サマンタ・シュウェブリン 『救出の距離』 : 「超自然」を超える「日常に潜むもの」
書評:サマンタ・シュウェブリン『救出の距離』(国書刊行会)
どう紹介すればいいのか、なかなか悩ましい作品である。いい作品であるのは間違いないのだが、当たり前のエンタティンメント小説ではないから、それを期待して読むと、きっと裏切られることになる。かと言って、いわゆる「純文学」的な作品ではない。形式としては「幻想小説系ホラー」とでも呼ぶべき作品なのだ。
そうした「内容」を扱いながら、「筆法(書き方)」は極めて「文学的」なのである。しかも、その筆力は確かだから、作者が文学の世界で高く評価されたというのは、十分に納得できるところだ。
ちなみに、ここで言う「文学の世界」とは、日本とは違って、海外の事情を指しており、平たく言うと「文学作品とエンタメ小説の区別のない」ところの「文学」である。
そんなわけで、しごく大雑把に言えば、本作は、内容は「ホラー」、筆法は「文学」、テーマは「社会派」ということになるだろう。一一そうなのだ。意外なことに本作は、「社会派的なテーマ」を内包しているのだ。
だがまた、それにもかかわらず、それをわかりやすく声高に語ることはなく、「ホラー」的な超自然も絡めながら、惻々とした「恐怖」を盛り上げているのである。
だから、「わかりやすいエンタメ小説」を期待する向きには、おすすめ出来ない。我慢して最後まで読んで「結局、なんだったんだよ!?」ということになりかねないからである。
だがまた、本作は、そういう作品ではないのだ。本作は「あれが襲ってきて、それと闘って、こうなりました」というような作品ではなく、言うなれば、私たちの生きている世界が、いかに不安定で当てにならないものかという、そんな「恐怖」を描いているのである。
つまり、本作における「恐怖」の対象とは、「超自然」的なものではなく、私たちが当たり前に生活している「この世界」に常日頃から潜んでいるものなのだ。
それがいつ牙を剥いて私たちに襲いかかってくるのかわからないし、それに襲いかかられた時には、私たちがいかに無力な存在なのかを描いているとも言えるだろう。つまり、私たちは、それと闘うことができず、その存在に気づいた時には、すでにそいつの餌食になっているという、そうした種類の、リアルな危機であり、その「恐怖」なのだ。
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本作は、冒頭から三分の一くらいまでは、どこで何が起こっているのかよくわからない描写が続く。
感じとしては、真っ暗とは言わないまでも、ほとんど真っ暗な部屋の中で、語り手の女性が、これまでの経緯を思い出しながら話しており、それを話すように促している少年らしき人物は、妙に大人びていて、尋常な感じではない。
だが、その尋常でならなさが、超常的な力を感じさせて、語り手の女性を襲ったのであろう不幸について、解決の糸口を与えてくれそうなのだ。だから、女性は、少年の求めに応じて、これまで起こったことを語っているのである。
この冒頭から三分の一は、例えて言うなら、映画『ジョニーは戦場へ行った』(ダルトン・トランボ監督)の、ジョニーの語りに似た印象だ。一一と言えば、わかる人にはわかるかも知れない。
ジョニーは、ベトナム戦争に従軍して、そこで瀕死の重傷を負い、母国に後送される。
その重症とは、両腕、両脚を失い、顎を失って話すことができなくなったばかりではなく、視力も聴力も嗅覚も失ったのだ。わずかに残されたのは、体の表面の触覚くらいである。
だから、そんなジョニーによる一人称の語りにおいては、「現在の思考」と「過去の記憶」の境界が、極めて曖昧である。
なにしろ、現実を現実であると確認するための感覚器がほとんど失われているのだから、それが現実だと確認する方法がないに等しいのだ。
例えば、自分の体の上で、何かがモゾモゾと動いている。それでジョニーは「ネズミだ!」と思っても、そのネズミを追い払うどころか、ネズミがそこに本当に存在しているのか、単なる錯覚なのかの確認が、ジョニーにはできない。
なにしろ人間は、失った腕や脚に痛みを感じたりする(幻肢痛)くらいなのだから、触覚などというものは、きわめて当てにならない、あやふやなものでしかない。だから、触覚的に何かを感じた際には、人はそれを視覚において確認し、それでも物足りなければ、自覚的に触りに行って、その実在を確認するだろう。一一だが、ジョニーには、それをすることができないのだ。だから、自分の感じていることが、現実なのか錯覚なのか、あるいは記憶なのかの、区別がつかない。
ジョニーは、そんな「暗い想念の部屋」に閉じ込められたまま、誰か自分を「外の世界に連れ出してくれ」と、悲痛な声なき声をあげるしかないのである。
で、本作『救出の距離』における冒頭からの三分の一も、おおよそそういう感じなのだ。要は、それが現実に交わされている会話なのか、それとも語り手が、頭の中で交わしている妄想としての会話なのかが判然としない。こんな、妙に大人っぽい少年が実在するのか、それとも語り手が頭の中で作り上げたイメージに過ぎないのか、それがまったくわからない。
この冒頭からの三分の一では、主に四人の人物の名前が出てくるのだが、この四人の関係も、しばらくの間はよくわからない。
だが、それは三分の一を過ぎる頃にはじょじょにわかってくるし、どのような事件が起こったのかということもわかってくる。一一どうやら、この語り手の女性と少年との会話は、妄想ではないようなのだ。
なぜか妙に大人びた少年は、その女性から詳しく事情を聞くことで、そこで起こった「何か」の正体を突き止めようとしているようなのだ。
そして、物語が三分の二を過ぎた頃には、おおよその事情が判明してくる。
たしかに、その事件には「超常的な要素」も絡んではくるのだが、それは事件そのものとは直接の関係を持たない、脇筋にすぎない。
「事件」そのものには、「超常的な要素」は皆無だと言っても過言ではないだろう。
だが、「超常的なもの」ではなくても、その事件をひき起こしたもの(原因)は、私たちの日常にも潜む「見えない存在」として恐ろしい。原因が、超常的であるかに否かに関わりなく、それが私たちの生活を破壊するものであり、それでいて目に見えないものなのであれば、それは恐ろしいに決まっているのである。
少年は、語り手の女性の話の中から、事件の原因を発見する。だが、それは原因が分かったというだけであって、それで被害回復がなされるわけではないから、語り手の女性が救われるという結果をもたらすわけではない。
つまり、超常的な力を持ってしても、現実的な不幸や不運を覆すことはできなかったのである。
本作は、子供の安全を願う母親の、生々しい思いが非常によく描けていて、結構つらいところのある作品だ。
結論はわかっているのに、それでも私たちは、物語に「救い」を求めてしまう。
けれども本作は、「フィクションとしての救い」を与えてはくれない作品なのだ。
母親は、常に子供を、救いに行ける距離の内側に置いておきたいと思いながらも、当然のことながら、それは不可能事だ。そして、その隙を突いてくるのが、「現実の不幸」でもある。
私たちは、そうした「不可能性」のことを常に考えていては生きてはいけないから、それを日頃は忘れているのだが、「不幸」は、ある時、何の前触れもなく、そんな私たちを襲う。
そして、その結果は、その原因が分かったところで、決して取り返しのつかないものなのだ。
(2024年11月21日)
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