葉真中顕 『Blue』 : 再生産される〈アシュラ〉の慟哭
書評:葉真中顕『Blue』(光文社)
大変な意欲作であり、本作テーマに対する、著者の強い思い入れが迸った作品である。
しかし、その思い入れのせいだろう、あれもこれもと叩き込んだ結果の「やりすぎ感」は否めない。
本書の末尾には、著者に拠るものであろう、次のような無署名の注記が付されている。
見てのとおり、本作は『格差社会の生んだ闇をテーマとした作品』であり、『児童虐待、子供の貧困、無戸籍児、モンスターペアレント、外国人の低賃金労働』といった「多くの問題」が採り上げられ、しかもその背景として『平成』という時代の「時代性」を重ねて見せてもいる。
なるほど、それぞれの問題についての著者の思いは、物語の展開の中で語られており、それらはそれぞれに「正論」ではあるのだけれども、当然の結果として、それぞれのテーマに関する「文学的な掘り下げ」が、充分になされたとは言い難いものとなってしまっている。
あくまでもそれらは、ノンフィクション的な紹介的描写と、それに対する良識的な批判的描写に止まっており、要は、欲をかきすぎたがために、おのずと掘り下げの不十分なエピソードに止まってしまっているのだ。
それでも、本書の「中心的なテーマ」は、主人公である「ブルー」こと篠原青の人生を規定した、「虐待の連鎖」の問題ということになるだろう。
「虐待をされて育った者が、長じて虐待者になりがちだ」という「現実の悲劇」をどう考えるべきなのか、ということを、本作は読者一人ひとりに問うた作品だと言えるのだ。
しかしまた、こうした観点からすれば、「虐待の連鎖」という問題が、児童虐待事件としてハッキリと明るみに出たのは「平成」に入ってからであったとしても、この問題自体は、それ以前からずっと存在してきたものなのだから、それをあえて「平成」という時代性に押し込めるのは、テーマの扱いとしては、少々粗雑で無理があったとも言えるだろう。
以上のような「小説のつくりとしての弱点」を指摘した上で、しかし私は、この作品における「虐待の連鎖」というテーマの扱いは、充分に説得力があり、高い評価に値するものだと考える。
と言うのも、本作は、「虐待の連鎖」という現実的な問題の原因となる「どうしても子供を育てられない親」という存在から、決して逃げてはいないからだ。
要は、そういう「望ましくない親」というのは確かに存在するのだから、その存在を理念的に否定するだけではダメだし、現実的に(文字どおり)抹殺するわけにもいかないという、ダブルバインドの重さを、作者は直視し、その上でこの難問と格闘しているからである。
その証拠に、主人公ブルーの人生の悲劇に直面して、「どうしても子供を育てられない親」として子供を捨てた(離婚して、親権を放棄した)自分を責める女性刑事・奥貫綾乃に対し、同僚の女性刑事・藤崎司(を通して作者)は、次のような、一一「読者の常識」を覆すような「救い」を提示する。
「どうしても子供を育てられない親」は、現実に存在する。
しかし、それに本人が気づかないまま、子供を作ってしまう現実がある。
その場合どうすれば良いのか?
「気持ちを切り替え、頑張って子供を育てる」というのが「正解ではない」ことくらいは、現実を見るならば自明であり、前提とすべき事実であろう。「気持ちを切り替え、頑張って子供を育てる」ことができるくらいなら、誰も苦労はしない。それができない現実があるからこそ、「それ以外」の「次善の具体的解決策」としての解答が、切実に求められているのである。
そして、この「次善の具体的解決策」として、本作で提示されるのが「子供を正しく手放す」という「常識に反する提案」なのだ。
自分に親としての能力がなく、その資格のないことがハッキリすれば、子供のためには「子供を正しく手放す」という、本能に反した選択しかない。親としての本能的執着を、勇気を持って(理性的に)捨てる、ということしかないのだと、藤崎司は言っており、一一私も、それしかないと思う。
しかし、この問題を、そこまで「我が事」として、リアルに突き詰めて読んだ読者が、いったいどれだけいるだろうか。
多くの読者は、自分や自分の周囲の「リアルな問題」としてなら、結局は「気持ちを切り替え、頑張って子供を育てる」なんて「誤摩化し」で、お茶を濁しはしないだろうか? その結果、子供たちの悲劇の再生産に、加担してはいないだろうか?
だから私は、これほどの「重い問い」を読者に突きつけた作者を評価したいし、むしろ問いたいのは、読者の方なのである。「あなたは、自分自身を、子を育てる親としての資格を有するに十分な人間だと、本当にそこまで考え、判断して、子を成し、適切に育てている、と言えるのだろうか?」と。
私は、「ペット問題」を扱った、カレー沢薫のマンガ『きみにかわれるまえに』を評して、次のように批判した。
本書の読者は、子や孫の将来を、本当に真剣に考えているだろうか?
また、考えた上で、子を成したであろうか?
本気で、これからの「子供たちの未来」を考えて、育てているだろうか?
それとも、「本能的」に子を成し、「本能的」に「かわいい」から育てているだけ、なのだろうか?
もし、そうだとすれば、その人と「どうしても子供を育てられない親」との間に、どれだけ違いがあるだろうか。
「産むべきではない子」を、自分の「本能的欲望」のままに産み、その「未来」を十二分に考慮することもなく、本能と自己満足だけで育てている親というのは、ある意味では、好んで生まれてきたわけではない子供にとって、じつは、あまりにも残酷な存在なのではないだろうか。
半世紀も前に発表された、ジョージ秋山のマンガ『アシュラ』の主人公の少年アシュラは、飢餓に満ちた平安時代末期の社会状勢の中で、やむなく蛆のわいた人肉を食らいながら『生まれてこないほうがよかったギャア』と慟哭していたが、この世が生まれてくるに値しない「地獄」かもしれないということを、本作の読者は、親として、少しでも真剣に考えたことがあっただろうか?
初出:2020年12月12日「Amazonレビュー」
(2021年10月15日、管理者により削除)
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