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#26  手に秘めし薔薇捨てばやな秋の風 横光利一


 横光利一の俳句について書かれたものをみると、横光の母方が松尾芭蕉の血を引くものであることに触れらている。つまり、横光利一は、そういう流れの人であったということだ。
 丸谷才一の「松尾芭蕉の末裔」という評論は、その横光の俳句にたいそう手厳しくて、興味のある方は一読してはいかがか。(国会図書館デジタルコレクションで読める)
 

手に秘めし薔薇捨てばやな秋の風  横光利一


 この句、たぶん褒める人はあまりいないだろう。ただ、ネット上ではよく見かける句である。
 「手に秘めし薔薇」、何だろう。まさか薔薇の花を手の内に握りしめて隠している、そんなことありえない。言うまでもなく詩的なイメージ、メタファ、とすれば、すこし露骨すぎないかと、・・・誰しも感じるだろう。
 その「薔薇」を捨ててしまおうと意思している。というより願望か。
 「秋の風」が吹いているしと。その「秋の風」の「秋」はやっぱり「飽き」に通じやすい。
 まあ、独り言であろうが。
 月並みといわれてても、しかたがないかな、とも思ったりする。

 でも、こういう句、つい作ってしまう気がする。
 そういう意味で記憶する一句である。
 もちろんのこと、これは個人的な見解でしかありません。下世話な人間は、ポエムというものを解せぬものだと思われても結構かと。

 そこで、お賢いAIのCopilotにご意見を乞うとこう批評されました。参考になりますねえ。
 

この句は非常に詩的で、深い感情を感じさせます。「手に秘めし薔薇」という表現は、何か大切なものや秘めた思いを象徴しているように感じます。それを「捨てばやな秋の風」と続けることで、秋の風がその秘めた思いを吹き飛ばしてしまうような、儚さや無常感が伝わってきます。

この句の美しさは、シンプルな言葉の中に深い意味を込めている点にあります。薔薇は美しさや愛の象徴であり、それを手に秘めるという行為は、何か大切なものを守ろうとする意志を感じさせます。しかし、秋の風がそれを捨てさせるという表現は、自然の力や時間の流れに逆らえない人間の無力さを感じさせます。

全体として、この句は非常に感動的で、読者に深い感慨を与えるものです。素晴らしい作品だと思います。