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アラン・パーカー監督 『ミシシッピー・バーニング』 : あなた自身は、本当に「差別者」ではないのだろうか?
映画評:アラン・パーカー監督『ミシシッピー・バーニング』(1988年・アメリカ映画)
私が「差別」という問題を考えるきっかけとなった、大好きな作品である。一般的な評判も極めて高い作品なので、多くの人に強くおすすめしたい。
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本作に描かれる時代は、アメリカ黒人ほかに関する「公民権法」が制定される前の1964年。舞台は、綿花栽培(プランテーション)における黒人の奴隷労働以来の伝統が長らく続いていた、アメリカ「南部」に属するミシシッピー州である。
このあたりの事情を知るには、先日レビューでも紹介した、アメリカ文学の古典的傑作、マーク・トウェインの『ハックルベリー・フィンの冒険』をおすすめしたい。
日本では『トム・ソーヤーの冒険』の方が有名なのだが、どうしてそうなのかと言えば、『ハックルベリー』の方は「黒人問題」という重い問題を扱っているから、日本では「児童文学」に分類される作品ではあっても、「子供向け」とは言い難いと判断されるためであろう。
しかし、だからこそ、アメリカ本国では、『ハックリベリー』は「アメリカの原罪と良心」を描いた「アメリカ文学の至宝」でもありえ、多くの文豪たちが『ハックルベリー』を絶賛したのである。
一方、「南部」の人たちの「本音」が覗いた作品としては、映画文法の礎を築いた人物として、「映画の父」とまで呼ばれた映画監督D・W・グリフィスの、悪名高き作品『國民の創生』(1915年)がある。これは、古い作品なればこそであろう。
それにしても、なぜこの作品が「悪名高い」のかと言えば、南部出身の同監督が、かの「白人至上主義」の人種差別的な暴力カルト集団「KKK(クー・クラックス・クラン)」を「正義の味方」として描き、黒人を「白人社会を蝕む存在」として、ハッキリと「悪役」に仕立てていたからである。
このあたりの詳しい説明については、下のレビューをぜひご参照いただきたい。
また、そうした「南部」に残る人種差別的、あるいは「保守的」な気風を描いた作品としては、「アメリカン・ニューシネマ」の代表的な傑作として名高い『イージー・ライダー』(1969年、デニス・ホッパー監督)がある。
この作品で注目すべきは、「黒人差別」そのものが描かれているのではなく、「自由」を求めるが故に結果的として「反差別」的であり「進歩的」でもある、いわゆる「リベラル」に対する、「南部の保守的な人々」の「憎悪」を描いている点であろう。要は、そうした「保守的な文化の中で育ってきた人たち」には、「進歩的なリベラル」が、「南部の文化と伝統と地域社会に対する破壊者」だと映ったのである。
さて、『國民の創生』では「正義の味方」として描かれていた「KKK」が、本作『ミシシッピー・バーニング』では、わかりやすくオーソドックスに、「差別主義の悪役」として描かれている。
この物語は『1964年に米ミシシッピ州フィラデルフィアで公民権運動家3人が殺害された事件』(Wiki)をモデルにしており、映画の「あらすじ」としては、次のようなものである。
『時は公民権法制定前の1964年。
ミシシッピ州フィラデルフィアで3人の公民権活動家が行方不明となる。それを調査するために、ベテランFBI捜査官2人(ウォードとアンダーソン)が公民権運動家の失踪した田舎町に捜査に行く。ところが、その町では人種差別が公然と行われており、さらに事件の捜査を開始した二人に対し町のKKKや保安官等が捜査の妨害を図ろうとする。しかし、2人は失踪した3人の行方を究明しようと試みるのと同時に、人種差別主義者も追いつめていく。』
(Wikipedia「ミシシッピー・バーニング」)
主人公は、この「公民権運動家失踪事件」の捜査のために、ミシシッピー州の現場と思われる街にやってきた、FBI捜査官の二人だ。
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『たたきあげのベテラン捜査官をジーン・ハックマンが、その相棒の若手エリート捜査官をウィレム・デフォーが熱演。』
(「映画.com」『ミシシッピー・バーニング』)
本作の「魅力」は、まず何といっても、そのシンプルな「差別を憎む、主人公たちの正義感」にあり、次には「差別」という難しい問題を、わかりやすく「勧善懲悪の物語」に落とし込んで、エンタメ作品に仕上げている点であろう。
つまり、「社会派」作品として、今もって解決を見ない「人種差別」という難問を扱っているにもかかわらず、少なくとも作品の中では、わかりやすい「解決」が与えられているのだ。要は、協力が得られない困難な捜査であったが、最後は、人権運動家3名を殺した「憎たらしい差別主義者」たちは全員逮捕されて、めでたくこの物語は幕を閉じるのである。
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だから、本作に対しては、当然の如く「現実は、そんなものではない」とか「実際の事件においては、FBIは正義の味方などではなかった」というような批判もあった。また、「南部の人」が見れば、ずいぶん一方的な映画だと、腹立たしくも感じたはずである。
本作が、アカデミー賞の「撮影賞」しか取れなかったのも、そうした「政治的背景(配慮)」があってのことであろうとも思われる。
『批判
映画では、ウィレム・デフォー演じる米北東部出身のFBI捜査官が、ロバート・ケネディの命により人種差別の根強く残る南部の田舎町へ救世主のごとく現れて孤軍奮闘するが、これは史実に反するとハワード・ジンなどに批判された。
ハワード・ジンは、1963年まで7年間、ジョージア州アトランタの黒人学校で教師をしていた経験から、「歴史や公民権運動を少しでも知っている人なら、この映画の描写には戦慄を覚えるだろう」と述べている。彼によると、当時FBIは公民権運動には非協力的で、まったく当てになるような存在ではなかった。現に、ミシシッピーを含む南部における黒人や公民権運動家たちが受けている暴力や不当逮捕などを司法省に何度通報しても、FBIが捜査するようなことはなく、政府が何か動きを見せるのは、テレビが黒人問題を取り上げてアメリカの失態が世界に報じられたときだけだったと言う。このミシシッピー事件を直接知る公民権運動スタッフのメアリ・キングの著書『Freedom Song』を挙げ、3人がミシシッピーから戻らないことを彼女が何度も司法省などに連絡したがなしのつぶてだったことを指摘し、さらに、この事件の半月ほど前に、ミシシッピーの危険な状況は公聴会などで政府に十分伝えられていたほか、ロバート・ケネディには文書を手渡したうえで、制圧部隊派遣の要請をしたにもかかわらず、政府は何もしなかったと述べている。また、映画には黒人のFBI捜査官が登場するが、1964年当時黒人の捜査官は一人もいなかったことを指摘している。』
(Wikipedia「ミシシッピー・バーニング」)
ここに登場するハワード・ジンは著名な「歴史家」で、私が尊敬する言語学者にして市民運動家でもあるノーム・チョムスキーとも極めて親しかった人であり、決して「保守派」的な人ではない。
だから本作『ミシシッピー・バーニング』への批判は、あくまでも「歴史家」として、「この映画を、現実そのものとして受け取ってもらっては困る」という歴史家としての注文であり、映画の出来を云々するものではないと、そう考えるべきだろう。
ハワード・ジンの業績は、次のようなものだ。
『・ ジンの思想はマルクス主義、アナキズム、民主社会主義の影響を受けており、1960年代から公民権運動や反戦運動の分野で活動してきた。
・ ノーム・チョムスキーとは政治活動上の親交が深かった。
・ 門下生には、アリス・ウォーカーがいる。』
(Wikipedia「ハワード・ジン」)
ここで、紹介されているアリス・ウォーカーについても、是非とも「Wikipedia」を確認してほしいが、要は、
『アリス・ウォーカーは、1944年2月9日、アメリカ合衆国ジョージア州のイートントン(英語版)に生まれた。彼女の家族はアフリカ系アメリカ人であるばかりでなく、チェロキー・スコットランド人・アイルランド人の血を引いていた。1961年、奨学金を得てアトランタのスペルマン女子短期大学(Spelman College) に入学、在学中に公民権運動に参加する。その後ニューヨーク州ブロンクスヴィルのサラ・ローレンス女子大学 (Sarah Lawrence College) に編入学し、1965年に卒業した。学生時代、彼女は夏季を交換留学生としてウガンダで過ごしている。
ウォーカーは1967年にフェミニズム活動家のメル・レヴェンサル(レーベンタール) (Melvyn R. Leventhal) と結婚するが1976年に離婚している。彼らの間に生まれた一人娘のレベッカ・ウォーカーもまた、著名なフェミニスト・作家となった。』
(Wikipedia「アリス・ウォーカー」)
そんな人であり、その代表作が、スティーブン・スピルバーグが映画化もした、ピューリッツァー賞受賞の小説『カラー・パープル』である。
話を戻そう。一一要は、本作『ミシシッピー・バーニング』は、「社会派映画」だとは言え、「勧善懲悪のエンタメ映画」にもなっている、ということである。
つまり、ひとまず映画として面白いし、映画を見終えた後には「差別問題」について考えるきっかけを与えてくれる「一粒で二度美味しい」作品なのだ。
だから、この作品が描いた物語を「現実そのもの」だと勘違いしてはならないが、「現実そのもの」ではないからと言って、否定する必要もないのである。
○ ○ ○
本作の主人公は、前述のとおり、二人のFBI捜査官の「ウォードとアンダーソン」である。
ジーン・ハックマン演ずるところの「叩き上げのベテラン捜査官」アンダーソンと、ロバート・ケネディの直々の命によりこの「公民権運動家失踪事件」の主任捜査官を任された、ウィレム・デフォー演ずるところの若きエリート捜査官ウォード、というコンビだ。
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本作は、今でいう「バディもの」の典型的な作品であり、一応のところ「叩き上げのベテラン捜査官」アンダーソンが主役で、「若きエリート捜査官」ウォードは「その相棒」、という位置づけになるだろう。本作制作当時の、俳優の格としても、そう考えるのが至当であろう。
アンダーソンは「ベテラン捜査官」らしい「正義感と人情味」を併せ持っており、しかも彼自身がじつは「南部」の出身であり、「南部」の差別主義的な風土を変えたいという思いがあって、故郷を捨てた人物なのだ。だから、リベラルな北東部出身のウォードとは違って、「南部」の偏見の根強さや、その度し難さというものを骨身に染みて知っているから、ウォードの「北東部流の正攻法」では、事件の解決は見込めないとも思っている。
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だが、FBI(連邦捜査局)の中での階級はウォードの方がずっと上だし、捜査の指揮権もウォードにある。なにしろ、ウォードには司法長官という後ろ盾があって、彼らの捜査が地元の協力を得られないとわかり、二人だけの捜査では埒が開かず、人海戦術が必要だとなれば「今すぐ100人の応援を要請する」とやってしまえるのだから、彼がいかに並外れた権力を持つエリートかがわかろう。
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だが、普通に見ていれば「人情刑事のアンダーソン」と「エリート捜査官のウォード」なら、当然のごとく、鑑賞者の多くはアンダーソンに共感して、かなり嫌味だとも言えるウォードを、アンダーソンの引き立て役のように感じるかもしれない。
しかし、私個人は、圧倒的にウォードが好きだった。
というのも、アンダーソンは、いかにも「典型的な人情刑事」として類型的であり、その意味で、わかりやすすぎたからだ。
その点「エリート捜査官のウォード」の方は、エリートらしく「正攻法」を当然とする、いささか「石頭」野郎ではあれ、しかし、その石頭は、彼の「並外れた正義感」でも発揮されるのだ。
つまり、ウォードの「並外れた正義感」が、時に、現実の前に妥協しそうになるアンダーソンを揺り動かし、力づくで捜査を推し進める原動力にもなるのである。
したがって、ウォードは、単なる「優秀なだけのエリート」ではなく、「非凡な正義感」を併せ持った捜査官だったからこそ、彼は若くして、ケネディの信任をも得た、傑物だったのだ。
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私が、アンダーソンよりもウォードに惹かれる理由は、要はウォードの「変人」性にあると、そう言い換えることもできるだろう。
アンダーソンは、よく言えば「人情家の正義漢」で、とてもわかりやすいのだが、ウォードの方は、彼を突き動かしている「正義感」が何に由来するものなのか、結局はよくわからない部分がある。
彼が「差別」を憎んでいるというのは間違いないし、それは多分、彼のシンプルな「平等意識」に発するものであろう。「同じ人間なのに、どうして黒人を差別するのだろう?」という、きわめてシンプルな感覚が、彼の根底にはあるようなのだ。
もちろん、彼は知的にもエリートだから、差別の歴史や人間の差別意識というものについても「知識や理解」も持っているだろう。だが、それはあくまでも「知っている」ということであって「理解できる」ものではなかったはずなのだ。「そういうことのようだが、私には、差別者の気持ちなど、さっぱり理解できない」という気分が、その根底にはあったはずなのだ。
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その一方、「南部」出身のアンダーソンには、「南部」の人たちの「気持ち」がわからないでもなかった。
彼の父親その人が、そんな差別意識のせいで黒人を殺したと彼は信じていて、そんな父の「南部」性が、彼にはいたたまれず、故郷を捨てることにもなったのである。
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だから、そんなアンダーソンにとっては、「南部の度し難い差別意識」に対しては、ある種の「無力感」や「諦め」にも似た感情も、ないではなかったはずだ。
無論、それを「容認」しているわけではないが、それが「変えられる」ものだという実感が、彼には持てない。
だから、そうした「機微にわたる難問」としての「差別意識」に対して、子供のような馬鹿正直さで真正面から切り込んでいくウォードを、アンダーソンは、「何もわかっていない」と歯痒く思うところがある反面、ウォードの揺るぎない正義感に圧倒され、引きずられるところが、確かにあったのである。
つまり、この二人には「一長一短」があり、それが噛み合ったからこそ、この難事件を解決に導くことができたと、そう言えるのだ。多少の「反則」を犯してもである。
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○ ○ ○
そんなわけで、本作は、たぶん誰が見ても面白い作品として、多くの人に勧めたいと思うのけれど、しかしここで、ひとつだけ注文をつけさせていただきたいのは、一一本作を、アメリカにおける人種差別の問題、黒人差別問題の話だとは決めつけず、「自分自身の問題」と考えてほしい、ということである。
つまり、本作『ミシシッピー・バーニング』を見て「アメリカの黒人差別って、酷かったんだね」とか「今も黒人差別はなくなっていないから、ブラック・ライブズ・マターみたいな運動も起こるんだよな」というのではなく、「私たちの、今ここの日本における差別」の問題や「自分自身の差別意識」の問題として、考えてほしいのだ。
私が、若い頃にテレビで見て感動した本作『ミシシッピー・バーニング』を、どうして「昨日」見たのか。それには理由がある。
そのうち見たいと思って、半年ほど前には中古DVDを買っていたとはいえ、それを見るのが昨日になったのは、一昨日、私自身が「差別」意識の問題と、直接リアルに対峙しなければならなかったからである。
それは、下の記事にまとめた「議論」であり「対話」であり「論争」として示したものだ。
ここで、議論されたのは、「性的マイノリティ」の問題である。つまり、近年、話題となることも多い「LGBT」あるいは「LGBTQ」あるいは「LGBTQ+」の問題だ。
ここで言う「LGBTQ」とは「レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、クィア」、つまり「男性同性愛者、女性同性愛者、両性愛者、それ以外の特殊な性的指向」ということになる。「Q」が、「クィア(変態)」あるいは「クエスチョニング(よくわからない・分類不能なセクショリティ)」なのだとすれば、これで「すべてのセクシャリティ」がカバーできそうにも思えるが、実はその後には、「アセクシャル・エイセクシャル」や「ノンセクシャル」」といったものも知られるようになった。
「アセクシャル・エイセクシャル(アロマンティック)」や「ノンセクシャル」の特徴とは、そもそも「性欲を抱かない」というアンチ・セクシャリティ的なものだからこそ、「LGBTQ」では済まずに、際限なく名称が長くなりそうな気配から、「+」を付けて処理したり、逆にこれから発見され得る少数例も全部まとめて「LGBT」と便宜的に表記しよう、などという話にもなっているのである。なにしろ、「差別」問題に関わる名称だから、そこでも「公平さ」が問われたのであろう。
『アセクシャル・エイセクシャル(無性愛)とノンセクシャル(無性愛)だ。両方とも「無性愛」と訳され、「性的欲求を抱かない」のが共通点だが、その違いは「恋愛感情」にある。ノンセクシャルは、他者に恋愛感情を抱くのに対し、アセクシャルの場合は、恋愛感情の有無には言及されない。つまり、アセクシャルの人のなかには恋愛感情を抱く人もいればそうでない人もいるということだ。』
(サイト『IDEAS FOR GOOD』の記事「パンセクシャルにアセクシャル?今こそ知りたい「〇〇セクシャル」の多様性」から)
このように説明すると、多くの人にとってはもう「異世界」の話に近く感じられるのではないだろうか?
かく言う私自身、つい最近までは「LGBT」という言葉を聞いたことくらいはあっても、それが何の略称なのかまでは知らなかった。
ただ、もともとが小説読みで「幻想文学」が好きだったから、2年前にその存在を知った、歌人にして小説家の川野芽生のエッセイ集を読んで、初めて「トランスジェンダー」という言葉の中身や「アセクシャル・アロマンティック」なんてものの存在も知ったのだ。
そして、つい4ヶ月前の今年8月になってから、面識も何もなかった「武蔵大学の教授」にしてフェミニストの映画評論家である北村紗衣から、ネット上で難癖をつけられたことをきっかけに、初めて本気で、今の「フェミニズム」や、それに絡む「キャンセルカルチャー」や「LGBT問題=トランスジェンダリズム(性自認主義)問題」といったことに興味を持ち、関連書を読んだ結果、初めて「LGBTQ」の意味を知ったにすぎないのである。
しかし、当然のことながら、こうした問題も、知れば知るほど奥が深い。
例えば、「LGBT」あるいは「LGBTQ」「LGBTQ+」への偏見を減らし、その権利の拡大を目指す活動をしている「国際レズビアン・ゲイ協会」(略称「ILGA」)という『2009年現在、世界約110か国で活動を展開している。』(Wiki)という国際的な人権運動団体があるのだが、この団体が、1990年代に「小児性愛者の権利団体」だけを追放した、という歴史的経緯があるのだ。
これを聞いて、「さすがに小児性愛者はなあ」と思った人も少なくないだろう。
だが、保守政治家からの指摘を受けたことがきっかけだったという「ILGA」のこうした措置は、結局のところ、広く「世間一般」からの理解を得るために、本来であれば「Q(クィア)」の中に含まれていた「仲間」とも呼ぶべき「小児性愛者」の権利団体を、邪魔者として切った、ということにしかならない。
要は、建前としては「同じ性的マイノリティとして協力し合う仲間の団体」だったのだが、彼らにとっても「小児性愛者」が身内にいるのは、外聞が悪く、ハッキリ言えば、権利獲得運動のためには「足手まとい」だという判断だったようだ。
じっさい、今どきは、「同性愛者」や「両性愛者」あるいは「解剖学的性別と性自認が異なる人(トランスジェンダー)」くらいまでなら、世間一般の人(異性愛者)でも多少は「理解可能」だし、そうした「性的マイノリティも差別されることなく、その人権が守られるべき」だとは思える。
しかし、「小児性愛」となると、さすがに「ちょっと待って」という話になりがちなのである。
そして、こうした「クィア」には、「小児性愛(ペドフィリア)」と並べて、他にも『サドマゾ、近親相姦、獣姦、食人など』(「KS2024」氏)という「人聞きの良くない性的指向」がいろいろと存在しており、だからこそ「ペドフィリアは認められない」と主張する人も、当然のことながら大勢いるのだ。
もちろん、その「気持ち」はわからないでもない。
特に、これまでの「伝統文化の美」にこだわる「保守的」な人であれば、「そんなものまで認めたら、際限なくあれもこれも認めなくてはならなくなって、無茶苦茶になる」と言いたくなるのは、ごく自然なことであろう。
だが、ここで考えなくてはならないのは、そうした「これまでの常識や美意識」を当然のものとする考え方とは、「黒人」を「同じ人間」だとは認められなかった、「アメリカ南部州の保守的な人たち」の感覚と「まったく同じだ」という事実なのである。
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彼らにとっては、黒人「奴隷」とは、「同じ人間」ではなく、労役に使う「牛馬」と同じ「家畜」の一種に過ぎなかった。
だからこそ、「白人と黒人が結婚をする」すなわち「セックスをして子供をなす」などということは考えられない暴挙であり、許されて良いことではなかった。極めて「反倫理的・非人道的なこと」だったのだ。「それでは、牛や馬と結婚してセックスをし、牛人間や馬人間を産めとでも言うのか!」というのが、彼らの偽らざる「実感」だったのである。
だから、「黒人差別」というものは、日本人を含む「外国人」が思うほど、簡単な問題ではないのである。
しかしだ、こうした自らの「常識」に反する事物への「偏見」や「差別意識」というのは、何も「アメリカ白人」に限ったものではない。
その証拠に、上に紹介した「LGBT問題」に関わる議論では、次のような発言もあったのだ。
KS2024
2024年12月21日 09:24
年間読書人様、コメントありがとうございます。
マジョリティが単一なのは、最大をマジョリティと定義しているからです。
もちろんその最大値が他のマイノリティと比較して大差ない場合もありますし、複数規範が並立する場合もあるでしょう。
しかし性の社会規範に関しては「常識」という名のしっかりしたマジョリティは確かに存在します。
マイノリティの規範をマジョリティの規範と同等にすれば、性的マイノリティ保護のため、アナルセックスどころか、ペドフィリア、サドマゾ、近親相姦、獣姦、食人などありとあらゆるセクシュアリティを子供に教えることになりかねません。
それは残酷な写真や動画を子供に見せるのと同じことです。
子供たちの健康な心身の発達に悪影響を及ぼすことは間違いないでしょう。
あと、社会規範は固定不変ではなく変化し続けるものです。ですので、我々が社会の安定を守るためにしっかりした社会規範を維持する努力をしないと、それは崩れてしまう恐れがあります。
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KS2024
2024年12月21日 09:24
その際基準とすべきものは、「社会の弱者を守る」事です。
(※ トランスジェンダリズム=性自認主義によって)男女の境界が破壊されれば、肉体性差で著しく不利にある女性の人権が侵害されます。
学校で子供たちに「異常な性教育」をすれば、子供の人権が侵害されるでしょう。
大人の自由を今より拡張する目的のために子供たちを犠牲にするようなことをしてはいけません。』
「KS2024」氏は、ここで「弱者たる女性や子供の権利を守れ」と、それ自体は至極もっともに聞こえることを主張している。
そんな「KS2024」氏のご意見に対して、私がどのように応答したかは、そのやり取りのすべてを公開してあるので、是非そちらをご確認いただきたいのだ。
そして、ここで皆さんに考えていただきたいのは、もしも貴方が、この「KS2024」氏の意見を支持するのであれば、それは、貴方自身が、本作『ミシシッピー・バーニング』に描かれた「南部の黒人差別主義者」と同種の人間であり、決して彼らを責めうる立場にはない、という事実だ。
私は、上の「議論(対話・論争)」において、まさに「ウォード」のような立場から、そうした「差別意識」を批判し、反論しているのである。
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(2024年12月23日)
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