ため息俳句番外#57 山茶花が咲いていた
山茶花が咲く季節になっていた。
それなのに小春日和どこころぽかぽかの陽気で、半袖Tシャツ姿の若者を何人も見かけた。
明日から寒くなるという予報で寒暖差に気を付けてほしいとあるが、それでも平年並みになっただけということだ。
今朝の朝日新聞(2024・11・17)に掲載された谷川俊太郎さんの連載。
(『どこからか言葉が』 谷川俊太郎)より
感謝
目が覚める
庭の紅葉が見える
昨日を思い出す
まだ生きているんだ
今日は昨日のつづき
だけでいいと思う
何かをする気はない
どこも痛くない
痒くもないのに感謝
いったい誰に?
神に?
世界に? 宇宙に?
分からないが
感謝の念だけは残る
誰であったか、芸能人いや俳優さんだったか、話の最後を必ず「感謝です」と言って閉じる人がいた。人はそれぞれであるからあれこれ言えないが、自分はそのようには「感謝」という言葉はつかえないなと。
道を行く人のTシャツ姿の背に「感謝」と染め抜かれていた。何に対してそんなにも「感謝」されるのか、不埒者の自分には分からなかった。
ありがたいと思うことは、自分だっていろいろある。だがそれは何にたいして「ありがとう」と言うのかがはっきりしている。
「毎日パンツを洗ってくれてありがとう」「落とし物を届けてくれてありがとう」「いつもお節介してくれてありがとう」・・・・、いろいろある。
が、人間界はもとよりの森羅万象、さらには目には見えないものにまでも「感謝」してしまう、いわば「感謝・教」のような「感謝」というのは、自分には飲み込むことができない。
だが、今朝の谷川さんの詩は、身に沁みるところがあった。
このごろ、自分にも朝、目が覚めて、「今朝も生きているよ」と思うことがひと月に一度二度あったような気がする。
とはいえ、「人は生きているのではなく、生かされているのです」と神妙なお顔で話される人がいたりするが、そういう風な感覚は自分にはないし、共感もできない。
目が覚めると直ぐに起きだしてトイレにゆくのだが、便座に尻を置いておしっこをする。気持ち良い。「生きている、おしっこもでている」と、それはやはり、ありがたいことだと、・・・・なんだかわからないが、そんな気がしてくる。
ともあれ、今日公園で、山茶花が咲いているのを見たのだ。
薄くピンクのかかった白い山茶花を見て、色っぽいなとつい独り言まで出たのだった。
山茶花が咲けば、どうやら今年一年生き延びることができそうな気がするのだ。