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エドマンド・バーク 『フランス革命についての省察』 : バークは なぜ〈二流思想家〉なのか

書評:エドマンド・バーク『フランス革命についての省察』(光文社古典新訳文庫、岩波文庫ほか)

「保守思想の父」と呼び慣わされているエドマンド・バークが、保守思想を持つ人に尊敬されるのは、言わば、当然のことであろう。しかし、バークが、一般的な意味での「思想家」としては、さほど評価されないのは、なぜだろうか。

バークの凄さというのは、何をおいても、フランス革命の行く末を見抜いた、その「洞察力」にある。
彼が、フランス革命初期の状況を観察した結果として「予言」してみせた「その後の悲惨な状況」というのは、じつに見事に的中し、この事実を否定する人は、まずいない。つまり、彼が、その調査能力と分析能力において、きわめて優れた「政治評論家」だったという事実は、思想の左右に関わりなく、多くの人の認めるところだと言えるのだ。

しかし、問題は、彼のこの「洞察力」が、何に由来するものか、ということである。
彼の、フランス革命の行く末に関する鋭い洞察は、彼が「人間」というものの性向を熟知する、老練な政治家だったからではないだろうか。
つまり、彼は、「観念的」な人ではなく「現実的」な人であり、「人間というもの」や「理想というもの」に対して、過剰な思い入れを持つ人ではなかった。善かれ悪しかれ、人間というものは「よく間違う」ものだと知っていたので、「理想」だの「観念」だのにとらわれての「暴走」を警戒し、地道で抑制的で無難な方法の重要性、言い変えれば「保守的」方法の重要性を説いたのではないだろうか。

つまり、バークの強みとは、彼の「人間通」にあったのだと言えよう。
「人間」というものに、過剰な期待を寄せない「リアリスト」という側面に、彼の強みはあったのだ。

しかし、「人間通の現実主義(リアリズム)」というのは、「思想」としては、あまり意味をなさないものである。なぜなら、それは基本的に「現状追認」でしかなく、「理想」を持たず、おのずと「積極的な改善の意志」を持たないからだ。

「思想」というものの存在価値は、現状では「欠点だらけの、人間という生物」を、いかに高めるか、改善するか、という問題について、その可能性と方向性を指し示す点にある。それが必ず成功するとは保証できないけれど、この方向なら、すこしは人間も進歩でき、より「多くの人の幸福」を実現できるのではないか、という「助言」としての力を持つのが、優れた「思想」なのだ。
だから、初手から「人間なんてこんなものだから、現状維持をすればいいのだ」というような考え方は、実際のところ「思想」の名に値しないのである。

もちろん、こう書くと「保守思想は、決して現状維持だけではなく、必要な改善を認めるもので、たんなる現状維持や復古の思想ではない」と言う、保守思想をお持ちの方も少なくないだろう。
しかし、「保守思想の持ち主」(以下「保守」)が、「改善」を行なおうとするのは、それをしなければ「現状維持が困難」な状況に立ち至り、いわば必要に迫られた場合だけであって、決して積極的に「改善」を行なおうというものではない。

つまり、現状の中で「虐げられている人たち」が「改善」の声をあげ、それがもはや無視できないレベルに立ち至って、初めて「仕方なしに」改善を始めるのである。
言い変えれば、「虐げられた人々」が、じっと堪え続けているかぎり、「保守」は、彼らの苦しみに配慮することを知らず、「改善」の必要性など、毛ほども感じはしないのだ。

本書『フランス革命についての省察』(『フランス革命の省察』)もまた同じで、バークが、なぜこれを書いたのかと言えば、それは、「フランスの王族や庶民の悲惨な状況に、心を痛めたから」ではなく、近隣のフランスで「革命」が起こり、その影響で、イギリス国内でも「革命」的な気運が高まってきたため、「保身的」な危機感に狩られ、そうした気運に冷水をかけるべく、「フランス革命の負の部分」を殊更に強調する本書を書いただけ、なのである。

言うまでもないことだが、「革命」というような急激な変更行為には、負の部分(リスク)はつきものである。革命とは「補修工事」ではなく、「解体新築」なのだから、リスクをともない、それなりの費用もかかって当然なのだ。
それに、単なる「建物」とは違い、「国家」というのは複雑多岐にわたる機構の総体なのだから、壊して建てると言っても、そんな簡単な話でないのは自明であろう。「新しい国家像(=設計図)」などというものは、抽象的にしか描けないものなのだから、現実に「新しい国家」を建てるとなれば、多くの現実的・手続き的問題が惹起されるというのは、予想に難くないのである。

だから、「革命後の建設途上の国家」とは、言うまでもなく「未完成の国家」であり「問題だらけの国家」である。つまり、革命直後の国家が「欠点だらけの国家」であるのは、必然的なことであって、その「過渡的混乱期」における欠点を「アラ探し」的に批判することは、情報さえ得ることができるのなら、さほど難しいことではないのだ。

じっさい、本書を読んでも、バークの「臆面のない(手放しの)自国制度の賛美」と「フランス革命国家へのアラ探し」は、意識的な好対照をなしており、それらの評価は、決して「中立客観的」な立場からなされたものではない。まさにそれは、イギリスの政治制度の現状を「防衛」し、「保守」するためになされた「政治的宣伝(プロパガンダ)」だったのである。

バークは元々「合法的な残虐行為を犯した元インド総督の弾劾演説」をしたり、「アメリカの独立戦争を擁護」したりした人なので、弱者の側に理解のある、リベラル寄りの政治家だと理解されていた。
そして、その彼をしても「フランス革命だけは、徹底的に批判されねばならないもの」だったと、そう傍目に映るから、「フランス革命」は、特別に「非人道的」で酷いものであったのだと、そう理解した人も少なくないのであろう。
しかし、これは間違いだ。バークは、本質的には「弱者に思いを寄せる」ような政治家ではない。

彼が「アメリカ」や「インド」の人々を支持し擁護したのは、所詮は「遠い異国」の話であり、「自分たちの現実生活(制度)を脅かすほどのもの」ではなかったからだ。
つまり、自分の生活に直接悪影響が及んで、損をするようなことでなければ、「物わかりの良いこと」も言えたのだけれど、「フランス革命」のように、自分たちの生活をひっくり返しかねない「直接的な危険」に対しては、彼は「自分自身とその階級」を守るため、その「既得権益」を守るために(つまり、弱者の救済を犠牲にしてでも)、「フランス革命の理想」つぶしに、全力を傾注しただけ、なのである。

喩えて言えば、火葬場の建築計画に対して、各地で住民の反対運動が起こった場合、彼はそれを「地域エゴ」だと批判するかもしれないが、自分の家の横に火葬場ができるとなれば、きっと反対するだろう、というようなことだ。
つまり「遠くの問題」なら「公正な判断」を語れるが、「近くの問題」だと途端に「自己中心的な判断」しか語れない、「ダブル・スタンダード」の人でしかなかった、ということである。

したがって、バークの語るところは、一貫した「思想的言説」などではなく、時と場合によって、どうにでも変わる「政治的(損得勘定的)言説」だと言うべきであろう。だからそれは、「思想」の名に値しないのである。

実際、本書の完訳版には明らかなとおり、彼の「自国賛美のレトリック」のくどさは、しばしば読みにくくなるほど鼻につくのだが、それと好対照に、「フランス革命政府への扱き下ろし」の方は、じつに「活き活きとしたもの」なのである。
要は、本書の狙いとは、「頭の悪い一般読者」向けの「印象操作」でしかなく、「中立公平な考察と評価」などではないのだ。
バークのこうした、政治家的な「臆面のなさ」は、次のような「自己評価」語りにも明らかであろう。

『 わたしには、長期にわたる観察とおおいなる公平さを維持することのほか、あなたにとくにお勧めする意見はほとんどありません。ですがこうした意見を語るわたしという人間は、権力の手先になることも、高位の人物の追従者になることもなかった人間で、いかなる行為においても、自分の人生の基本的な動向にそむくことを望まなかった人間です。公的な活動のほぼすべてを捧げて他者の自由を守るために戦ってきた人間です。暴政に対する怒りのほかには、消えない怒りも激しい怒りも心に感じたことのない人間です。ひどい抑圧が獲得している信用(※ つまり、フランス革命政府への信用)を失墜させようと、善い人たちが推し進める活動に加わりながら、みなさんの国(※ フランス)の問題について考察する時間を捻出してきた人間です。またそうしながら自分の日常の業務から逸脱することがなかったと確信している人間なのです。
 名誉も地位も報酬もほとんど望まない人間、それらに期待するものはほとんどない人間です。名声を軽蔑せず、汚名を恐れない人間です。あえて意見を述べることはあっても争いは避ける人間です。一貫性を保とうとしつつ、自分の目的の統一性を維持するために、手段を変えてその一貫性を維持しようとする人間です。自分が乗っている船の積み荷がいっぽうに偏りすぎて均衡が危うくなったときは、そのつりあいを保てるように自分の理性の持つ小さな重みでも役に立てようとする人間です。ここ(※ 本書)にあるのは、そんな人間の感情から生まれた意見なのです。』(光文社古典新訳版・P536〜537)

つまり、「私は、聖人君子です」だから「本書には、政治的・党派的・階級的な意図はなく、あくまでも公平中立かつ客観的に書かれたものであるということを、まるまる信用してください」ということだ。

まともな理性を持つ人なら「臆面もなく、よく言うよ。このたぬきオヤジが」と思うのだが、しかし、バークが「保守思想の父」だということで、「教祖」扱いにして、権威付けしたい妄信者たちは、こうした言葉すら鵜呑みにすることもできるのであろう。

そして、そうした妄信者たちによって、本書は「保守主義の聖典」に祭り上げられているわけだが、同じ「信仰」を持たない者にとっては、これは「現実を描いていない、偏頗な信仰の書」であり「政治的宣伝(プロパガンダ)の書」だということになって、おのずと「思想」書とは呼び難いのである。


初出:2020年10月7日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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