経験論と合理論の融合:カント
イマヌエル・カント(ドイツ:1724年ー1804年)の哲学は画期的なんですけど、難しい。私もまだ理解が追い付いていない。
ですので、今回は定義されている言葉をひとつひとつ、わかりやすく説明していき、最終的にはどういうことを言いたいのかを紹介いたします。題目にある通り、今まで紹介してきました「イングランド経験論」と「ヨーロッパ大陸合理論」を融合させた理論を展開していきます。
どうやって、融合していくのか?多くの絵を使って合わせて説明していきます。
ちなみに、イングランド経験論とヨーロッパ合理論はこちらをご覧ください。
カントは、「人はモノをどのように認識しているか」のメカニズムを明らかにしました。
まずは「直観」
直観とは、対象があって意識が触発されること。
「あ、なんかあるかも」。対象があれば生じるし、対象がなければ生じない。
次に「感性」
感性とは、対象が形になった表象を受け取る能力です。枠組みとしては、まだ思考前の状態なので、時間的・空間的に意識しています。
「そこに、今あるかも」
対象から与えられるさまざまな感覚を空間・時間の枠組みによって位置づけて「直観」をつくる働きをします。
そして「梧性」
梧性とは、感性に与えられたものに基づいて、対象を構成する力、つまり物事を理解する能力です。
この時「概念」が生じます。「どうやってまとめようかな」
梧性には、判断の基準となるカテゴリー(量・質・様相・関係)が備わっています。これによって、認識対象は整理され、どんな状態にあるのか判断することができます。
「赤くて、小さくて、あの形、木のそばにあるから、リンゴだな」
これは私たちが今まで踏まえた経験をもとに、梧性によって認識したわけです。
人間はみな、同じ認識の仕組みを持っています。同じような身体を持っているので、そうなりますよね。加えて、同じ知識・経験を得ると、なおさら、同じような認識を持ちます。
これを「共有」と言います。
同じ認識を共通した理解のもと有しているということです。こう考えると、数学や自然科学の因果性などの認識について、異なる文化であっても共通認識が成立している理由が理解できますね。数字は全員が理解できる共通認識。(ここまでは、経験論)
見えない世界、経験できない世界、認識できない世界があります。例えば、「神」です。認識できないけど、存在するということが可能です。
面白いでしょう。あまり深く考えたことないですよね。認識できるものだけが存在するのではなく、認識できないものも存在するんです!
なんで、存在できるかというと、
人間には「理性」というのがあるからです。
理性とは、推論する能力です。物事の存在理由を徹底して問い続けていき、完全なものを目指す本性を持っているからとされています。
今は認識できないけど、いづれわかる。昔は風邪をひいたら、悪魔が体に入ってきたと思った。でも、今は認識できている。ウイルスが入ってきて、身体に異常を与えている。
さきほどの「共有」の箇所で説明したように、人間は同じ認識メカニズムを持っている。
これによって「理性の共有」も可能である。
同じような推論になる人はあちらこちらでいておかしくない。また、その推論を聞いて、そう思うことで共通理解となる。(ここまでが、合理論)
さて、カントの結論です。
私が認識できることは存在しているが、他者が認識していることはわからない。でも、私には推論することができ、それは他者が考えていることを推論もしくは認識することもできる。
よって、私自身は認識できていないけど、他者と共通理解が出来れば、認識できる。
これを「客観的認識」と言います。
先述の「経験論と合理論の融合」ですが、
「私が認識できることは存在しているが、他者が認識していることはわからない」=経験論
「私には推論することができ、それは他者が考えていることを推論もしくは認識することもできる」=合理論
「私自身は認識できていないけど、他者と共通理解が出来れば、認識できる」=融合・客観的認識
ということになります。
これをもっとコンパクトにシンプルに言いますと、
「私たちはモノを認識しているわけではない、モノが私たちに合わせて存在している」
哲学書っぽくて、やっぱり難しいですね。
つまり、私たちが、リンゴが赤いと認識するのは、リンゴが赤いからではなく(リンゴ自体が赤いとは限らない。他の動物・昆虫には黒く見えているかも)、私たちは、リンゴは赤い、としていて、そう見えている。
この発想の転換を「コペルニクス的転回」と言っています。
今までの考え(常識)をひっくり返した考えというわけです。新しい普遍性の捉え方ということですね。
おまけ。(カントが考える自由)
カントは、正しい判断は何に基づいているかの理論も考えています。「定言命法」という条件があります。簡単に言いますと「あなたの意志の基準が、常に皆の納得する法則に合うように行為しなさい」
皆の納得する法則とは、だれが採用しても不都合や矛盾の生じない、常に当てはまる原則ということです。これを自主的に従うことを「善意思」といい、この意思に基づいた判断が正しい判断としています。なかなか出来ないけど。。。そうしたほうがいいよね、やっぱり。
その善意思を基礎とした人格で自律できていれば「自由」であるとしています。つまり、
自由は、自己中心的な衝動を抑制し、他者のためになる善き行い、道徳的な行為によって実現される。
今回は、文字にすると、その言葉自体がわかりにくく、文章自体が理解できないことを恐れ、一つ一つの言葉の定義を絵にしました。
このパターンはいいな、と今思った次第です。難しい言葉使いすぎ、だよね。それの方がインパクトあるのかな?
次回は、ヘーゲル!
親友を見捨て、恩師を裏切り、結婚詐欺までしていると言われているブラックなヘーゲルですが、「弁証法」という今でも使われている議論による解決法を生み出しています。こうご期待!
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