の問題点は、制作者側に「悪気はなかった(楽しんでもらえるだろうと思ってやった)のだろうけれど、自分とは同じ条件には立たない、いろんな人がいる」という現実への「想像力」を欠いたがための、「配慮不足」だったのである。
そんなわけで、漫画『宇崎ちゃんは遊びたい!』の場合は、上の「男の子が、好きな女の子を(可愛いと思うから)いじめる」というのの男女逆転パターンであり、「悪気のない(愛ある)からかい」だったのだが、一一さて、その同じ行為ではあっても、「女の子が、好きな男の子を(可愛いから)いじめる」のならば、それは許されることなのだろうか?
もちろん、原則としては「女性が男性をいじめる」のも「いじめ」である点において、そこに「愛」があろうと、原則的には「許されない」。
したがって、「武蔵大学の教授」でフェミニストの北村紗衣が、「弱者としての女性」であるというのを(自己正当化の)理由として、男性をいじめることも、原則としては許されない。
一一しかし、現実には、北村紗衣は、男性ばかりではないとしても、主として多くの男性をいじめてきたというのは、周知の事実である。
その目立った事例が、
(1)歴史学者・呉座勇一に対する「オープンレター『女性差別的な文化を脱するために』」を主導して、賛同署名者千数百名の名を連ねた袋叩きによって、呉座の職まで奪った「キャンセル」行為。
(2)呉座の件に関して「Twitter(現X)」上で北村紗衣を徹底批判した、大学講師・山内雁琳について、山内の勤務先である大学に苦情申立てをすることでその職を奪うには止まらず、さらに、その言葉尻を捉えての名誉毀損の賠償裁判(スラップ裁判)によって、二百数十万円もの賠償金を支払わせた。
というものがある。
だが、無論これだけではない。
北村紗衣は、こうした「成功体験」によって、自身の意にそわぬ者を恫喝することが習慣化してしまい、Twitter上においては、自身の意見を批判したりする者に対し、男性には「ミソジニーだ」、女性には「匿名で卑怯だ」云々と言って、自身の「評価の是非」を議論するのではなく、もっぱら相手の「属性」ばかりを問題として、「発信者情報開示請求」によって身元を特定するとしたり、その上での訴訟の提起をにおわせることで、相手を黙らせるという「脅し」を、さんざん繰り返してきたのである。
例えば、ほんの4か月前に、初めて北村紗衣の存在を知った私ですら、私自身がたまたま関わってしまった「アメリカン・ニューシネマ論争」(あるいは、別名『ダーティハリー』論争)において、次のような事実を確認している。
(1) 須藤にわか氏が、北村紗衣の「アメリカン・ニューシネマ」の定義を批判したネット記事に関し、その「タイトルと内容を書き換えさせられた」。
(※ 下が書き換えられた後の「改訂版」)
(2) 同じく、北村紗衣の『ダーティハリー』評価に異を唱えた、「映画評論家」「某映画館の公式アカウント」「牧師」などを、前記のような手口で批判して「黙らせた」。
(3) (1)の須藤氏の記事を支持するコメントを、同記事のコメント欄に書き込み、「北村紗衣の定義は、バカ丸出し。今度、北村紗衣の著書を買って読み、なますに切り刻んでやろうかな」という趣旨のことを書いた私(年間読書人)について、北村紗衣は、この須藤氏の記事が掲載されたSNS「note」の管理者に対し「年間読書人という人が、私(北村紗衣)の本を切り刻むという、不適切なコメントを書き込んでいるから、その(須藤氏の)記事を閲覧禁止にすべき」だと管理者通報したりした(このために須藤氏は、北村紗衣の意にそうように、記事を書き変えざるを得なかった)。
(4) (3)に関する、北村紗衣の「反論批判なき管理者通報」を「言論否定」だとして批判した私の記事「北村紗衣という「ひと」:「男みたいな女」と言う場合の「女」とは、 フェミニズムが言うところの「女」なのか?」についても、北村紗衣はまたもや「管理者通報」によって、これを「管理者権限による閲覧停止」にさせた。
こんな具合である。
つまり、「アメリカン・ニューシネマ論争」においてさえ、北村紗衣に「黙らされた人」は5人を下らないはずだし、私自身は、北村紗衣の脅し文句である「発信者情報開示請求」も上等だ、「民事訴訟」もやれるならやってみろという態度で、北村紗衣に「議論から逃げるな」と迫ったために、北村紗衣も、私に対しては一言も批判反論はしないまま、「管理者通報」という「管理権力」を利用することで、物理的に私を黙らそうとしたのである。
このようなわけで、北村紗衣は、定年退職後の無職者で生活にも困っていないという、私という「(社会的に)キャンセルしずらい立場の人間」を相手にしてしまったがために、初めて「問答無用の乱暴狼藉」が、やりにくくなってしまった。
無論、それまでにも、歴史学者の与那覇潤のように、北村紗衣を批判しながら裁判に訴えられなかった者もいるが、それでも与那覇が、ことさらに「言葉選びに配意しなければならなかった」だろうことは、容易に推察できるところなのである。
つまり、北村紗衣とは、批判するにしても、「女性差別だ」「名誉毀損だ」と言わせないように、ことさら言葉に気を遣いながら批判しなければならない、言うなれば「特別に面倒くさい批評対象」だったのだ。
だから、多くの人は「何もそこまでして、自分が北村紗衣批判をしなくても」と、賢くそれを避け、あえて「火中の栗を拾う」ようなことはしなかったのである。
そしてその結果、北村紗衣をすっかり増長させてしまい、「ネットの女王様」気取りで、野放しのやりたい放題を許してしまったのだ。
北村紗衣としては、私や与那覇潤のような「やりにくい相手」は、徹底的に無視黙殺し、「匿名」などの弱みのある相手には、徹底的に上から「否定的に決めつけて、黙られる」ことで、その「権力欲」を満たしてきたのである。
で、そんな北村紗衣が、最も「調子に乗っていた時期」における事件のひとつが、この「宇崎ちゃん献血PRポスター騒動」だったのだ。
本件は「2019年後半」のことであり、北村紗衣が今とは違って、30代後半の若くて元気な盛りの頃の話であり、同時に、
・「東京大学関係教員有志による東京大学三浦俊彦教授への声明」(2019年5月)
に署名して加担した直後でもある。
この「声明」や、「宇崎ちゃん献血PRポスター騒動」での経験、および、それを通しての「フェミニズム関連人脈の形成」が、2021年の呉座勇一に関わる、
へと発展していくのである。
実際、「宇崎ちゃん献血PRポスター騒動」のきっかけを作った、弁護士の太田啓子は、
なのである。(※ 原告とは、北村紗衣らのことだ)
そもそも、この「宇崎ちゃん献血PRポスター騒動」は、北村紗衣が火をつけたものではなく、この太田啓子弁護士が、当該ポスターについて、
とツイートし、さらに、
という賛同のツイートを受けて、
とやったことに始まるものなのだ。
そして、この点については、同じく弁護士の吉峯耕平が、
と批判したことに始まる「論争」において、太田啓子の日本赤十字社批判が「法的根拠の無い」批判、つまり、弁護士として発言していることから、いかにも「法的根拠のある批判」のように見えるけれども、実際にはそうではなく、所詮は「個人的な価値観の表明」でしかなく、その意味では「なんら法的拘束力も持たない、私見」でしかない、ということが明らかにされた。
要は、吉峯は「そのように感じる女性もいるだろうが、別にあれはあれで法的に許された範囲内でのものでしかなく、それにあれこれ言うのは、勝手ではあれ、大きなお世話でしかない」のだと批判したのであり、その上で吉峯も認めるとおり、「宇崎ちゃん献血PRポスター」は、「宇崎ちゃんのセリフ」において、公衆に無用の不快を与えるもの、つまり(1)の点では反省すべき点もあったが、(2)の点では「法の許容範囲内の自由」を行使したものに過ぎないと、太田啓子が問題とした論点(1)に関わる批判を「弁護士らしからぬ、倫理観の押しつけ的感想に過ぎない」と否定して、おおよそのところ、この論戦の決着もついたのである。
「宇崎ちゃん献血PRポスター」が、(1)の論点における太田啓子の批判として世間を騒がせることになったのは、アメリカにおけるそれまでの「#MeToo」運動の結果として、ハリウッドの大物プロデューサーであったハーヴェイ・ワインスタインが2017年に逮捕され、その社会的地位を失うという、ハッキリとした成果を生んだからであろう。
そうした成果を受けて、「#MeToo」運動の流れを汲む「インターネット上におけるフェミニズム言論」が活発化して、それまでとは一線を画するものとして、それは「フェミニズム第4波」と呼ばれるようにもなったのだ。
そして、こうした「ネット告発型」の「セクハラ批判」が広範な広がりを見せる中で、「男性目線による、女性をモデルにした、性的表現を含む広告類」が、次々を告発断罪され、それで広告主が謝罪・広告の撤回に追い込まれるという事態を、いくつも惹起したのである。
つまり、「そのように女性への配慮を欠いていると、ハーヴェイ・ワインスタインのようにキャンセルされるぞ」という、女性からの「社会的圧力」が最高潮に達していたのがこの時期であり、これに対して「表現の自由」を盾に抵抗しようとした表現者の多くも、大半は「時勢」には抗いきれず、不本意な沈黙を強いられることになったのである。
で、そんな2019年に、北村紗衣は、次のように、後から登場してきた。
このように、「宇崎ちゃん献血PRポスター」騒動を蒸し返すことで、「フェミニスト」としての自身の存在感をアピールしようとしたのだろうが、ここでも、弁護士の吉峯耕平が、太田啓子弁護士にしたのと同様の説明をしたところ、北村紗衣は、
と反論して、要は「法的論議ではなく、社会的責任や倫理の話をしているのだ」と主張したのだが、結局は、
等と、北村紗衣は、吉峯から、自身の議論の論理的な矛盾を突かれる結果となっていったようだ。
そして、こうしたやりとりを紹介した「togetter」の「まとめ記事」でも指摘されているとおり、北村紗衣は、この論争後に、自身の関連ツイートログを「削除」しており、要は「証拠隠滅」を図っている。
つまり、この事実からも分かるとおり、北村紗衣は、吉峯耕平との議論に敗れたとそう自覚してもいる、と言えるのだ。
だが、私にとっての問題は、両者の議論における、勝った負けたではない。
こうしたやりとりの「まとめ記事」のタイトルが、いみじくも、
・saebou先生の反倫理的な「すごく高い倫理」と献血における倫理/安全性
と題されているとおり、北村紗衣の主張で注目すべきなのは、北村が、
「法的には許容の範囲内だとしても、日本赤十字社には公的機関と同様の社会的責任と、それに伴う高度な倫理が求められて然るべきなのではないか」
という趣旨の、いかにももっともらしい「正論」を語っていた点でなのである。
たしかに、吉峯の指摘どおりで、日本赤十字社に対し、太田啓子や北村紗衣の望むような、高度な倫理観を「強制する法的根拠はない」から「強制することはできない」のだが、しかし、日本赤十字社にあっても、可能であれば「法的に求められている以上の高い倫理観を、自ら引き受けてほしい」と要望するだけなら、まんざら出来ない話でもないし、わからない話でもない、と言えるだろう。
だから、「そうなさってはいかがですか、日本赤十字社さん?」と「提案」するのは一向にかまわないのだが、太田啓子弁護士や北村紗衣らフェミニスト連の問題点は、そのような礼儀にかなった「提案」ではなく、「女性が不快に思うのだから、そんなものを表に出さないように配慮するのは当然だ」という、上から目線の「強要(無理強い)」のような物言いだった点で、そこが大いに問題ありだったのである。
しかし、この点も、私個人にとっては、こんな「礼儀知らず」な輩には、なにを言っても詮なきことだから、今更それを言う気もない問題でしかない。一一したがって、私がここで言いたいのは、
「他人にそこまで要求するからには、自分は、それ以上の倫理観に立った、言動をするのだよな? 武蔵大学の教授先生」
ということである。
よって、北村紗衣は、「普通の大学教授以上の倫理」を保持し、その「社会的地位」に相応しい「品格ある言動」をしなければならない「責任がある」と、そう言いたいし、言えるのだ。
だから、北村紗衣が、
などと言うのは、求められて然るべき倫理からして「不適切」だし、その言行不一致を責められもすべきであろう。
また、私が紹介した「氏名不詳の女」の、『映画秘宝』誌に対する「悪口」としての、
といったような「下品な物言い(ツイート)」も、絶対に許されない。
私は、この「氏名不詳の女」が、北村紗衣その人ではないかと睨んでいるのだが、今のところ、その確たる証拠はないから、そうは断定しないものの、少なくとも現段階では、北村紗衣の方からも、「それは私ではない。かってなことを書くな」という苦情を受けてはいない。
須藤にわか氏に対しては「私は、シェイクスピアの研究者であって、インフルエンサーではない」という「インフルエンサーという言葉の定義」次第で、決して間違いにはならない須藤氏の表現にまで注文をつけた、小うるさい女(「女」ですよね?)にしては、この『映画秘宝』の件については、私に対し何も言ってこないのは、いかにも不自然なことだと言えよう。
あと、北村紗衣が、Twitter上での他者批判において、しばしば自身の取り巻き(ファン)を「ファンネル・オフェンス(罵声攻撃陣)」として利用するのは、論争当事者として、いかにも「アンフェア」で倫理感に欠けると、与那覇潤はそう指摘しているが、これに対しても、北村紗衣は、反論してはいない。
一一ということは、北村紗衣は、Twitter上での論争において、自分が、そうした「外野の野次」を故意に利用していると、そう認めているも同然なのだ。
しかし、当然これも、与那覇が指摘しているとおりで、仮にも「教育者」の端くれである「武蔵大学の教授」のすることなのか、倫理的に恥ずかしいとは思わないのか? 一一ということになるのである。
よって、世間の皆さんは、「一般人よりも高い倫理性が求められ、自身の言動にも配慮する社会的責任のある、教育者たる武蔵大学教授の北村紗衣」に対しては、その言動をくまなくチェックして、「これは世間並だな」とか「これは世間並み以下だな」と思った場合には、それをいちいち指摘して批判し、北村紗衣に、「自ら望んで手に入れた社会的地位に伴う、道義的・倫理的な責任」を果たすよう、要求すべきなのである。
そして、その際には、北村紗衣が「日本赤十字に対して、法的責任に止まらない、高度な倫理的責任の引き受けを、要求した」という事実を、持ち出すべきなのだ。
要は「あなた(北村紗衣)が、当たり前の大学教授だったなら、ここまでは求めません。でも、あなたの場合は、自ら進んで、他者に対して、より高い倫理的責任の引き受けを要求したのだから、当然、自らはそれ以上に高い倫理を持って、自らを律する責任と義務があるはずです。そして、それができなかった場合は、あなたがそれを要求した相手は無論、公的な言論人として、世間に対しても謝罪すべきです」と、そう伝えるべきなのだ。
そうした皆さんの「正当な批判」に対しては、北村紗衣は「ミソジニーに発する不当な批判だ」「匿名による卑怯な批判だ」などとは、反論できないはずなのである。
したがって、一一もしも北村紗衣が、それでもそんな言い訳をしたら、ぜひ私にご一報ください。
「北村紗衣批判」ネタのひとつとして、喜んで活用させていただきたいと思います。
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そんなわけで、今回は「宇崎ちゃん献血PRポスター騒動」の「紹介」を主眼として、ごく簡単にその概要について、解説させていただいた。
だが、私自身は、この事件をリアルタイムでは知らないし、今となっては、その膨大なログをつぶさに読んだ、いうわけでもない。
まして、重要当事者である北村紗衣が、自身のログを「消去」しているのだから、その画像が一部残されているとは言え、それで完璧だということにはならないだろう。
したがって私は、本稿での「解説」が「完全に正しい」などとは思っておらず、「認識不足や誤解」は当然あると考えているので、当事者をはじめ、本件に関する有識者のご意見には、真摯に耳を傾ける準備がある。
だから、ぜひとも、事実関係に関するご意見を賜りたいと思っている。
無論、当事者の一人である北村紗衣の意見も喜んで聞かせてもらうつもりなので、関係各位には、是非ともご意見ご感想をと、お願いしておきたい。
なお、本当のタイトルが「(上)」となっているのは、「(下)」を予定しているためだ。
その「(下)」で私が語りたいと思っているのは、「公的な場所での、性的な表現は自粛されるべきなのか?」という、「表現の自由」に関わる、より本質的な問題についての「私見」である。
北村紗衣や、多くの「今どきのフェミニスト」のように、頭から「そんなもん、良くないに決まっている」と決めつけるのではなく、「人間もまた雌雄のある動物である」というところにまで遡って、「性的な表現の是非とそのTPO」の問題について、論じてみたいと思っているのである。一一乞うご期待。
(2024年12月25日)
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