ため息俳句 桜の花、三つ。
我が家の桜は、大島桜の交配種であるらしいのだが、低く矮小な樹である。
夕刻近くその樹の下に、一輪落ちていた。
そこで、ごちゃごちゃに交差する枝の内を子細に見ると、あと二輪咲いていた。
どうやら、花を三つ咲かせたようだ。その一つが、地面に落ちていたのだ。
落ちた花を拾って見ると、本来春の咲く花に比べると、なんとも貧弱に痩せた花であった。
季節外れの桜が咲いたというのは、先月まで続いた暖かい秋の異常気象に関連付けられて、話題になったのを覚えている。
が、我が家の桜は、毎年こんな風に花を咲かせるので、今年に限ってのことではない。この樹はそういう性格を持っているらしいとすれば、これは「狂い咲き」というわけでない。この樹にどれほどの数の花が咲くか、カウントするのは不可能であるが、中にへそ曲がりがいて今頃になって、ぽっと咲くのである、そういうのが紛れ込む気質の樹なのだと思う。
歳時記なんてものは、人が感じる季節感を制度化するようなうさん臭さがあって、自然の変化に感応する人の心は、人それぞれであろうにと思うのだ。
この桜だって、たった三つであっても、今咲くことを珍しがられては、こそばゆいだろう、ただ今咲いたというだけのことだから。
人もね、そういう風に気の向くまま生きて、たとえ小さな花であっても、日陰の花であっても、あだ花であっても、ちょこっと好きな時に「花」になれればいいねえと、爺ィは思うのだ。
ふっふふふ目覚めて今の花となる 空茶
気まま花三つ咲く内ひとつ落つ
露の世の今宵朝花淡し
たかがとて花は花なり風白し