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葉真中顕 『Blue』 : 再生産される〈アシュラ〉の慟哭

書評:葉真中顕『Blue』(光文社)

大変な意欲作であり、本作テーマに対する、著者の強い思い入れが迸った作品である。
しかし、その思い入れのせいだろう、あれもこれもと叩き込んだ結果の「やりすぎ感」は否めない。

本書の末尾には、著者に拠るものであろう、次のような無署名の注記が付されている。

『本作は書き下ろし作品です。
また、この物語は平成30年間の文化・風俗を俯瞰しながら、
児童虐待、子供の貧困、無戸籍児、
モンスターペアレント、外国人の低賃金労働など、
格差社会の生んだ闇をテーマとした作品ですが、
フィクションであり、実在の人物、団体、事件とは一切関係がありません。』

見てのとおり、本作は『格差社会の生んだ闇をテーマとした作品』であり、『児童虐待、子供の貧困、無戸籍児、モンスターペアレント、外国人の低賃金労働』といった「多くの問題」が採り上げられ、しかもその背景として『平成』という時代の「時代性」を重ねて見せてもいる。

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なるほど、それぞれの問題についての著者の思いは、物語の展開の中で語られており、それらはそれぞれに「正論」ではあるのだけれども、当然の結果として、それぞれのテーマに関する「文学的な掘り下げ」が、充分になされたとは言い難いものとなってしまっている。
あくまでもそれらは、ノンフィクション的な紹介的描写と、それに対する良識的な批判的描写に止まっており、要は、欲をかきすぎたがために、おのずと掘り下げの不十分なエピソードに止まってしまっているのだ。

それでも、本書の「中心的なテーマ」は、主人公である「ブルー」こと篠原青の人生を規定した、「虐待の連鎖」の問題ということになるだろう。
「虐待をされて育った者が、長じて虐待者になりがちだ」という「現実の悲劇」をどう考えるべきなのか、ということを、本作は読者一人ひとりに問うた作品だと言えるのだ。

しかしまた、こうした観点からすれば、「虐待の連鎖」という問題が、児童虐待事件としてハッキリと明るみに出たのは「平成」に入ってからであったとしても、この問題自体は、それ以前からずっと存在してきたものなのだから、それをあえて「平成」という時代性に押し込めるのは、テーマの扱いとしては、少々粗雑で無理があったとも言えるだろう。

以上のような「小説のつくりとしての弱点」を指摘した上で、しかし私は、この作品における「虐待の連鎖」というテーマの扱いは、充分に説得力があり、高い評価に値するものだと考える。
と言うのも、本作は、「虐待の連鎖」という現実的な問題の原因となる「どうしても子供を育てられない親」という存在から、決して逃げてはいないからだ。

要は、そういう「望ましくない親」というのは確かに存在するのだから、その存在を理念的に否定するだけではダメだし、現実的に(文字どおり)抹殺するわけにもいかないという、ダブルバインドの重さを、作者は直視し、その上でこの難問と格闘しているからである。

その証拠に、主人公ブルーの人生の悲劇に直面して、「どうしても子供を育てられない親」として子供を捨てた(離婚して、親権を放棄した)自分を責める女性刑事・奥貫綾乃に対し、同僚の女性刑事・藤崎司(を通して作者)は、次のような、一一「読者の常識」を覆すような「救い」を提示する。

『 (※ 自分は)自分の子供さえまともに愛せない欠陥人間。あの亜子と、あるいはブルーの母親と同じような、いっそ殺された方がいい人間。
 それが私なんだ一一
「違いますよ」
 言葉とともに柔らかな感触に包まれた。
 抱き寄せられた。
 ブラウス越しに、司の身体の熱が伝わってきた。
「詳しい事情は何も知りませんけど、奥貫さん、ちゃんと手放せたんですよね」
 手放せた? 何を? 家族を?
 そうだよ。私は家族を手放してしまった。自分から。ちゃんとなんかしてないよ一一洟と嗚咽ばかりが出て、言葉にならない。
「だったら、違います。奥貫さんはきっと最善のことをしたんです。誰も殺してないし、必要以上に誰かを傷つけたりもしなかった。昔、私の父がそうだったように、奥貫さんもちゃんと家族を手放せたんです」
 司は静かな声で言った。
 ちゃんと手放す一一
 そんなことができたんだろうか。
「でも……も、もし、世界中が私みたいになったら……、きっと世界は滅んじゃう」
 綾乃はしゃくりあげながら言った。
 それは綾乃が抱く馬鹿げた恐れだった。
「奥貫さんの気持ちがわかる、なんて、簡単には言えないですけど、私……、もう三〇だけど、誰ともつきあったことないんです。誰に対しても恋愛感情が湧かないんです。男性に対しても、女性に対しても。たぶん一生、結婚しないし、セックスもしない。子供も産まないと思います。だから私も欠陥人間です。世界中が私みたいになっても、きっと世界は滅んでしまいます」
 誰に対しても恋愛感情が湧かない一一それがどういうことか、上手く理解できない。いきなり言われても、本当かどうかさえわからない。ただ、綾乃を励ますために嘘を言っているふうでもなかった。
 司は続ける。
「だけど、きっとそんなふうにはなりません。だって世界の私以外の人は私じゃないし、奥貫さん以外の人は奥貫さんじゃないですから。誰がが一人が世界の命運を担う必要なんてないですよ。それに、別にいいじゃないですか。最悪、世界なんて滅んでも。私たち、たぶん世界の存続のために生きてるわけじゃないんですよ」
 言葉が染みる。司の声は震えていた。もしかしたら彼女も泣いているんだろうか。顔を上げて確かめることはできなかった。
 でも、駄目だよ世界が滅んだら。私たちが何のために生きているのかなんて知らないけれど一一そんな反論が頭に浮かんだけれど、言葉にできなかった。』(P465〜466)

「どうしても子供を育てられない親」は、現実に存在する。
しかし、それに本人が気づかないまま、子供を作ってしまう現実がある。
その場合どうすれば良いのか?

「気持ちを切り替え、頑張って子供を育てる」というのが「正解ではない」ことくらいは、現実を見るならば自明であり、前提とすべき事実であろう。「気持ちを切り替え、頑張って子供を育てる」ことができるくらいなら、誰も苦労はしない。それができない現実があるからこそ、「それ以外」の「次善の具体的解決策」としての解答が、切実に求められているのである。

そして、この「次善の具体的解決策」として、本作で提示されるのが「子供を正しく手放す」という「常識に反する提案」なのだ。
自分に親としての能力がなく、その資格のないことがハッキリすれば、子供のためには「子供を正しく手放す」という、本能に反した選択しかない。親としての本能的執着を、勇気を持って(理性的に)捨てる、ということしかないのだと、藤崎司は言っており、一一私も、それしかないと思う。

しかし、この問題を、そこまで「我が事」として、リアルに突き詰めて読んだ読者が、いったいどれだけいるだろうか。
多くの読者は、自分や自分の周囲の「リアルな問題」としてなら、結局は「気持ちを切り替え、頑張って子供を育てる」なんて「誤摩化し」で、お茶を濁しはしないだろうか? その結果、子供たちの悲劇の再生産に、加担してはいないだろうか?

だから私は、これほどの「重い問い」を読者に突きつけた作者を評価したいし、むしろ問いたいのは、読者の方なのである。「あなたは、自分自身を、子を育てる親としての資格を有するに十分な人間だと、本当にそこまで考え、判断して、子を成し、適切に育てている、と言えるのだろうか?」と。

私は、「ペット問題」を扱った、カレー沢薫のマンガ『きみにかわれるまえに』を評して、次のように批判した。

『(※ 子供の頃、拾ってきた子犬の面倒を見きれずに病死させてしまったため、その罪悪感から)その後の私は、ペットを飼おうとは思わなかった。
セキセイインコを何匹か飼った記憶はあるが、それは私が飼ったものではなかった(※ 他の家族が飼った)と思うし、死なれたり逃げられたりして、残念な思いをしたことはあっても、その時の感情は、子犬の時とはまったく違っていた。端的に言って、インコは「家族」ではなかった。あえて言えば「生きた装飾家具」のたぐいだったのだろう。だから「壊れた」「紛失した」という感じだったのではないかと思う。
弟が、小学校の前で売っていたヒヨコを買って帰り、それがたまたま成鳥になるまで育ったこともあったが、小さな鶏小屋で飼われた鶏はけっこう獰猛で、可愛いペットなどではなかった。結局、鶏のためにも、小学校に寄贈して、広い鶏小屋で飼ってもらった方が良いだろうということで、小学校に寄贈したのだが、まもなくイタチかなにかに殺されてしまった。その際も、あっけなさと残念な気持ちはあったものの、子犬を失ったときのような、深い喪失感はなかった。たぶん、私にとっての子犬は、「ペット」ではなく、「弟」のような存在だったのだろう。だからこそ、強い「やましさ」を感じたのだと思う。

そして、今の私は、結婚をする気もないし、ましてや子供を作る気などない。
地球温暖化で、数十年後には地球環境の悪化が決定的となり、今の生活水準が保てなくなるというのは、ほとんど目に見えている。おそらく、飢餓に苦しむ子供たちが、もっともっと増えるだろう。それに日本に限って言っても、経済的二極分化がすすみ、多くの人が経済的に苦しい生活を強いられ、したくても結婚などできない人が増え、庶民は多くの子供を持つことなどできない状況になってきている。核廃棄物も、未来への「負の遺産」として増えていくばかりだ。福島第一原発の「汚染水」も、遠からず海洋廃棄されるだろう。

つまり、まともに考えれば、「子供たちの未来」には、明るい展望などほとんどないに等しい。
「それでも、子供をつくる」のだろうか。
「可愛いだけじゃない。楽しいだけじゃない。自分勝手に愛している。いなくなったら堪えられない。 それでも、君を産み育てる。」のだろうか。(※『きみにかわれるまえに』の帯に記された惹句のもじり)

結局、自分を慰めるためなら「なんでもあり」ということなのではないのか。
まして、それが人間ではなく、他の動物であり「ペット」であるなら、そうした「消費」も「べつにいいじゃない」で済まされてしまうのか。

しかし、そんなものを「感動」で誤摩化すのは、グロテスクすぎやしないだろうか。
しかしまた、人間とはそういうものであり、だからこそ滅んでしかるべきものなのかも知れない。

私のこの感情は、そんなに極端なものなのだろうか?』(2020年11月30日 Amazonに公開)

本書の読者は、子や孫の将来を、本当に真剣に考えているだろうか?
また、考えた上で、子を成したであろうか?
本気で、これからの「子供たちの未来」を考えて、育てているだろうか?
それとも、「本能的」に子を成し、「本能的」に「かわいい」から育てているだけ、なのだろうか?

もし、そうだとすれば、その人と「どうしても子供を育てられない親」との間に、どれだけ違いがあるだろうか。
「産むべきではない子」を、自分の「本能的欲望」のままに産み、その「未来」を十二分に考慮することもなく、本能と自己満足だけで育てている親というのは、ある意味では、好んで生まれてきたわけではない子供にとって、じつは、あまりにも残酷な存在なのではないだろうか。

半世紀も前に発表された、ジョージ秋山のマンガ『アシュラ』の主人公の少年アシュラは、飢餓に満ちた平安時代末期の社会状勢の中で、やむなく蛆のわいた人肉を食らいながら『生まれてこないほうがよかったギャア』と慟哭していたが、この世が生まれてくるに値しない「地獄」かもしれないということを、本作の読者は、親として、少しでも真剣に考えたことがあっただろうか?

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初出:2020年12月12日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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