川野芽生 『Blue』 : 新しくて古い問題
書評:川野芽生『Blue』(集英社)
本作は「第170回(2023年度下半期)芥川賞候補作」となるも、受賞には至らなかった作品である。
内容としては、「トランスジェンダー」である主人公の「生きにくさ」のその葛藤を描いた作品と言えるだろう。著者自身が「トランスジェンダー」であるらしいから、かなり自身の体験的な思いを反映した小説だと考えても良いと思う。
私はこれまでに著者の本を、下のような順で3冊読んでいる。
・『月面文字翻刻一例』(書肆侃侃房、2022年10月)
・『Lilith』(書肆侃侃房、2020年9月)
・『奇病庭園』(文藝春秋、2023年8月)
上の3本のレビューを読んで貰えばわかるとおり、私は川野芽生という作家を非常に高く評価しているし、1本目の『月面文字翻刻一例』のレビューを書いた段階で、川野がトランスジェンダーであることも知った。
私はもともと、「差別」というものに、人並み以上の興味を持ってきた人間である。それは、私自身が差別される側の人間だったからではなく、小学生の頃、障害のある人をからかったという、後になって随分と悔やまれた記憶を持っているからだ。
その時、その人を傷つけた事実は、もはや取り返しがつかない。10年以上も経ってから反省して、つき合いもないその人に、いきなり「あの時はごめんね」などと言ったところで、相手方が迷惑なだけだろう。また、たぶんそうした謝罪は、私が自身の良心の呵責から逃れるための、私自身のためのものでしかないないだろう。だから、反省したというのであれば、私は「差別」の問題に取り組まなくてはならない。それが私の「自己超克」であり、私にできる「罪滅ぼし」だと、そう考えたのである。
そんなわけで、「障害者差別」はもとより、「部落差別」、「人種(黒人、ユダヤ人、在日など)差別」、「同性愛者(などの性的マイノリティ)差別」などについて、私は私なりに勉強してきたし、そうした差別をする人たちを直接または間接に批判することもしてきた。
だから、本作で扱われる「トランスジェンダー」差別の問題も、私の中では、そうしたものの一種として捉えられ、特別に新しい話ではないという感じがある。だからこそ、川野芽生が、トランスジェンダーだと知った時も、特に驚きはなかった。
むしろ、川野の作品に見られる、過剰なまでの「耽美さ」というのは、例えば、私が好きな作家である中井英夫や赤江瀑、あるいは、装丁画家の村上芳正、人形師の辻村ジュサブローらの、男性「同性愛」作家のそれと一脈通じるもの、端的に言えば、ある種の「過剰なまでの耽美性」を連想させたからだ。
無論、「トランスジェンダー」と「同性愛」は別物であり、安易に同一視してはならないというのは当然の話だが、しかし、それらが無関係だとも思わないから、そこに共通点や相違点を見ていく姿勢とは、考えるという積極性において、肯定すべきことだと考える。今ある手札だけで満足していてはならないが、まだ手にしていない札は、切りようもないからだ。
いずれにしろ、公式に与えられた「定義」的なものを無難に唱えているだけというのは、ある意味では「敬遠」という差別の一種なのだと考えるべきだろう。
関わらなければ事故もない。しかし、この社会の問題に対して、傍観者の安全に止まる態度は、その不作為による、無自覚な加害なのだと、そう自覚すべきであろう。
ともあれ、「トランスジェンダー」と「同性愛」に共通点があるとしたら、それは両者ともに、「性」あるいは「性別」の問題であり、また、そうした社会的あるいは生物学的な属性において、「世間の常識」から外れた存在だという点であろう。
世間一般が「正常」あるいは「普通」だと考える「男は男だし女は女という二分法」や「異性愛」などから外れる、「肉体の性別と心の性別の矛盾」や「同性への性愛的欲望」といったことは、共に「異常」だとされ、否定されてきたわけだが、そうした世間の「排他性」によって、「この世では(当たり前には)手に入らないもの(あるいは、こと)」に対する希求が、おのずと強化された結果ではないか、などと私は考えているのである。
つまり、彼らの持つ「非常な美意識」は、安穏と生きてこられなかったが故に得た「痛ましい代償」であるという蓋然性も十分にあるのだけれども、だからといって私は、そこから無難に目を逸らすのではなく、理由はどうあれ、そうした「非常の美意識」もまた「稀有な恩寵」であると、肯定的に評価したいと思っている。「トランスジェンダー」であれ「同性愛者」であれ、そうであれば、皆が「特別な才能」を持っているというわけではないというのもまた、自明な事実なのである。
ともあれ、たとえその「美への希求」の過剰なまでの強さが、凡庸無難な私たちの微温的な美意識からすれば、時にグロテスクにさえ感じられたとしても、私はそれを「程度の違いでしかない」と、理性的に捉えるようにしている。
もちろんだからといって、自分の率直な感想として「美しい」と思えないものを、口先だけの「ことなかれ的な偽善」で「美しい」だなととは言わないが、それが明らな根拠を有する「美しくないもの(美に欠けたもの)」ではないのであれば、私はそれを「趣味の違い」だと評価する。同じ「甘いものが美味しい(好き)」と言っても、個人によって、好む「甘さの度合い」に違いがあることは否定できない事実だからだ。
そんなわけで、川野芽生が「男性の肉体を持って生まれてきながら、女性の心を持ってしまった」トランスジェンダーであるというのは、すぐに「理解」したのだけれど、川野の(「彼の」とか「彼女の」と書けないところが、難しい)写真を見た時、正直なところ、私は退いてしまった。
小説などの作品から受けるイメージは、やはり「繊細な女性」である。しかし、写真の川野は、どう見ても「女装した男性」にしか見えず、「中性的」とすら思えなかったから、お世辞にも「美しい」とは思えなかったのだ。
私は日頃から「身の程知らずの面食い」を自認しており、そうした態度は、川野に対しても「例外」を認めることはできなかったし、しないのである。
また、川野の場合、その顔貌だけではなく、そのフランス人形のごとき派手な服装(衣装)にも抵抗があった。
もともと、私は、よっぽど似合う女性以外は、ゴシックやロリータだのといったファッションは、日本人には似合わないと感じていた。例えば、私は、近年の美輪明宏の「ド派手なファッション」には、到底ついていけないものを感じていたが、それに似たものを川野芽生にも感じたのである。
だが、いうまでもなく、これは私個人の「感想」であり「好み」の話であって、それが良いとか悪いとかいう話ではない。ましてや「感性的に多数派であること」になど、何の意味も価値も感じない。
私は積極的な「個人主義者」であり「快楽主義者」でもあるから、その人が着たいと思うのなら、どんな服装でもすれば良いと思うし、他人や世間の「意見」や「目」など、過剰に忖度するべきないとも考える。
本作『Blue』で主人公も語るとおりで、「もう自分には、可愛い服は似合わない」というようなことは、たぶん川野自身、自覚しているところであろう。つまり川野は、「他人や世間の評価よりも、自分が着たいものを着る」という、意志的な選択をしているのだ。たとえ、それで、どのように評価されようと、陰口されようと、それは覚悟の上で、ああした「着たいものを着る」ということをしているのだと思う。
そしてこのことは、私が「言いたいことを言う」というのと、本質的には同じことなのだと思う。
つまり「世間ウケ」を気にして自分を偽るのではなく、たとえ「世間」や「常識」からの逆風にさらされることになったとしても、自分の自分らしさを貫くことを選択した結果が、川野のファッションなのだと思う。
だから、私は、川野芽生のファンションを、「美しいとは思わない」けれども、「間違ったことをしているとも思わない」。所詮、これは「趣味」の問題であり、「美意識」の違いであって、「多数決の正義」を黙って押しつけておくわけにはいかない、「社会正義」の問題でもあるのだ。
だが、「自身の美意識」を貫くというのは、一種の「社会的行動」であるからこそ、価値観を同じくしない「他者」との接触による軋轢は避けられない。
小説作品のような「別世界」が作れるのならともかく、この「現実世界」が一つしかないのであれば、私たちは誰しも「自分の価値観や美意識」を一方的に押しつけることはできない。多数派が少数派に押しつけるのは無論、少数派が多数派に押しつけることも許されない。
ならばそこで、必要かつ避けられないのは「自身の価値観や美意識」の「正当性」を論理的に説明し、それを持って「他の美意識や価値観」を持った人たちを「説得」して、その「美意識や価値観」を修正していくことしかないのである。
無論、これは、必ずこちらの価値観の方へと修正されるという保証はなく、時には、こちらの価値観を修正しなくてはならない場合もあるだろう。自身の「今の美意識や価値観」が絶対的に正しく「無謬」だなどと考えるのは「無反省な傲慢」であり、また、そうしたものに基づく「放っておいてくれ、こっちはこっちで勝手にやらせてもらう」というのも、許されるものではない。この世界は、そう簡単に「何分割」にもできるものではないし、「分割線たる境界」というのは、いつでも新たな紛争の火種であり、それは避け得ないことだからである。
だから、私たちは、これまで各種の「差別」「偏見」の問題と対してきたように、「トランスジェンダー」の問題とも、本気で対峙しなければならない。
心の中では「差別偏見」を持ち続けていながら、世間を無難にわたる便法として「私はトランスジェンダーの味方です」とか「あらゆる差別は許されない」などという「口先だけの綺麗事」で済ませてはならない。
「異見」があるのであれば、それはそれとして認め、その上で「どちらが正しいのか」「なにが正しいのか」ということを、この世界において、徹底的かつ非暴力的に追求しなければならない。
それを避けて無難に済ませることは、じつのところ「多数派の傲慢」であり、そういう輩に限って、自分たちが「優位にある時には、調子よく物わかりの良いことを言っている」のに、自分たちの権益を少しでも分け与えなければならないとなると、途端に議論すら拒絶する、「差別意識をむき出しにした、本音主義」へと転向してしまうものなのである。
したがって、本作を読む場合にも、「トランスジェンダー」を扱った作品だから、「わかりません」では済まされないし、「無難に褒めておこう」も許されない。
この作品が「芥川賞候補」として、「他者と同じ土俵」に上がってきた以上、作者は「トランスジェンダーを扱った作品だから、トランスジェンダーではない選考委員たちには、本作の切実さは理解できない」などと、言うつもりはないだろう。
川野芽生は、本作で「トランスジェンダー」である主人公の思いを語るだけではなく、それを読む「一般読者」はもとより「芥川賞選考委員」たちにも、その見識を問うているのだと考えるべきである。
そしてそこは、「馴れ合い」など許されない「美意識と価値観のアリーナ(闘技場)」と呼んでもいいのではないだろうか。
だから私は、川野芽生の作品としては「凡作」だと思える本作程度の作品が、なまじ芥川賞など受賞しなくて良かったと思っている。
「芥川賞」がそれほど「価値のあるもの」だと考えているということではなく、川野作品の中でも、特段よく書けた作品とも評価し得ない本作で、川野芽生が、その「特異なレッテル」によって、「社会的な権威」を得ることは、必ずしも好ましいことではないと考えるからだ。
川野が本作のような「新たなマイノリティ」を扱った、「昔ながらの純文学的小説」において、安易な承認を得たとしても、トランスジェンダーの理解が深まるということはないだろう。
単に「目新しい素材」を扱っているという「芥川賞」お得意の戦略に乗っただけ、ということにしかならないだろうと、そう思うからだ。
もちろん、私たちは「トランスジェンダー」というものの難しさを、よく学ばなければならない。けれども、それは「まったく新しい問題」でもなければ、過去の各種「差別」がいまだ解消されてはいないという現実のほうも、決して見落としてもならない。「トランシジェンダー」を、「珍種の動物」を楽しむかのごとく「消費」させるようなことになってはならない。「純文学」における「異色(特異経歴)作家」の話題性による「販促」の一種として、「トランスジェンダー」をあるいは、今後も発見されていくであろう、新たなマイノリティの存在を、「客寄せパンダ」として利用させてはならないのだ。
本作が「芥川賞」を受賞していれば、きっと、もっと売れだだろうし、読まれもしただろう。
だが、受賞を逸した途端に見向きもしなくなるというのが、「文学ファン」を自認するのであろう「芥川賞ファン」の平均水準であり、その現実なのだということを、私たちはゆめゆめ忘れるべきではないのである。
(2024年3月29日)
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