ニーチェ 『道徳の系譜学』 : なぜ、呑気にニーチェを支持できるのか?
書評:ニーチェ『道徳の系譜学』(光文社新訳文庫版ほか)
ニーチェは、私たちが当たり前に受け入れている、「キリスト教倫理」を基盤とした「善悪観=道徳」を、覆そうとした思想家である。
『穏やかで、善意に満ち、譲歩し、同情深い』(P221)人間を、私たちは愛し、尊敬する。できれば自分もそうなりたいものだ、と考えたりもする。
また、そこまで真面目に考えない人でも、「怒りっぽくて、敵意に満ち、我を通して譲らず、他人に冷淡」な人を好きになることなど、まずないだろう。まして、そんな感情を自分に向けられたら、途端に腹を立てて「なんて野郎だ、あいつだけは絶対に許さない!」と、その人の人格を全否定しても足りないという感情にとらわれるし、そうした評価は「客観的に正しい」と確信するのではないだろうか。
しかし、ニーチェが、本来の人間性として肯定的に持ち出す「生の肯定性(力への意志=権力への意志)」とは、簡単に言ってしまえば、「怒りっぽくて、敵意に満ち、我を通して譲らず、他人に冷淡」であるということなのである。
つまり、「怒りっぽい=ダメなものはダメだと正直に語って、自分を偽らないし、他者をも偽らないから、遠慮も呵責もない)」、「敵意に満ち=自他は違うということを当然の前提として、自身の優位性を証すためには、他者の価値観と戦うことを辞さない」、「我を通して譲らず=譲歩的なかたちで得る実利のための、誤摩化しや妥協を選ばない」、「他人に冷淡=まず自分を肯定するのが、当然の前提」といったことだ。
しかし、ここまでなら、まだ「ニーチェを支持できる」と思える人も少なくないだろう。
けれども、ニーチェの要求は、「凡人」が、自身の「救いがたい凡庸さ」を認めずして、簡単に支持できるようなヌルいものではない。例えば、
要は「畜群」的に「無難な(ヌルい)満足(という煩悩のもと)」を得ようなどとはせず、ただ「真理」に直面するという「権力への意志」のためだけに、そうした「足手まといになるもの(俗物的欲望)」は、すべて冷淡かつ呵責なく切り捨てていくのが「哲学者」であり、それが出来ないような「半端者」は、いくら「哲学」を語って見せても、そんなものは、せいぜい「世間に見せびらかして自慢するためだけの、くそつまらない俗物的なお飾りにすぎない」ということなのである。
したがって、ニーチェの哲学を肯定することは、「普通(の人に)はできない」。
それなのに、ニーチェの本を読んで「共感(理解)できた」などと言う人は、本質的に「能天気なバカ」なのだと言ってよいだろう。
むしろ、私たち「凡人」は、自身の存立基盤を脅かすニーチェの攻撃的な思想を、本気で打倒しなければならないはずなのだが、それにも気づかず「ニーチェに共感できる(私は非俗物なのだ)」などという勘違いして、知ったかぶりでニーチェを語る素人など、見るも恥ずかしいほどの愚劣醜悪な存在なのだ。
だが、そんな人は多い。いや、そんな人の方が多い。だからこそ「畜群」なのだ。
つまり、ニーチェの憎悪も、決して故なきことではないのである。
(※ 引用はすべて、中村元訳「光文社古典新訳文庫」版から)
初出:2019年12月5日「Amazonレビュー」
(2021年10月15日、管理者により削除)
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