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ウェス・アンダーソン監督 『グランド・ブダペスト・ホテル』 : 古き良き時代への挽歌

映画評:ウェス・アンダーソン監督『グランド・ブダペスト・ホテル』2014年、ドイツ・アメリカ合作映画)

つい先日、アンダーソン監督の2017年の長編人形アニメーション『犬ヶ島』を見て、レビューを書いたところだ。

残念ながら私は、この『犬ヶ島』に関しては、まったく楽しめなかったのだが、その特徴的な「絵づくり」には、監督の並々ならぬ執着を感じてはいた。
私はそのレビューの最後を、次のように締め括っている。

『要は、ウェス・アンダーソン監督が理想とするのは「とびきり美しい、動く〈押し絵〉的な世界」なのではないか。
オーソドックスに「複数のカットをモンタージュして、ひとつのシーン(場面)を作る」というのではなく、可能なかぎり、動きのないワンショットの中で「絵」を完成させて、それを(並べて)見せようとしただけなのではないだろうか。

ウェス・アンダーソン監督の作家性に対する、私のこうした「暫定的理解」の当否は、『グランド・ブダペスト・ホテル』を見ることよって、たぶん明らかになるはずである。』

つまり、「絵」は高く評価しつつも、「物語」作家としては、かなり厳しい評価を下していたわけだ。一一で、本作を見てどうだったか。

結果としては、本作『グランド・ブダペスト・ホテル』の方がずいぶん楽しめたし、これはごく一般的な評価でもあろう。
では、どうしてこちらの方が楽しめたのかと言えば、それはやはり、本作の方が、登場人物が、よほど活き活きしていたからであろう。

(本編の主人公、グスタヴ・H

もちろん、人形アニメ(ストップモーション・アニメーション)である『犬ヶ島』に比べて、生身の俳優が演じる本作『グランド・ブダペスト・ホテル』の方が「活き活きしている」というのは、当然のことであろう。
一一しかしながら、監督に「活き活きした登場人物」を描きたいという気持ちがあったのなら、それは『犬ヶ島』でだってできたはずで、人形アニメだから「活き活きしたものにはならない」ということはない。

実際、「アニメーション」とは、聖書の「創世記」において、神が土塊から作ったアダムの鼻の穴に息(生気=魂)を吹き込むのと同じで、死物に「魂を吹き込む=魂(アニマ)化する」という意味であり、多くの人形アニメ作家たちは、その原義どおりに、人形を活き活きと活躍させることに注力して、それ相応の成果を上げてきたのである。

では、どうして、アンダーソン監督の『犬ヶ島』は、活き活きしたものになっていないのだろうか?

それは、ほぼ間違いなく、アンダーソン監督は「ごく当たり前の活き活きした登場人物」を描きたくはなかった、からであろう。

というのも、実写映画である本作『グランド・ブダペスト・ホテル』の登場人物さえ、どこか「パペット(操り人形)」めいだものに表現されていると、私にはそのように感じられたからである。

(ホテルの得意客である大金持ちマダム・D。いかにも人形めいたメイクではないだろうか)
(グスタヴ・Hは、マダム・Dほか、多くの寂しい老人の得意客の、夜のお相手までして、お客に尽くす。それは金儲けのためではなく、心からお客様に喜んでいただきたいというプロフェッショナル意識からなのだ。そんな彼だから〝伝説のコンシェルジュ〟と呼ばれることにもなった。ただし、彼のこうした職業倫理は、今では通用しないし、世間の理解も得られないだろう)

喩えて言うならば、「リアルな人間」ではなく、歌舞伎のように「形式化された人間」。
しかしまた、歌舞伎のような「誇張(過剰)」の方向ではなく、その逆に「人形化」めいた「生々しさの縮減」的なものを感じられるのだ。
言い換えれば、アンダーソン監督は、「生身の人間」が描きたかったのではなく、「物語の中の(生々しさを失った)人間」が描きたかったのではないか。
そして、この推察の根拠としては、まず第一に、

(1)本作のテーマは「古き良き時代の人間への郷愁と哀悼」

だという点が大きい。

つまり、今の目から見れば、いろいろ「問題がある」と評価されるだろう〝伝説のコンシェルジュ〟グスタヴ・H のことを、ほぼ全面的に肯定的に描いていたのは、アンダーソン監督の中に、「今なら問題がある」とわかっていながらも「それでも、昔には昔なりの、私たちが失ってしまった、人間的美質があった」のだという、強い思いがあったためではないだろうか。

実際、ある老人が小説家に語った、グスタヴ・H についての回顧譚は、

「グスタヴ・H 自身、自分の求めるものが、すでにその同時代には失われていたのを自覚していて、それだからこそ、かえってそれを求めた人だったのだと思う」

という趣旨の、ほとんどアンダーソン監督の「内面吐露」に等しい、老人の語りで締め括られるのだ。

(右が元ベルボーイのゼロで、今はホテルの所有者の老人ミスター・ムスタファ。左は、その回顧譚を聞いて、のちに本にした作家の若き日。このシーンはすでに、老いた作家の回想シーンである)

つまり、アンダーソン監督の中にも、そういう「古き美徳を持つ存在」というのは、あくまでも「今の時代から回顧すれば、そのように(純粋なものとして)見える」のであって、たぶん「同時代の人にとっては、必ずしも、そんなに良いばかり、美しいばかりのものでもなかった」だろうという意識も、同時にあったはずなのだ。
アンダーソン監督自身が憧れを抱く「古き良き時代」や「古き美徳に生きた人」というのは、所詮、監督自身の「憧れ」の中にしか存在しないということを、監督自身、自覚していたのではないだろうか。

また、だからこそそれは、「リアル」なものではなく、「昔話」のような「枠」の中で、その「登場人物」たちによって演じられるものでなければならなかったのではないか。そういう「虚構世界を画定する枠」の中では、彼らは「虚構の人物としてリアル」たり得ると、そう考えられたのではなかったか。

その証拠と言えるのが、

(2)本作が「二重」または「三重の枠物語」という、念入りさである。

つまり、本作は「小説家の回顧譚の中で語られる、ある老人の回顧譚」の物語なのだ。
そして、そもそも本作が、「映画」という「枠」内における「物語としてのフィクション」であるとすれば、本作は「三重に虚構化された世界」を描く作品となっているのだ。
だから、アンダーソン監督らしい「絵本のような美しくも、平面的な風景」も、一種の「自然」だし、そこで活動する登場人物たちが、どこか人間的な生々しさ(リアル)を欠いて「人形めいた」ものであるのも、ごく自然なことなのではないか。
それは、特に厳重に枠付けされた「老人の回顧譚」の中、虚構の深奥部であれば、尚更そうだということである。

(本作のマクガフィンである名画『少年と真珠』。これも、さらに「額縁の中」である)

そして、こうした観点から、『犬ヶ島』を顧みれば、この作品を評して私の指摘した「ジャポニスム(日本趣味)」というのもまた、一種の「懐古趣味」だったのである。

つまり、アンダーソン監督は、「今の日本」が、『犬ヶ島』で描いたようなものではないということを百も承知で、すでに失われた「イメージの中の、古き良き日本」を描きたかったのだろうし、それが「現代社会」によって追いやられ、失われてしまったものだという意識があるから、その対比物として「未来的な都市風景」や「荒涼とした犬ヶ島の風景」をも描いたのではないだろうか。

私が『犬ヶ島』に感じた、最大の「違和感」とは、どう見ても肯定的に描いているようにしか見えない、「人と犬との主従関係」だったのだが、この点も、アンダーソン監督の「懐古趣味」ということを考えれば、あっさりと説明がつく。

つまり、アンダーソン監督は、『犬ヶ島』の主人公である少年・小林アタリが、犬ヶ島で出会った犬たちと、「対等な関係」を結ぼうとはせず、「昔ながらの主従の関係」を結ぼうとして、投擲した棒を「取ってこい」と命じたりするのは、アンダーソン監督が、そうした「愛ある主従関係」というものを肯定していたからで、それは本作『グランド・ブダペスト・ホテル』を見れば、明らかなのだ。
つまり、本作『グランド・ブダペスト・ホテル』で描かれるのも、グスタヴ・H と、その「弟子」である新人ベルボーイであるゼロの「師弟かつ親友関係」が、まさにそれと類比的なものだったのである。

(ゼロとグスタヴ・Hの師弟)

したがって、私が『犬ヶ島』にあまり共感できなかったのも、それは、そこで描かれていたものもまた、「階級社会の中にもあった、人間関係における美徳」だったからなのではないか。

また、アタリ少年が「犬ヶ島」で出会った犬たちの中で、唯一「チーフ」という名の黒犬だけは「独立自尊」を掲げて、アタリ少年に従うことを良しとせず、何かと反抗したものの、結局は、アタリ少年との友情を育むことになるという物語の展開も、この「チーフ」的な「現代意識」、つまり「平等意識」が、人間関係を「貧しいものにしている」という意識が、アンダーソン監督にあったためではないだろうか。

そして、私が『犬ヶ島』に共感できなかった、たぶん最大の理由は、そうした「古き良き上下関係への憧れ」みたいなものが、私にはほとんど無く、むしろ私には「何様であろうと、同じ人間だ」という「チーフ」的な意識が、並みはずれて強いからではないか。
だからこそ私は、「群れる」のが大嫌いだし、有力者や有名人に「媚びる」のも大嫌いなのだと言えよう。

したがって、私も『犬ヶ島』よりは『グランド・ブダペスト・ホテル』の方を、かなり高く評価してはいるものの、こちらとても、諸手を挙げて絶賛するほどではないというのは、その「ほとんどありもしなかった過去」への郷愁の強さが、私の趣味ではなかったからであろう。

(映画冒頭に登場する「グランド・ブダベスト・ホテル」の全景イメージイラスト)

もちろん、私だって、たとえば「高倉健的な日本人の(ストイックな=サムライ的な)美徳」みたいなものには郷愁を感じるし、それが失われたことを嘆く気持ちもある。
例えば「アンチ資本主義リアリズム」といったかたちで、そういう気持ちを表現したことも何度となくあるけれど、しかし私の場合には、そうした「過去への郷愁」は、それがメインではなく、むしろ、それを「現状への批判」の根拠とするとことの方に重点が置かれている。
そのあたりが、私とウェス・アンダーソン監督との、決定的な違いであり、対極性なのである。

言い換えれば、私にも「こんな師弟関係が結べれば、どんなにありがたいことだろう」という気持ちがないわけではないけれども、そのように感じる一方で、そう感じてしまう自分を「なにを泣き言を言っているのか」と批判し、叱咤する自分も、ハッキリとある。
「ありもしなかった過去を懐かしむのではなく、それを少しでも未来に取りもどすように闘えよ」というのが、私の趣味なのだ。

だから、アンダーソン監督の気持ちもわからないではないものの、その方向性には、基本的に反対せざるを得ないし、一抹の嫌悪も否定できない。

私は基本的に、「泣き言」が大嫌いなのである。



(2024年12月21日)


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