ダン・マクドーマン 『ポケミス読者よ信ずるなかれ』 : 日本よりも かなり遅れている。
書評:ダン・マクドーマン『ポケミス読者よ信ずるなかれ』(ハヤカワ・ミステリ)
私が本書を読むことにしたのは、竹本健治が推薦文を書いていたからだ。
「新本格ミステリ」の勃興期、つまり今から30数年前の1990年代前半には、竹本が日本の新人ミステリ作家のデビュー作に推薦文を寄せることがままあった。最近はそれもあまり見かけなくなったのは、きっと世代交代したからなのだろう。つまり、竹本が推薦文を書いたような世代の作家が、今では「ベテラン」「大御所」級になって、そうした人たちが推薦文を書くようになったのではないか、ということである。
しかしながら私は、竹本健治が推薦した作品を、あまり誉めたことがない。
では、なぜそれでも、竹本の推薦書を買うのかといえば、それはまず、作家としての竹本健治を敬愛しているというのが第一。次には「竹本さんが推薦するのなら、きっと変な本だぞ」という期待があるからだ。私は「変な小説」が読みたいのである。
ところが、竹本が推進した新人作家の作品は、たしかに新人のそれらしく野心に満ちた試みがなされており、その意味では「変な作品」ではあるのだが、私に言わせると、それらの作品の多くは、変は変でも、単なる変に止まっていて、突き抜けるような「変」ではないのだ。それに何より、小説家としての力量において、いささか物足りない。
「変」さにおいて突き抜けていれば、小説として多少不出来でも許せるのだが、小説家自身の力量を補ってあまりあるほどの「変」さではないのである。だから、「期待したほどではなかった」という結果になってしまったのである。
そんなわけで、竹本健治が新人作家の推薦文をしばしば書いていた30数年前、私は「新人推薦者として信用ならないのは、竹本健治と大森望だ」と公言していた。
彼らが推薦する新人は、変は変でも、たいがいは突き抜けていないから、フラストレーションがたまるばかりの作品が多かったのである。
しかしながら今となってみれば、竹本や大森が、そうした新人を推したというのも、理解できないことではない。
竹本は、竹本自身が、究極の「変な小説」を書く「変な作家」なのだから、それに近いところを狙ってくる新人に期待するところがあったろう。「もっと、この手の作家が出てきて欲しい」という期待である。
だが、「変な小説」「変な作家」というのは、狙って生まれるものではなく、それは言わば「天然」であってこそ、傑作・傑物になるのだから、そんなものがそうそう生まれてくるわけもなく、読者の方が、そのあたりに期待しすぎるのは、たぶん間違いなのだろうと思う。
一方、大森の方も今となっては明らかなのだが、やはり「変なミステリ」が好きなのだ。だがそれは、大森がもともとは「SF」の人だからで、正統派の本格ミステリには、さほど愛着がなかったからではないかと思う。
つまり、SFに通づるような魅力のあるミステリ作品を、大森は積極的に推薦したのだろうが、それはミステリファンからすれば「少しズレている」ということになったのではないだろうか。
そんなわけで、本来ならば「信用できない推薦者」である竹本健治の推薦文がついた新作ミステリなど敬遠したほうが良かったのだが、それでもまたぞろ読んでしまったのは、本書が「翻訳ミステリ」であったからに他ならない。竹本が、翻訳ミステリの推薦文を書くのはきわめて稀なことだったので、今回は期待できるかもしれないと、そう考えてしまったのだ。
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本書には、竹本健治による、次のような推薦文が付されている。
これは、まったく嘘でも誇張でもない。
本書は、竹本健治が推薦していることからも予想されたように、いわゆる「メタ・ミステリ」である。それも、冒頭から、そうとわかるかたちで書かれている。一一こんな調子だ。
このように、作者である「創造神の声」が、絶えず読者に囁くのだ。「ミステリとは、こういうものですよね。当然、ミステリ読者であるあなたは、このようなことを期待しているのでしょう?」と。
そして、登場人物の描写にあっても、それが「ミステリの定法では、こういうものですが、その意味するところは」こうだとか、ミステリの歴史的蘊蓄を交えながら、ミステリというものの本質を論じたりするのである。
だから、ある程度、本格ミステリを読んできた者には、その蘊蓄がなかなか楽しい。半分くらいは知っていることだったとしても、作者は作者なりの解釈を提示しているから、それなりに楽しく読めるのである。
そして同時に、このような「蘊蓄」や「形式的実験」の数々は、当然のことながら、単に作者が「変なこと」をしたかっただけではないだろう、という当然の疑いを、ミステリマニアであればあるほど持たされることになる。
マジシャンがそうであるように、そういう「変な方向」に読者を惹きつけているのであれば、その裏に「逆方向の何か」が隠されているはずだと、そう考えるのだ。
つまり、これ見よがしに「メタ・ミステリ」の形式を備えている以上は、だからこそそこに「オーソドックスな本格ミステリ」としての仕掛けがなされているのではないか。であるならば、見かけ上のあれやこれやを楽しみつつ、しかし、その裏に隠された「作者の意図」と見抜いてやろうと、そんな二重性を持って読んでいくからこそ、本作は「面白い」。そしてこれこそが、竹本健治のいう『読みの快楽』なのだ。「作者と読者のチェスゲーム(読み合い)」だ。
だが、結論から言うならば、本作には、そのような「裏」が無かった。
つまり、「メタ・ミステリ」の形式を採用することで、「オーソドックスな本格ミステリ」のどんでん返しを実現するというタイプの作品ではなく、ラストは当たり前に「文学的」なのである。
ラストに至るまでの「メタ・ミステリ」的な仕掛けの延長線上に、本作のラストは存在していて、その意味では「守備一貫しており、意外性が無い」から、本格ミステリとしては、期待はずれなのだ。
それに、こうしたパターンの「メタ・ミステリ」であれば、半世紀も前に流行った「ポストモダン文学」の実験小説として何作も書かれており、それでも本作が「新しい」と感じられるとすれば、それは本作が「ミステリ・マニア」によって書かれた、という点だけであろう。
本書裏表紙の背面の「作者紹介」には、
とあるけれども、本書を絶賛した人たちの多くは、きっとポストモダン文学を読んでいなかったのであろう、本書の著者とは違って…。
つまり本書は、解説にもあるとおり、イタロ・カルヴィーノなどのポストモダン作家の作品を愛読してきた、しかし、ミステリマニアでもある作者が、ミステリを題材として書いた「ポストモダン小説」的な作品だと言えるのである。
だから、ミステリとしては「オチていない」し、文学としては「むかし読んだことがある」ような作品で、「新しさが無い」。
ミステリしか読んでこなかったような、今どきのオタクなミステリ作家たちには、本作が新しかったのかもしれないが、そうでない者には、いささか「いまさら感」のある作品となってしまっていたのである。
だから、私としては、「ミステリを題材とした、ポストモダン小説的な作品」ではなく、そのさらに一枚上手をいく作品を書いて欲しかった。
そしてそれは、日本ではもうずいぶん昔に書かれており、日本のミステリマニアならば、当然の如くみんな読んでいるのである。一一合う合わないは、別にして。
だから、そうしたすれっからしのミステリマニアからすれば、本作程度では「今更これか」感が、免れ得ないのだ。
もちろん、本書を高く評価できなかった人の中には、そうした「日本のアンチミステリ」も読んでなければ、ましてや往年の「ポストモダン小説」の傑作も読んでいない人も少なくないのだろう。その上で、本書に、素直に「裏切られた」と感じた人も少なくないはずだ。
若い読者であれば、読むべき本をまだ読んでいないというのは仕方のないことだし、素直すぎる読み方しかできないのも、致し方がないだろう。
だが、だからこそ、本書が期待はずれだっだという人は、せめて、次の2冊は読んでほしいし、それでも、こうした作品が合わないというのであれば、それはもうその人には「本質的に合っていない」ということなのだから、以降は素直に「定石どおりのミステリ」だけ読んでいれば良いと思う。
しかしまた、より広い世界を見て、単なる「どんでん返し」や「形式論理」以上のものをも求める気があるのであれば、その2冊を読むべきである。
その2冊とは、本書の推薦者である竹本健治のデビュー作『匣の中の失楽』と、その更に上をいって、文学とミステリにまたがって屹立する伝説的な巨塔、中井英夫による『虚無への供物』であることは、もはや言うまでもないだろう。
読者よ、この2作を読まずして、ミステリなり文学を語るなかれ。
(2024年6月27日)
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