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小津安二郎監督 『秋日和』 : うす汚れた男たちの相互承認

映画評:小津安二郎監督『秋日和』1960年・松竹映画)

ひさしぶりの小津作品は、最後から3作目となる晩年のカラー作品『秋日和』
この作品で、なんといっても目を惹くのは、かの原節子が「母親役」を演じている点であろう。

(未亡人・秋子)

里見弴の原作の映画化作品だということだが、例によって、映画の原作というのは、しばしばアイデアメモ程度のことも多く、この作品も、どこからどう見ても小津安二郎の作品そのもの。
と言うか、製作会社である松竹の紹介サイトでさえ、本作のことを、

『晩春』を、父娘関係を母娘に置き換えてカラー化した作品とも言える。』

と書いているほどなのだ。

無論、細部に違いはあるけれど、それを言えば、リメイク作品には多かれ少なかれ、オリジナルとは違うところがあるし、そうでなければ意味もないだろう。
むしろ、当時、文壇の大御所であった里見弴に原作を求めながら、いつもどおりに小津安二郎野田高梧の二人で脚本を練り、小津が撮ったら、いつもの小津作品になりましたというところが、小津安二郎の個性として、興味深いと考えるべきだ。

ちなみに、『晩春』の「原作」者は、こちらも当時の有名作家・広津和郎である。
つまり、まったく別の作家の原作が、映画になると「大差なかった」ということなのだ。

(いつもの構図)

しかし、それでも存在した、『晩春』とのストーリー上の違いとは、どのようなものであっただろうか。

『晩春』の場合は、娘(原節子)が適齢期を過ぎようとしているのに、父のことを思って結婚の意志を保てないでいることを心配した父親(笠智衆)が、自分が再婚するというフリをして、娘に結婚の決断を促すというお話になっている。

ところが、本作『秋日和』の方は、母親・秋子原節子)は、適齢期を迎えた娘・アヤ子司葉子)の結婚を望んでいるものの、やはり娘は、母を一人で残して結婚などできないと頑張っているところに、母親の亡き夫の親友だった男3人組が、娘を結婚させるためには、まず母親の方も結婚させて娘を安心させるしかないなどと画策したことから、あれこれ揉めはしたものの、最後には娘も結婚を決意し、母親は望んで独り身のまま家に残るという展開になっている。

(母親思いの娘・アヤ子)

つまり、『晩春』の場合は、父親が娘のための「ひと芝居うつ」のだが、『秋日和』の場合は、亡夫の旧友の男3人組(間宮・田口・平山)、つまり言うなれば「他人」が、亡友の娘・アヤ子の方を、良かれと考えて騙すかたちになり、そののちには、秋子もその嘘に何となく乗ったような雰囲気を出して、娘アヤ子に結婚の決断をうながし、アヤ子がその覚悟を決めた後には、自分は再婚はしないと、そう娘に伝えるのである。

したがって、両作は「娘が、自分が結婚してしまうと片親だけが残されると、結婚を拒んでいる」という点では同じなのだが、その「片親」が再婚をすると言って騙し、娘に結婚の決意を促す役回りは、『晩春』の方では、父親本人であり、『秋日和』の方では、亡父の友人の男3人組というふうに違っている。

そしてその点では、『秋日和』の方の「亡父の友人の男3人組」の「親切」は、かなり「お節介」や「出過ぎた真似」という印象が強く、今の女性が見れば、その「家父長制」的な家族観を自明のものとしたあれこれの発言も含めて、そうとう「嫌な印象」を受けるはずだ。
かく言う男の私でさえ、「何だ、こいつら」と思い、それでも「昔はこんな感じの男も多かったんだろうな」と思ったほどだからである。
例えば、こんな具合だ。

田口「おれもどっち取るかって言やぁ、やっぱり、おふくろの方だな。ありゃァいいよ」
間宮「うむ。いい。ありゃァいい」
平山「それほどかなァ」

本作の「あらすじ」は、次のとおりである。

『亡き友の三輪の七回忌に集まった間宮佐分利信)、田口中村伸郎)、平山北竜二)の3人は、未亡人の秋子(原節子)とその娘アヤ子(司葉子)と談笑するうち、年頃のアヤ子の結婚に話が至る。間宮は美しいアヤ子を結婚させようと会社の部下の後藤佐田啓二)を紹介する。ふたりは互いに好意をもつようになるが、アヤ子は母を一人残して結婚することをためらっている。

男たちは、アヤ子を嫁ぐ気にさせるためにはまず母親を再婚させてしまうことが必要だと考え、妻をなくしていた平山と秋子を結びつけようとする。しかし、その話を間宮から聞いたアヤ子は、母親が再婚する気でいるのだと早合点して大きなショックを受け、相談に行った親友の佐々木百合子岡田茉莉子)とも仲違いしてしまう。

秋子から話を聞いて真相をつきとめた百合子は間宮らを一堂に会させて散々にやりこめる。彼らの説明を聞いてようやく百合子の誤解も解け、母娘の結婚話が進むことになる。しかし秋子は娘と2人で出かけた旅先で、自分は一人で生きていく決意を伝え、娘の背中を押す。

娘の結婚式を終え、アパートに戻った秋子は静かに微笑を浮かべるのだった。』

(Wikipedia「秋日和」

この「あらすじ」紹介の後半に書かれているとおり、3人組は、まず母親の方を結婚させてという目論見から、手直な独身者である平山に「お前、どうだ?」と促し、当初は「死んだ親友の奥さんと再婚するなんて不人情だ」などと拒絶していた平山も、本当は美貌の未亡人である秋子には惹かれていたし、息子に「お父さんの再婚をどう思う?」と尋ねたら、意外にも歓迎されたので、当人もどんどんその気になってゆき、言い出しっぺの田口に「話を進めてくれ」と急っつくほどになる。

ところが、田口が秋子にその話をしに行くと、そんな話をするまでもなく、秋子が亡夫との思い出話ばかりをノロケのように聞かせるので、これではとても再婚話など持ち出せないと、田口はほうほうの体で退き上げてきた。
だか、すっかりその気になってしまった平山は、間宮に何とかしてくれと頼むので、間宮は、母親の方は一時おいておいて、娘の方の話を進めようと考えた。それは、娘のアヤ子が、間宮が一度は薦めて断られたはずの、部下の後藤と付き合っているのを知っていたからである。

(左奥から、間宮、田口、平山)

それで、間宮はアヤ子を呼び出し、後藤の話を持ち出して、当人どおしが好き合っているのならそれでいいじゃないかと迫るのだが、やはりアヤ子は母のことが心配で、「好きであることと結婚することとは、別であってもいいと思っている」というので、間宮はつい、母親の秋子さんだって、いつまでも独りでいるとは限らないのだしと漏らしたところ、アヤ子から「そんな話があるんですか?」と反問されて、つい「無いわけでもない」と答えたために、アヤ子は、自分の知らないところで、母も承知の上でそんな話が進んでいるのだとすっかり誤解して母親と喧嘩になり、それを親友の百合子に話すと、それはあなたの身勝手だと逆に批判されて、こちらとも喧嘩になってしまう。

(3人の中では、一番しっかりしている間宮)

しかし、事情を知った百合子が、3人組に「どうして仲の良い母娘を揉めさせるような嘘をつくのだ」とねじ込んだ結果、3人が心から母娘のことを思ってやったことだと知って、矛を納め、かえって3人に協力するようになる。

(アヤ子の同僚で友人の、佐々木百合子)
(呼び出された3人は、百合子から厳しい難詰を受ける)

そして、アヤ子の方は、早くに母を失っている後藤からも「お母さんと喧嘩しちゃあいけない。きっと後悔することになる」と諌められて反省し、結婚を決意することになるのである。

(後藤とアヤ子のラーメンデート。後藤から「お母さんと喧嘩しちゃいけない」と諌められる)
(結婚前最後の母娘旅行)
(独りになった家で、静かに微笑む秋子)

一一さて、以上の物語において、私が引っかかりを覚えたのは、

『秋子から話を聞いて真相をつきとめた百合子は間宮らを一堂に会させて散々にやりこめる。彼らの説明を聞いてようやく百合子の(※ 3人組への)誤解も解け』

の部分である。

というのも、そもそも、私の受けた印象からすれば、3人組の「母娘への親切」は、いささか「興味本位のお節介」という印象が強いからだ。

たしかに「亡き親友の妻娘」だとは言っても、その「亡き親友」の六回忌だかの法要の後、この3人組が酒を飲みながら話すのは、すでに紹介したとおりの、母と娘では「どっちがタイプだ?」という、いささか下世話な話に始まるものなのだ。

まあそこは、男だけの仲間内の会話として目をつむるとしても、この二人が母娘の結婚の世話をしてやろうと考えた動機のひとつは、間違いなく、どちらもが「独り身にしておくにはもったいない、美人だ」ということがあるからである。

つまり、母娘が不美人であったなら、そんな「親切心」は起こさなかったであろうと感じられるところで、彼らの親切心とは、所詮「不幸な人間」に対する親切心でもなければ、「亡き親友の妻娘」への親切心でもなく、「美人母娘」に対する「興味本位の親切ごかし」という側面が否定できないのである。
実際、こうした結婚話を進める3人は、しばしば「面白い」という言葉を発し、「面白かったな」と語るのだ。

(結婚式場での写真撮影の二人)

このようなわけで、この3人組が、単に「家父長的な、無自覚に女性蔑視のある男性」であるからダメだというような「通俗フェミニズム」的な批判ではなく、私はこの3人を、「人間」として「軽率であり不届きだ」と感じて、不愉快になったのである。

ところが、そんな3人の行いを『彼らの説明を聞いてようやく百合子の誤解も解け』と表現するのは、「違うだろう」と私は思うのだ。

むしろ、百合子が最初に感じた「遊び半分の不真面目さ」は、決して「誤解」などではなかったと、そう感じるのである。

実際、私が本作を見たDVDは、小学館の「小津安二郎名作映画集」第10巻『秋日和+母を恋はずや』でなのだが、これに「悪いおじさんたちの話」と題する内田樹によるエッセイが収められているのおり、内田はそこで、この3人組を「悪いおじさんたち」を評した上で、しかし私の評価とは違って、結局は「悪いおじさんたち」を是認した小津安二郎を『大人』だとして、追認・支持しているのである。

短文なので、誤解のないように、全文収録しておこう。

悪いおじさんたちの話

 佐分利信中村伸郎北竜二笠智衆が演じる旧制中学高校の同級生たちが、銀座のバーや大川べりの料亭に集まって、さまざまな「悪戯」を企てるという話型は『彼岸花』に始まって、『秋日和』『秋刀魚の味』と繰り返される。あまり言う人はいないが、この「悪い男たち」定型を発見したことによって小津安二郎はその映画世界を完璧なものにしたと私は考えている。
 男たちは小津と同年齢であり、文化的バックグラウンドを共有している。「ルナ」や「若松」は、たぶん小津自身がふだん通っていた場所を再現しているし、そこで行き交う話柄も小津自身が友人たちと交わしていた会話に近い。そういう意味で、この男たちは小津安二郎の「アルターエゴ」である。
 けれども、小津の底知れなさは、この男たちを描く筆致のうちに、共感や親しみだけでなく、残酷なほどの写実が含まれていることにある。エリート教育を受け、戦争を生き延び、社会的成功を収めた男たちの、悠揚たる物腰から垣間見える「耐えがたい浮薄さ」を小津は見逃さない。
 例えば、学歴についてのこだわり。
『秋日和』では、アヤ子(司葉子)の見合いの相手を物色するときに田口(中村伸郎)が言い立てる「東大の建築を出て、いま大林組」という人物紹介の異様さに私たちは胸を衝かれる(実在の会社名がストーリーと無関係に映画の中で言及された例を私は他に知らない)。
 間宮(佐分利値)が推す花婿候補の後藤(佐田啓二)は「早稲田の政経」であることは桑野みゆきの歌う(※ 早稲田大学の)応援歌付きで紹介される。三人の「おじさん」たちは大学時代、「本郷三丁目」の薬屋の娘秋子(原節子)に岡惚れしたというエピソードを一つ話にしている。そこから彼らが東京帝大の卒業生であることが知られる。世間話の隙間に自他の学歴にすかさず言及するのは日本の高学歴男性の通弊である。
 間宮の目下のものに対する威圧的な態度も際立っている。「出かけるよ。ああ、車」「田口さん、いないの」だけで、「お願いします」も「ありがとう」もなく受話器を電話に叩きつける様子や、相手の腹具合も聞かずに昼から女性たちにオイリーな鰻を強要する間宮の横暴を小津はそのまま写し出す。
『秋日和』ではとりわけ初老の男たちの好色が副旋律として全編に絡みついている。「痒いところ」や「蛤」や若松の女将(高橋とよ)の性生活への執拗な言及はこの「おじさん」たちの品性のレベルを露呈させる。
 映画はアヤ子の結婚と秋子の再婚話を酒席の冗談に紛らわせて笑う男たちの場面から切り替わって、一人暮らしの秋子を気づかう百合子(岡田茉莉子)の短い訪問と秋子の無言のクロースアップで終わる。秋子の無表情には「耐えがたく浮薄な男たち」への絶望が刻み込まれている。だが、小津はその「絶望される男」の側にあえて踏みとどまる。小津安二郎は「絶望される男たち」の一人という苦い立ち位置から映画を撮っているのである。
 大人だと思う。』

つまり、内田樹は、小津安二郎が、自分も『品性』下劣な男たちの一人だという自覚において、それをあえてそのまま描くことを選んだ点をもって、『大人である。』と言って褒めている。だが、それでいて内田は、自分もそんな「品性下劣な人間の一人」だとまでは、認めていないのだ。だから、この褒め方は、いかにも偽善的で、品性下劣である。

内田樹は、「品性下劣な男たち」を批判せずに「そのまま描いた」小津安二郎のリアリズムやら正直さやらを『大人である。』と高く評価しているのだが、私に言わせれば、その『大人』とは、「昔の大人の男性」であり「昔の品性下劣な大人」でしかない。

こういう「品性下劣な大人」とは、何も男性にばかりは限られないし、無論、昔の人ばかりではない。一一その証拠が、内田樹その人の存在なのである。

私は現在、「武蔵大学の教授」で自称・フェミニストの北村紗衣を批判しているけれど、しかしその批判は、決して「フェミニズム」そのものへの批判ではなく、北村紗衣のそれが所詮は「えせフェミニズム」である「リーン・イン・フェミニズム」にすぎないと考えているからである。

実際、昔から「フェミニズム嫌い」で知られる内田樹を、私はその点でも批判してきたのだから、内田がこのエッセイで、「悪いおじさんたち」を擁護するその小津安二郎を擁護するのは、『「おじさん」的思考』と題する著書もあるご当人が、リーン・インした「悪いおじさん」でもある以上、当然のことだったのであろう。

そんなわけで、私としては『晩春』の方は評価できるけれども、本作『秋日和』はあまり評価できない。3人組に好意的な描写が、いかにも不愉快だからだ。

悪人ではないにしろ、いささか品性下劣な、この「悪いおじさん3人組」を、なにも「結局は親切で思いやりのある人たち」だったと言わんばかりに描く必要などなかったはずだ。彼らは相応に、最後にはギャフンと言わされて然るべきだったのだ。
それでも、物語的には、なんの差し障りも無かったからである。

(最初と最後の料亭のシーンで、障子窓から見える清洲橋


(2025年1月23日)


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