小津安二郎監督 『秋日和』 : うす汚れた男たちの相互承認
ひさしぶりの小津作品は、最後から3作目となる晩年のカラー作品『秋日和』。
この作品で、なんといっても目を惹くのは、かの原節子が「母親役」を演じている点であろう。
里見弴の原作の映画化作品だということだが、例によって、映画の原作というのは、しばしばアイデアメモ程度のことも多く、この作品も、どこからどう見ても小津安二郎の作品そのもの。
と言うか、製作会社である松竹の紹介サイトでさえ、本作のことを、
と書いているほどなのだ。
無論、細部に違いはあるけれど、それを言えば、リメイク作品には多かれ少なかれ、オリジナルとは違うところがあるし、そうでなければ意味もないだろう。
むしろ、当時、文壇の大御所であった里見弴に原作を求めながら、いつもどおりに小津安二郎と野田高梧の二人で脚本を練り、小津が撮ったら、いつもの小津作品になりましたというところが、小津安二郎の個性として、興味深いと考えるべきだ。
ちなみに、『晩春』の「原作」者は、こちらも当時の有名作家・広津和郎である。
つまり、まったく別の作家の原作が、映画になると「大差なかった」ということなのだ。
しかし、それでも存在した、『晩春』とのストーリー上の違いとは、どのようなものであっただろうか。
『晩春』の場合は、娘(原節子)が適齢期を過ぎようとしているのに、父のことを思って結婚の意志を保てないでいることを心配した父親(笠智衆)が、自分が再婚するというフリをして、娘に結婚の決断を促すというお話になっている。
ところが、本作『秋日和』の方は、母親・秋子(原節子)は、適齢期を迎えた娘・アヤ子(司葉子)の結婚を望んでいるものの、やはり娘は、母を一人で残して結婚などできないと頑張っているところに、母親の亡き夫の親友だった男3人組が、娘を結婚させるためには、まず母親の方も結婚させて娘を安心させるしかないなどと画策したことから、あれこれ揉めはしたものの、最後には娘も結婚を決意し、母親は望んで独り身のまま家に残るという展開になっている。
つまり、『晩春』の場合は、父親が娘のための「ひと芝居うつ」のだが、『秋日和』の場合は、亡夫の旧友の男3人組(間宮・田口・平山)、つまり言うなれば「他人」が、亡友の娘・アヤ子の方を、良かれと考えて騙すかたちになり、そののちには、秋子もその嘘に何となく乗ったような雰囲気を出して、娘アヤ子に結婚の決断をうながし、アヤ子がその覚悟を決めた後には、自分は再婚はしないと、そう娘に伝えるのである。
したがって、両作は「娘が、自分が結婚してしまうと片親だけが残されると、結婚を拒んでいる」という点では同じなのだが、その「片親」が再婚をすると言って騙し、娘に結婚の決意を促す役回りは、『晩春』の方では、父親本人であり、『秋日和』の方では、亡父の友人の男3人組というふうに違っている。
そしてその点では、『秋日和』の方の「亡父の友人の男3人組」の「親切」は、かなり「お節介」や「出過ぎた真似」という印象が強く、今の女性が見れば、その「家父長制」的な家族観を自明のものとしたあれこれの発言も含めて、そうとう「嫌な印象」を受けるはずだ。
かく言う男の私でさえ、「何だ、こいつら」と思い、それでも「昔はこんな感じの男も多かったんだろうな」と思ったほどだからである。
例えば、こんな具合だ。
本作の「あらすじ」は、次のとおりである。
この「あらすじ」紹介の後半に書かれているとおり、3人組は、まず母親の方を結婚させてという目論見から、手直な独身者である平山に「お前、どうだ?」と促し、当初は「死んだ親友の奥さんと再婚するなんて不人情だ」などと拒絶していた平山も、本当は美貌の未亡人である秋子には惹かれていたし、息子に「お父さんの再婚をどう思う?」と尋ねたら、意外にも歓迎されたので、当人もどんどんその気になってゆき、言い出しっぺの田口に「話を進めてくれ」と急っつくほどになる。
ところが、田口が秋子にその話をしに行くと、そんな話をするまでもなく、秋子が亡夫との思い出話ばかりをノロケのように聞かせるので、これではとても再婚話など持ち出せないと、田口はほうほうの体で退き上げてきた。
だか、すっかりその気になってしまった平山は、間宮に何とかしてくれと頼むので、間宮は、母親の方は一時おいておいて、娘の方の話を進めようと考えた。それは、娘のアヤ子が、間宮が一度は薦めて断られたはずの、部下の後藤と付き合っているのを知っていたからである。
それで、間宮はアヤ子を呼び出し、後藤の話を持ち出して、当人どおしが好き合っているのならそれでいいじゃないかと迫るのだが、やはりアヤ子は母のことが心配で、「好きであることと結婚することとは、別であってもいいと思っている」というので、間宮はつい、母親の秋子さんだって、いつまでも独りでいるとは限らないのだしと漏らしたところ、アヤ子から「そんな話があるんですか?」と反問されて、つい「無いわけでもない」と答えたために、アヤ子は、自分の知らないところで、母も承知の上でそんな話が進んでいるのだとすっかり誤解して母親と喧嘩になり、それを親友の百合子に話すと、それはあなたの身勝手だと逆に批判されて、こちらとも喧嘩になってしまう。
しかし、事情を知った百合子が、3人組に「どうして仲の良い母娘を揉めさせるような嘘をつくのだ」とねじ込んだ結果、3人が心から母娘のことを思ってやったことだと知って、矛を納め、かえって3人に協力するようになる。
そして、アヤ子の方は、早くに母を失っている後藤からも「お母さんと喧嘩しちゃあいけない。きっと後悔することになる」と諌められて反省し、結婚を決意することになるのである。
一一さて、以上の物語において、私が引っかかりを覚えたのは、
の部分である。
というのも、そもそも、私の受けた印象からすれば、3人組の「母娘への親切」は、いささか「興味本位のお節介」という印象が強いからだ。
たしかに「亡き親友の妻娘」だとは言っても、その「亡き親友」の六回忌だかの法要の後、この3人組が酒を飲みながら話すのは、すでに紹介したとおりの、母と娘では「どっちがタイプだ?」という、いささか下世話な話に始まるものなのだ。
まあそこは、男だけの仲間内の会話として目をつむるとしても、この二人が母娘の結婚の世話をしてやろうと考えた動機のひとつは、間違いなく、どちらもが「独り身にしておくにはもったいない、美人だ」ということがあるからである。
つまり、母娘が不美人であったなら、そんな「親切心」は起こさなかったであろうと感じられるところで、彼らの親切心とは、所詮「不幸な人間」に対する親切心でもなければ、「亡き親友の妻娘」への親切心でもなく、「美人母娘」に対する「興味本位の親切ごかし」という側面が否定できないのである。
実際、こうした結婚話を進める3人は、しばしば「面白い」という言葉を発し、「面白かったな」と語るのだ。
このようなわけで、この3人組が、単に「家父長的な、無自覚に女性蔑視のある男性」であるからダメだというような「通俗フェミニズム」的な批判ではなく、私はこの3人を、「人間」として「軽率であり不届きだ」と感じて、不愉快になったのである。
ところが、そんな3人の行いを『彼らの説明を聞いてようやく百合子の誤解も解け』と表現するのは、「違うだろう」と私は思うのだ。
むしろ、百合子が最初に感じた「遊び半分の不真面目さ」は、決して「誤解」などではなかったと、そう感じるのである。
実際、私が本作を見たDVDは、小学館の「小津安二郎名作映画集」第10巻『秋日和+母を恋はずや』でなのだが、これに「悪いおじさんたちの話」と題する内田樹によるエッセイが収められているのおり、内田はそこで、この3人組を「悪いおじさんたち」を評した上で、しかし私の評価とは違って、結局は「悪いおじさんたち」を是認した小津安二郎を『大人』だとして、追認・支持しているのである。
短文なので、誤解のないように、全文収録しておこう。
つまり、内田樹は、小津安二郎が、自分も『品性』下劣な男たちの一人だという自覚において、それをあえてそのまま描くことを選んだ点をもって、『大人である。』と言って褒めている。だが、それでいて内田は、自分もそんな「品性下劣な人間の一人」だとまでは、認めていないのだ。だから、この褒め方は、いかにも偽善的で、品性下劣である。
内田樹は、「品性下劣な男たち」を批判せずに「そのまま描いた」小津安二郎のリアリズムやら正直さやらを『大人である。』と高く評価しているのだが、私に言わせれば、その『大人』とは、「昔の大人の男性」であり「昔の品性下劣な大人」でしかない。
こういう「品性下劣な大人」とは、何も男性にばかりは限られないし、無論、昔の人ばかりではない。一一その証拠が、内田樹その人の存在なのである。
私は現在、「武蔵大学の教授」で自称・フェミニストの北村紗衣を批判しているけれど、しかしその批判は、決して「フェミニズム」そのものへの批判ではなく、北村紗衣のそれが所詮は「えせフェミニズム」である「リーン・イン・フェミニズム」にすぎないと考えているからである。
実際、昔から「フェミニズム嫌い」で知られる内田樹を、私はその点でも批判してきたのだから、内田がこのエッセイで、「悪いおじさんたち」を擁護するその小津安二郎を擁護するのは、『「おじさん」的思考』と題する著書もあるご当人が、リーン・インした「悪いおじさん」でもある以上、当然のことだったのであろう。
そんなわけで、私としては『晩春』の方は評価できるけれども、本作『秋日和』はあまり評価できない。3人組に好意的な描写が、いかにも不愉快だからだ。
悪人ではないにしろ、いささか品性下劣な、この「悪いおじさん3人組」を、なにも「結局は親切で思いやりのある人たち」だったと言わんばかりに描く必要などなかったはずだ。彼らは相応に、最後にはギャフンと言わされて然るべきだったのだ。
それでも、物語的には、なんの差し障りも無かったからである。
(2025年1月23日)
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